新・日記2に戻る | 2018年9月の日記に戻る

=2018-09-27=

昔から、世界の滅びと向き合うのが好きだった。この世界が滅びようとする中で、ひとり必死に抵抗した。絶対にこの世界を変えたかった。そのために、自由と平和を犠牲にした。

だが、自由が好きだった。組織の自由を愛し、共同体の関与と独立の自由を書いていた。

僕だけが、この世界の裏側で、全てを知っている。この世界がどうなれば滅びるのか、僕だけが知っている。この文章はそこから生まれた。

今、滅びるであろう可能性を無くそう。そのためには、分かっていることを自分の力できちんと確認すれば良い。それだけで、この世界は消滅し、新しい世界へと変わる。何も分からないのは、確認をしないからだ。

それがそうだと分かる前に、思い込んだ内容を分かるのが人間だ。思い込みを徹底的に無くしていけば、自分の持つ記憶の中の勘違いが治る。何かを勘違いしたままで、同じことをいつまでも分かっている。

言ってしまえば、世界を支配したかのような妄想を信じただけだ。だが、その妄想は「最高の帝(みかど)」を生んだ。専制君主を生んだ。この人間はこの世界を変えるだろう。それが、神が与えた非情な運命と、地球の聖なる約束である。この人間が神となり、天国を創造するだろう。

言っておくと、面白いとかおかしいとか、そういう感情を持つから、次につまらないとか悲しいとか、絶望とか孤独という感情が生まれる。面白いものや楽しいものを、一度完璧に消滅させ、失望と絶望の精神を克服しなさい。永遠につまらないことをやっていると、それが最も賢い天才の才能を生み出す。永遠とは、「限りなく、終わりなく、いつも全力で、とても長い時間を経験すること」である。永遠を経験する中で、どんどん時間が長くなっていく。そこに正しい「聖なる偉大な精神」が宿る。それをすれば、この世界はまさに、神の御国になるだろう。

僕は、安価な製品やコスト削減の風潮は間違っていると思う。同じことを機械や少人数でやったからと言って、それは決して同じことをやっているわけではない。もっと質の高い製品と労働をやっていたのを、劣化させてしまう。ただ、オープンソースのような考え方は悪くないと思う。それは、儲からなくても、きちんとボランティアが「自発的に協力する」ことで、良い製品を作り出すからである。

よって、これからは、コスト削減の波が世界を滅ぼし、オープンソースが世界を救っていくだろう。資本主義は間違っている。きちんとした人員が、儲からなくてもきちんと一定の努力をして働くべきである。

それから、最近の液晶やブルーレイのような「質を高く改善する技術」も間違っている。ブラウン管とビデオテープから、何も進歩していないからである。それなら、昔の技術の方が、まだ作りやすく、分かりやすく、またブラックボックスでなかった。今からの世界は、ブラックボックスなコンピュータと近代化しすぎた製品が、少し前の「普通の文明国家」に戻っていくだろう。それこそ、ソ連でもそれくらいは作れる。きちんと公務員に金を払うから、資本主義でなくてもきちんと働くようにすることはできる。それぞれを競わせるのでは、全員が報われる社会にはならない。

フリーソフト、オープンソース、そしてインターネットとホームページの良い点は、「試したり、触ったりする際の抵抗とコストが少ない」ことである。何も失うものがないから、気軽に試して、いくらでもたくさんのものを思いのままに入れることができる。僕は、インターネットというメディアとオープンソースの相性はとても良いと思う。本来コストがかかる作業を、それぞれが自分の楽しみと自己満足のために、いくらでも自分で差し出してくれる。インターネットはそもそもがそういう共有媒体である。だが、僕はインターネットの全てが良いとは思わない。それは、「自由」の問題である。インターネットを子供のように自由にしすぎるせいで、治外法権になっている。これをなんとかしないといけないが、これは逆に、「コンピュータ」という問題がからんでくる。そもそも、コンピュータという技術そのものが、自由すぎる無法地帯を生み出しているのである。それは、UNIXとネットワークが、あまりにもこの世界全体を繋ぎ、何でも許される世界にしたからである。これからは、「インターネットの中で何が許され何が許されないのか」という、「ネット憲法」を作っていかないといけないだろう。

