本気で、昔の自分はかっこよかった。世界を必ず救い、人々に自分の全てを与え教えると決意して、分かった上で文章を書いて世界を導いていた。
何も出来なくても、自分自身が「強く在る」ことは出来る。そこから、未来の可能性は開ける。
ウィトゲンシュタインの言う、言語ゲームが終わった。言語で遊ぶだけのありえない体験はもう終わりだ。
僕が不登校になった理由は、要するに、いじめっ子からいじめられるのは怖くないが、親友からいじめられるのは怖い。だから、親友と同じクラスになった段階で僕は不登校になった。
自分は、いつまでも障碍者の施設に入っている意味がない。だから、職業訓練でプログラミングでも受けて見ようかと思っている。
そろそろ、怖いのが治った。本当に、友達からいじめられたり、裏切られたりするのが怖かっただけだ。そこが治ると、もう、引き篭もりになって何もしなくなったのが治る。自分のような人間を愛せるようになる。
昔は、子供の心理のようなことを分かっていた。学校のような環境で、いつ何をするか、人々は何を知っているのかから、ネットを体験して分かっていた。世界に子供しか居ないと思っていたのが間違いだった。大多数が馬鹿であっても、自分の方が賢いことをする可能性はある。だから、昔の心理学は参考にならないが、完璧な哲学を持った心理学者の物理学者・歴史家だった。
自分の自由から、歴史的にこの世界のことを分かることが多かった。大学は誰でも作れると思っていたし、自然な積み重ねによって世界は常に生み出されている、といった考え方があった。全て、自分の人生経験から、歴史や社会のことを考えて生まれた考え方だった。その背景には、子供のように心理学を考える「コドモ心理学者」が背景にあった。
本当は、今まで自分が「かっこよくやっていた」ような、「王の支配」をもう一度やれば良い。ここまでをソロモンとして、今からをダビデとしよう。もう一度、この世界を支配して、今度は最高の導きを与えよう。途中でグダグダになって何も起きなくなる、全てを失ったソ連のソロモンはここで終わりである。ここから先、どんな思想家になるかは分からないが、もう一度この世界を「単純な環境」として支配すれば良い。きちんと出来たら、今度こそは良い世界になる。それで、僕の約束したはずの、「運命のガンダーラ」が復活し、永遠に続くようになるだろう。ここまでは、ただの一般的な普通の専制君主だ。帝国とは言うが、国民のことは考えず、ただ勉学と芸術だけをやっている。ストイックな学者の王だった。
ダビデが最高の王になることが、聖書は既に分かっている。ダビデはユダヤ人を救ってイスラエルを建国するだろう。完全な「神の支配」を行う。この世界は復活し、問題は消え去り、最高の「新しい秩序」が生まれる。人々は自由に才能と個性を伸ばし、人々は愛に気付いて世界のことを自ら救えるようになる。英雄の最後のローマ帝国である。最後の支配者がやるべきことは、唯一ひとつだけ、それは「このまま続ければ良い」ということである。安室奈美恵も、特別なことは必要なく、今のまま続ければ良いと言っていた。それは僕だけではない。日本人のみんなが、今のまま続ければそれで救われる。だから、地獄に堕ちても希望を疑うな。希望を疑わない人間には、いつか希望が訪れる。神は信じるものしか救わない。
相手のことを許して、相手のことを許せなかった自分のことを許しなさい。
未来は変えられる。いつまでも同じ未来を望むから同じになっているだけで、それは望まなければすぐに変わる。
不可能なことなど何もない。不可能だと思っているのは、騙されているからだ。騙されているのを無くせば、不可能は無くなる。
自分で限界を作っていることもある。考え方が、少し馬鹿なだけだ。自ら、何も出来ないのが当たり前であるかのように考えているから、出来ることを見失っている。きちんと言葉にして、きちんと知って考えれば出来ないことはない。きちんとそのことを「言葉」で捉えれば良い。学校を変えることも可能だ。たくさんの課題があるように思える時は、それを「現象と法則」のように、「二つの言葉」にして分類しなさい。そこから考えれば、知性によってこの世界の様相は変わっていく。全ては自分の認識と自分の気持ちの持ちようである。全てを可能だと思えた時、はじめて安心が訪れる。全てのことが可能になれば、心に根が張り、この世界を高い立場から見渡すことができるようになる。科学者は芸術家になり、善良な王になる。
