新・日記2に戻る | 2018年9月の日記に戻る

=2018-09-22=

今日も英会話教室に行ってきた。今日は、We might have flying cars.のように、近未来に起きるかもしれないことを予想する、という会話の練習をした。

昔は、いつも、悲惨なインターネットの平等で分かっていた。それが賢かった。2ちゃんねるの平等の一体感から、社会のアイデンティティを知り、価値観の確立から、精神的なマスターとなって、理想の世界とは何なのか、どのように人々を導けば実現できるのかを分かった。最近は、果てなる体験をしながら、その実践的戦争をした、と言う表現が正しい。

国や宗教のようなものを分かっていた。イスラム、ロシア、キリスト、ドイツ、フランスを中心に分かっていた。

こういう、思考が吸い取られるように話す統合失調症の患者は、ただ自分になっていないだけで、普通の思考をしている。もっと、ロボットのように「言わされる」のではなく、自分から「言う」ようにすれば、すぐに治る。そのためには、そのままそれを表現するのではなく、分かった上で自分なりに表現すれば良い。なぜこうなるのかは、ロボットのように実際にしなくて頭の中でするようになると、こんな何も分からない人間になる。こういう人間は文字の読めない低学歴の白人や、アフリカの敬虔なキリスト教徒の黒人に多い。

本当は、昔の方がまだまともだった。理性的に、人間の精神的な現象や意識の変化を分かっていた。社会はボトムアップ的な反抗と秩序の規律の決定から、アイデンティティの確立などを通して、人々をどのように変え実現すれば、この世界が良くなるかを分かっていた。だが、最近はつまらないほどおかしい。最近は、果ての中で知性のないロボットになって、ドイツやフランスやロシアを適当に分かっている。

だが、どちらの体験が本当に良かったかと問われると、それはこちらである。ミカエルのような天使となって、世界を指導し、この世界を導いた。「自分にもそんな偉大なことが出来た」という達成感と誇りが、それ以後の勉強や哲学や歴史、そしてデザインやパソコンの学習における「前を向いて歩む力」を作り出した。これぞ、ガブリエルである。まさに神は全知全能であり、偉大である。そのわけは、ただ狂っているからだ。神とは、そうした人間の思い込みと妄想の産物だ。だが、天国に逝けることを信じれば、死も怖くない。

これを良かっただと言えるのなら、あなたは幸福である。最近は、どんどん悲惨な世界になっている。昔の僕のように、統制されたいじめ少年が増えた。この世界の中で、希望も無く、2ちゃんねるで絶望を共有する、平等がどんどん増えている。だが、それらは幸いである。天国の体験は、彼らのために用意されているからである。キリストは、そういうことを言っている。終末はもう、ここで終わりだ。これ以後は、天の御国が近づくだろう。そもそも、キリスト教のせいで、ここまでの馬鹿がキリスト教以外を倒す。これが素晴らしいユダヤ人の平等の理想である。

誰も自分の本性を知らないだけで、こんなに偉大な経験をしたのがこの日本人である。だが、放っておくと、むしろ、過去のことは忘れてしまう。キリストの地獄は、地獄であるうちが幸せで賢い。ここまで終わっても、頭の中はたった2時間しか経っていない。この10年はたったの2時間である。逆に、昔の青春の4年は、3000年のような4年だった。僕が一番賢い。だが、僕のやることは、まだ終わっていない。ここで、ひとまず、途中のゴールだ。ここで休まないと、もう休めるポイントは無い。疲れはここで取っておかないと、あとで疲れを取れなくなるだろう。疲れが取れないのは虫歯のせいである。普通の「良い疲れ」をここから感じられるようになる。

昨日は、家のパソコンで「Illustrator(イラストレーター)クリエイター能力認定試験」という資格試験のサンプル問題を解いていた。スタンダードの方だったが、思ったより、というよりもひどく簡単だった。分からないところは少なかったが、サンプルプログラムのインターフェースが分かりにくくて、少し苦労した。簡単だったので、もしかしたら受けるかもしれない。