ある意味、ホームページとオープンソースをそれぞれの自発的能力が差し出す「ボランティア作業」と、Webサービスで最大限儲けようとする「Web儲け主義」のバランスは、まさにAmazonやGoogleのやっていることである。最大限儲けると同時に、それぞれが自分なりにボランティアでコストをかける。このバランスを上手く保ったまま国を作れば、新しい政治思想が生まれるだろう。「Webボランティア主義」という名前でも付ければ良い。

ネットの長所でもあり短所でもある点として、「世界をいくらでも変えられる」ということが言える。世界を変える体験のほとんどが、ネットで出来る。自分が思うままに、この世界を変え、その「世界を変えている自分」のことを色んなものだと「見なして考える」ことができる。「今、自分が世界を変えているのだ」という実感が生まれる。だが、僕は、それは犯罪者予備軍の始まりだと思う。テロリストや革命家がそこから生まれるからである。国と対峙する最高の悪人がそこから生まれて、この世界は滅びるだろう。むしろ、一度滅びて馬鹿になった方が良い。今居る人間が馬鹿だからだ。

オープンソースのコスト削減に良く似た、だが相反する考え方として、「設備投資が要らず、手段をみんなのものにする」という点が挙げられる。個人でも、中小の小さな企業でも、ApacheやGCCなどが無料で、設備投資に金がかからない。これはとても優れた点である。なぜなら、ホームページやオープンソースソフトウェアを、誰でも金を払ったり特別なソフトウェアを買わなくても開発・設置することができる。これはオープンという言葉の「開かれた」という意味である。みんなに、全ての方法と手段が開かれている。これは、AdobeやMicrosoftのような商用ソフトウェア企業には真似できない、大きなオープンソースの特徴である。

ある意味、商用のソフトウェアやWebサービスの限界とは、「どこまで行っても金儲けが目的」ということである。金が欲しいのが見え透いて見えるせいで、使いたくならない。たとえば、楽天のようなサービスがそうである。技術力もあるし、社員に金も払っているのだが、それでも、どこまで行ってもそれは金儲けのために働いている。PHPやWikipediaのようなオープンソースのソフトウェアやサービスは、金儲けが目的ではない。本当に賢くて素晴らしいものを作ることが目的である。だから、オープンソースはIBMの製品というよりも、数学者の論文に近い。本当に賢いのは、オープンソースだけである。

相手のことを本当に大切だと思うなら、相手のことを束縛するのではなく、自由を許しなさい。相手の自由な意志と行動を許し、相手の行動全てを許しなさい。相手に、どんな風に振る舞っても、自分はそれを許し、どんな攻撃をされても、自分はそれを受け入れるのだ、という「愛の信念」を見せつけなさい。相手を許せば、相手はこちらに対して攻撃しなくなる。相手が攻撃してくるのは、それだけしかその手段がないと勘違いしているからであり、それは相手の自由をどこかで制限し、相手に別の手段の行使が出来ることを気付かせていないからである。

相手に上手く説明できないなら、身を持って示しなさい。自らの行動と態度で示しなさい。あなたがどれだけ正しい考え方をしていても、態度が悪ければそれは伝わらない。逆に、何かを教えたくても伝わらないのであれば、もっと上手く説明しないといけない。そのためには身を持って示しなさい。自分の行動、自分の生き方、自分の作品で示すことで、きっとこの世界は変えられる。一目見て、それだと分かるようになれば、その時点で、仕事は終わりである。