人間とは、「する」存在ではなく「なる」存在である。そこには、「自分が自分たり得る価値観を規定する」という「アイデンティティの束縛」がある。そして、そのアイデンティティが生まれるためには、「支配者からの自由」と、「世界を知る手段」が必要である。本当の意味で自由になることはできない。だが、知り、考え、経験する中で、自由は高まっていき、人生はより高度で高次元になっていく。条件を積み重ねていくことで、この世界の様相を物理的に考えられる。その上で「いつ何がそうなるか」を考えれば、心の中でこの宇宙全ての現象をシミュレートすることができる。それは、最高の哲学的思考による新しい物理学であり、それは言葉と感情の成り立ちと振る舞いを計量的(定理と証明)に考える新しい数学である。
問題や意識を計量的に考えること。たとえば、意識して問題を見つけたのと、意識せずに問題を見つけたのは違うし、意識して問題がなかったことを知るのと、意識せずにいつも問題がなく動いているのは全く違う。無意識と意識、問題だと認識するかそうでないか、これらに共通しているのは、「恒常的な問題の発生を、自分はどう捉えているか」という「常を知る理性」である。昔の僕は、この「常を知る理性」が多かった。この世界の常を考え、どのような問題が「いつでも生み出されている」のか、そしてその「常に発生する問題は本当はどのようにすればきちんと解決するのか」を分かっていた。完全に、この世界の全ての問題を解決し、「本当の意味で環境の問題全てを解決する」ことや、「解決へと進むよう導いて促す」ことができるようになった。基盤を変え、教えることで、この世界を正常に出来る、救済の王だった。王となるべき経験は、スラムのような場所で、みんなの共通の一体感の意識による平等で分かっていた。みんなの意識を知って、何が人間の素晴らしさを生み出しているのかを知った。それは、大航海の中での航海日誌のような旅だった。
「本当の意味で自分のことを許す」ということが出来た時、はじめて他人のことを許すことが出来る。そのためには、自分のことをなぜ許せないのか、という「自分を何が束縛しているのか」を知ることが大切である。自分が自分を束縛している原因を、他人との関係や他人への認識で探っていく。僕の場合、あまりにこの世界のみんなのことを馬鹿だと思っている。だから、逆に自分のことも馬鹿の一員だと思っている。何かが許せないから、そういう考え方が生まれる。自分で自分を束縛し、何かをしなければならないと思っている。本当に許すべきなのは何か、それは、裏にある自分の感情、「みんなのことをもっと支配したい」という感情である。みんなのことを支配せず、他人の自由を認め、他人のことを「無関係」であると放っておいた先に、自分のことも「自由」になれる、という関係が生まれる。無関係になれば、自由になるだろう。だが、心のどこかで、僕は無関係を望まず、愛を望んでいる。それは、みんなのことを本当に愛しているからだ。
昔は、実現可能な自由のモデルから、社会の成立の可能性を考えていた。特に「独立性を高める」という発想が多かった。自分の病気は、つけるよりも分裂させた方が良い。ついていない方が正常だからだ。だが、今までの全ては無駄ではない。精神はつけると分かるようになる。可能性から独立性を高めることを知り、モデルから自由な発想を知った。あとは、因果性と目的を考えただけにすぎない。ここで、そろそろ終わりである。本当に、今までのことに決着をつけよう。僕はあなたのことを愛している。あなたが誰か知らなくても、僕の中には確かな愛の感情だけがある。だから、本当にさようなら。嘘でも、夢幻でも、ここには何らかの愛があった。可能性が自然に生まれ、消え去る中で、変わらない大切なもの、それは愛である。また、歴史について言えることは、ひとつ、「まだ人類は何も分かっていない」ということである。それが、可能性である。ただ、同時に言えることは、時代が変わっても、自然など、変わらないものは変わらない、ということである。