精神を治すためには、幻覚で文字が見えるのを治せば良い。文字が見える部分が足の異常である。

昔は、自由を守った上で、自由な方法で、自由を保持したままで世界を変えなければならないと思っていた。国が介入するのではなく、それぞれの個人が、権力を使わずに、支配せずに、相手に自分と同じだけの自由を認めた上で世界を変えなければならない。それは自由であると同時に、平等である。

だが、僕の間違っていた点として、決まりや義務を守らなかったのが悪い、と言える。引き篭もりになって学校から逃げ出したのは良いが、決まりや義務を守ろうとしなかった。決まりを守らないと、人は何も分からなくなって知性を失う。決まりを構築し、ロボットのように従うだけでは、決まりを守ったことにはならない。全体主義と言われても、みんなの意志や考え方を尊重した方が、人間は善良になって知性と理性がつく。自由ばかり求めていくと、理性を失う。どちらが革新でも保守でも同じである。決まりをきちんと守り、間違ったことをしなければ、人間は賢くなる。それは、誰かが見ているからというのではなく、神が見ているから、と言えるだろう。権力が必ずしも悪いわけではないが、巨大な権力は必ず腐敗する。宗教や思想はそこに介入する。

一度、この世界を治すためには、みんながきちんと従うようになるしかない。自由や平等による支配は反抗しか生まない。だからと言って、自由に反抗して不自由にすれば、良いわけではない。相手を不自由にするよりも、相手を自由にし、明らかに許されている方法で世界を変えるべきである。許されないことをする自由も、許されないことをする支配も要らない。必要なのは、「信じられる愛と理想」である。そして、信じられる愛と理想は、ここにある。これが愛であり、理想である。

本当は、勇敢なことを言えば言うほど人間は臆病になる。一度、一番臆病になった方が良い。それが一番賢い決断が出来るからだ。臆病な人間は勇敢になる。それが、精神のマスターの境地であり、地獄からの唯一の救いである。

人間の人生のほとんどは、臆病さとの戦いである。一度、みんなと一緒に活動する世界に戻れば良い。だが、それは臆病だから出来ない、というのであれば、それで良い。むしろ、臆病を受け入れた先に勇敢さが生まれることは多い。臆病な経験をたくさんすることで、人は恐怖を克服し、成長する体験をすることができる。そこに、精神のマスターは生まれる。最高の聖なる導きが、哲学者である神を生み出すだろう。臆病な自分の実体験から啓蒙と改革を知った人間に、恐れるものなど何もない。逆に、死を恐れず、勇敢に戦ってばかりいる人間は、どんなことにも恐れ、失敗も不安も一ミリも許せない、精神錯乱の完璧主義人間になる。

人間関係は、悪い関係を結び直して良い関係を機会として構築すれば良いと言うが、僕はむしろ、なし崩し的に友人関係を起こしていくのが良いと思う。「過去のことは変えられない」から、過去に相手がしたことや言ったことはどうしようにも無くなる。それならばいっそ、すべきことをどんどん推し進めていけば良い。だが、これも同じで、そういう人間が一番みんなのことを配慮せず、考えない、狂った問題児を生み出す。本当はひとつひとつの関係とチャンスを大切にしながら、敵ではなく友人になっていくべきだ。ただ、それは、僕は矛盾することではないと思う。最初から友人として振る舞えば、相手は安心して信頼してくれる。相手を信頼すれば、相手からも信頼されるだろう。

昔の自分は、関係を考えた後で、世界を変えることで分かっていた。啓蒙と改革の精神を知った後で、Linuxやインターネットなどの場所で、世界をさまざまに変える経験をした。そこから、ボトムアップや世界モデルのような、さまざまな「世界に映った自分の姿」を知った。そして、世界を自由なままで、「相手のことを完全に考えてあげた上で変えていく」という「愛の変化」を起こした。そこから、僕の長い旅は始まった。愛は間違っていた。本当に正しい理想は、愛ではなく、自分の中にある「自由」という信念だった。