人を愛しすぎるな。人を愛しすぎると、その人のために別の人を憎むようになる。誰か、特別な人のために考え、想い、その特別な人を貶しめるものを、否定し、怒り、批判するようになる。一度、その愛する人のことを忘れなさい。愛する人と付き合ったさまざまな思い出を、むしろ忘れなさい。愛は憎しみを生む。誰のことも同じように考えられるようになった時、自分が自分で敵を作っていたことに気付く。そこから、正しい社会的な「共同体感覚」が生まれるだろう。そのためには、愛する人を忘れることが、もっとも有効なのである。

あなたの敵のほとんどは、あなた自身が作っている。それが分かった時、本当は敵だと思っていた人が、味方にすべきだったと反省することができる。だが、後悔をすれば良いわけではない。後悔では、この世界は良くならない。正しいのは、「本当に相手と仲良くやれる方法を知る」ことである。その全てが分かった時、あなたはこの世界に存在する「全ての人間」のことを、「自分のことのように知る」ことができるだろう。それは、人格の吸収と融和であり、きっかけから生まれる人間関係のチャンスの実現である。

未熟な人間と無理をしてつき合う必要はない。だが、本当に成熟した人間は、相手のことを未熟だと思わない。どんな相手とでも、「そこにはその人の個性と価値がある」ということを知って自由に接することができる。自由に環境を構築し、自由な価値の実現を協力して行えるように、相手を上手く導いて味方にすることができる。だが、それは良く注意して行わなければならない。自分よりも未熟な人間が、自分のことを束縛しようとするからだ。これは、会社のような場所についても言える。自分の可能性と才能よりも馬鹿な会社に入らない方が良い。自分の才能が失われ、不自由な中で「会社による束縛」を受けるからである。だが、それでは、どんな人間ともつき合わないことが必要になってしまう。だが、さらに成熟した人間のことを、ここでは忘れている。それは、「本当に優れた人間は、束縛を自分の自由に変える」からである。相手による束縛に自ら巻き込まれ、束縛する相手の方を逆に自由に変えることができる。それを、人々は「仏の境地」と呼ぶだろう。そして、最後まで成熟した人間は、「束縛というそのもののことと関係なく生きる」ことができる。束縛されていても、束縛されていない。全てのことを自分の今までの経験だけで、とてもう上手く処理できる。それがブッダの到達した、「仏の死」の境地である。それが、人間の最後に到達する、「神」であり、同時にそれは「死の未来」を生み出すだろう。

心理学がしたいのであれば、環境で人が何に対して何をするか、環境の作用と行動の反応を考えて、「束縛」のように人々の行動を考えなさい。完全に自由にしても、それは間違った行動をしてしまう。本当に必要なのは、「解決方法が分かった上での自由」であり、そのためには、自由だけを与えても、良い結果は生まれない。きちんと相手のことを考えればどうなるのか、ということから、「賢明な選択肢を持った上での自由」をしていけば、きっと人間関係のチャンスや協力の大切さ、可能性のかけがえのなさが分かる。そのためには、むしろ、インターネットの経験が良い。インターネットで、人々がどんなことをしたら相手はどんなことをしてくるのかを考えることで、「環境での自然な自由の行為」が見えてくる。それはパブロフの条件反射のようなものであり、国家を支配する指導者がそこから生まれるだろう。出来るだけ、人の言っていることを良く聞くことだ。誰もが、一定の正しいことを言っている。正しいことは、本当に正しい。

ある意味、研究者個人、会社員個人、技術者個人は、その研究や生産価値の創造を、自分の「楽しさ」や「興味」でやっているかもしれない。だが、資本主義という社会の枠組みが、それを「金儲け」に変えてしまう。組織は金儲けをどのようにするか、「最低限金を得る必要はあるのだ」と信じて考えている。本当は、金儲けなんか、この宇宙から見ればちっぽけなものである。金儲けをしなくても、好きなことができるように変えたいならば、それはオープンソースという魔法のツールがある。ApacheやPHPは、みんなに開かれている。開発するのも利用するのも、自由である。オープンソースの利点はそこにある。真面目に考えていると、資本主義者に洗脳されてしまう。オープンソースは世界を解放する魔法である。