狂って戦っていた時代、僕は神のように宇宙と現実の全てを分かっていた。完全に全てを分かって、常に一番正しいことを言う。本当に正しいのは、愛でも自由でもなく、聖なる「魂」という人生の理想だった。だから、神を信じる時代、僕が直面した「悪の魂」も、本当は間違っていない。だが、僕は新しい人生とともに、「善の魂」を作りたい。それらは表裏一体で、陰と陽である。必ず善の魂、愛の魂、自由の魂、人生の魂、正しい魂を作る。必要なのはラブでもフリーダムでもなく、ソウルなのである。それは椎名林檎が言うような、一番混じり気の無い、気高い青である。

あとは、文明と人生の歴史を書いていた。それは、精神のやり取りと、社会の具体的パターンの創造だった。愛とは運命であり、人々は自由だった。人生と社会の歴史を知る中で、この世界で一人、愛を叫ぶことが出来た。それは正しい導きであると同時に「最も間違った恋愛」だった。だが、ここまで来るためにそれは必要だった。そこには全ての始まりがあった。

自分が思うに、すごいとか、賢いとか、上手いとか、そういう風に思われるよりも、正直だとか、素直だとか、良い人間だと思われた方が良い。人狼ゲームのようなカードゲームでも、人狼として上手く嘘がつけることをすごいと言われるよりも、「あなたは根が素直だから顔に出ている」と言われた方が良いものだ。人間は、すごく賢い人間を目指しても、良いことなんかそんなにない。みんなから目標とされても、少し知っているだけで何も賢くないのが僕の執筆やデザインやLinuxの経験であり、正しいのは正直さとか、素直さとか、善良さである。善良を目指すなら、ただ善良を目指すのではなく、「善良とするにたる理由を知る」ようにしよう。ただ善良になるよりも、理由を持った上で善良になろう。善良になる理由があれば、その善良さをいつどこで発揮すべきかが分かってくる。そこから、この社会の「正義の意味」が分かってくる。理由と意味は、ほとんど同じである。正義の理由が分かれば、正義の意味も分かる。全ての社会の摂理がそこから見えてくるだろう。善良で無いものは、すぐに負けていく。きちんと分かった上で善良にする人間だけが、この世界で勝者になれる。もしあなたが脇役になっていたとしたら、主人公になれない理由はそこにある。自分で経験して、分かってほしい。

歴史は偶然の重なった自然な必然だから、決して勝者が善良であるとは限らない。だが、善良な人間は、全員がフェアで公平な条件で、きちんと分かった上で行えば、不正を働く人間には必ず勝てる。必ず、善良な人間が勝つ。だが、悪が勝つ時は本当にあって、それは「悪が勝つという確かな理由がある時」に勝っている。この解決策は、「同じ条件で同じようにやれば、誰でも同じ結果になる」ということである。善良な人間が公平な条件の下で、勝つための確かな理由を持って同じ条件で争えば、必ず勝てる。だが、全ての知識と能力が同じ条件であるか、勝っていないといけない。MSに勝つのであれば、技術力が勝っていない時点で、同じ条件とは言えないのだ。Linuxの劣悪な技術では、いつまで経っても同じ条件にはならないだろう。

僕が思うに、場には精神が宿る。だが、本当に必要なのは、「人間とか、生物とか、日本人とか、そういうフィクションに対する客観視」である。フィクションがたくさんあると、人間は分からなくなってしまう。客観視から、人は場の精神を知り、また本当に客観視をすることで、意識の現象学を知ることが出来る。そこにある意識は、純粋な意識であって、人間の持つ意識とは違う。そこにあるそれのことを知れば、きっとこの宇宙は解き明かせる。数学も生物学も、所詮は人間の作った「学問」であって、「原理」ではない。原理の解明はしようとしているが、本当の原理は、人間が作り出した学問で捉えられるほど単純なものではないのである。それで、言いたいことは全て終わりである。ただ、意外と、人間の人生の周りの出来事は、単純な法則で動いているように思う。善は必ず勝つ。