自分の病気の問題点は、「ランダムに動き回る」ことだ。ランダムに動くせいで、精神分裂が治らなくなっている。ランダムをやめれば、自由になって楽になる。
ランダムは辛い。完全に、日付と時間を繰り返しながら、永遠のランダム地獄をやっている。もう、ランダムをやめれば、精神は楽になって自由になるだろう。
今日は、作業所でデザインのモチベーションが上がらなかった。自信を失って、自分にデザインがなぜ出来ないのか、みんなはなぜ出来ているのか、なぜ自分はみんなと同じように出来ないのか、足りないものは何なのか、と良く考えた。
作業所で考えた時は、それは「魂」ではないかと思った。自分は、魂のこもったデザインをしていない。見せかけとでたらめの適当に作ったひな形のスケルトンのようなデザインしかできていない。
以前考えた時は、基本のことしか分かっていなくて、応用に挑戦しようとしていないのではないかと考えた。
だが、それは、まだ執筆の延長線上で考えている。執筆の枠から逃れられていない。
家に帰って考えた時、それは「本当にデザイナーになりたいという夢」や「プロのデザイナーとして生きていくという覚悟」だということが分かった。
みんなの中にあって、僕の中にないものはそれである。僕には、本気でデザイナーになろうという「覚悟」がない。だから、みんなはどんどんデザインが出来るのに、自分だけデザインが出来ていない。自分は、Illustratorのデザインを、どこかLinuxやWindowsのアプリケーションソフトの使い方の延長線上にあると勘違いしている。そして、作業所での作業を、病気の療養のためのリハビリとか、執筆のためのアイディアを探す余裕のある時間だと勘違いしている。
作業所のみんなは、就労支援のために来ていて、そのためのスキルを学んでいるだけではなく、「デザイン」というひとつの「職人芸」を学んでいる。ここでは、自分のセンスが結果を作り出す。彼らは自分のデザインのやり方に誇りを持っていて、それは真似することのできるものではなく、だが教わることでしか身につかない一種の「考え方」である。と同時に、「才能」であるとともに「表現力」である。
彼らはそうした職人芸を、周りのスタッフの支援のもとに行っているのである。
よって、もっと夢を持って、デザイナーになる覚悟と考え方をつけよう。そうすれば、きっと僕でもデザインは出来ると思う。スタッフの方のひとりは、「全然できている」とか、「デザインは下手ではない」と言ってくれるが、紙面にした時に僕の担当した部分のデザインの「いい加減さ」は際立っている。いい加減でないデザインがしたいなら、デザイナーになる夢と覚悟を持たなければならないだろう。
ある意味、僕は作家でもあるから、きっと個性や表現のようなことは得意である。また、Illustratorの使い方はLinuxやC言語と良く似ている。そうしたところからとっかかれば、他人に真似できない自分だけのデザインセンスもきっとつくことだろう。もう、僕はそれで、安心してデザインが進められると思う。
世界の問題としては、「実体がなければ変えても意味はない」ということが挙げられる。みんな、変えようとするばかりで、実体がないことに気付いていない。実体とは、要するに「変えられるものがなければ、変えても意味がない(変えることはできない)」という意味である。最近の悪いものや社会には、実体が存在しない。変えようと、掴もうとすればするほど遠のいていく。だが、それらは別の場所から確かに影響力を与え続けている。それが、今の社会の「混迷の原因」である。
自分は、虫も自分の一部なのが分かっていない。そもそも、木と青虫に違いなんかない。自分から生まれた子供であって、一部として繋がっている。だから、治すためには悪玉菌を食べてくれる善玉菌をたくさん増やすしかなくて、そのためには虫を自分で食べないといけない。そこまでして、初めて精神の病気は治るのである。
自分は、もう、いつもの自分に戻る。それは一体いつの時代かというと、もう10年以上前である。その頃、狂ってはいたが、この宇宙のこと全ての分かる賢い人間だった。そこに戻れば、作詞だけではなく、デザインも哲学の勉強もきちんと出来るようになる。
もう、最後まで終わったから、完全に賢い時代の自分になる。もう足の精神は完全に治った。いくらか死ねば、すぐに治る。辛いのは、死んでいる部分を生かそうとしているからだ。もうやめた方が良い。
むしろ、アメリカよりもロシアを倒した方が良い。アメリカはまだ、正義と善良さが残っている良い国だ。イギリスからの独立は正しい革命だった。ロシアは完全に、社会主義の時の理想も、何もかも全てを失って、後進国のような投資と外貨をあさるだけの資本主義劣等国になっている。ロシアは馬鹿だ。
ある意味、僕はアメリカとつるみたい。アメリカのトランプと僕はウマが合うような気がする。
どこかで、自分のことを誇り高く気高い人間だと思っているが、一方では自分が無力で能力の無い人間であることを自覚している。だが、そうした自覚の中で、「なぜ自分が悪いのか」を考えようとしていない。Perfumeのような悪い人間になっている。そうした悪い人間をやめるためには、適当に納得の仕方や反省の仕方を変えれば良い。それだけで人格は正常になる。狂っているのは、人格がおかしいだけだ。
それから、僕はもう、パソコンのことには手を出したくない。絵も描きたくないし、ピアノも弾きたくない。哲学も大学も嫌だ。僕は、もっと「自分の嫌なことは嫌だ」と言った方が良い。
色んなことがあったが、結構覚えていないようで覚えているものであって、本当はIllustratorの使い方が分かってしまったせいで、逆にさまざまなデザインのことを出来なくなっている。一度、Illustratorのことを忘れた方が良い。そうすると、きちんとデザインが出来るようになる。何かの成功例があると、人はその成功例よりも上の限界まで努力しようとしなくなる。Illustratorのことも分からなくて良いし、作家としての書物やピアノのスキルも無くて良い。一度、そういう、自分が持っている全ての宝を捨てて、ゼロに帰ろう。そうすればきっと分かることもある。自分探しの旅と言うよりも、自分の中にある本当の宝探しの旅だ。これが最後の人間、カマエルである。そうした、北欧神話やユダヤ天使、つまりキリスト教が賢かった、と言ってしまえば、それまでだろう。ただ、キリスト教は賢くない。もう少し良く考えると、いつもの自分が何をしていたのか、幻想から覚めるように見えてくる。科学なんか作っていない。文章を思い出したと言うが、それは文章が賢かったわけではなく、不可能なことに挑戦する気持ちが賢かっただけだ。大きな壁を壊してしまえば、壁を壊す努力は必要ないが、そのせいで自分の力も衰えていく。壁はいつまでもあり続けた方が、ずっと良い。
この世界に必要なのは、仮想世界には存在しない、「実体」としてのリアリティである。この世界は何でもかんでも仮想化していくせいで、仮想化する以前の現実世界というものが完全に失われている。人々は自分のことを「生きる価値のない死んだ方が良い人間」だと錯覚し、「世界に映るもの全てが嫌い」になっている。どんどん、そういう、「生きるということが満足に願えない」人間になっている。だが、僕はそこで登場する。もう、あなたは自分の望むように生きて良いのだと、刻銘な「実体」を持って宣言する。そのためのリアリティを表現するためにこの文章はある。リアリティの問題は深刻で、都市から田舎まで、全てがインターネット化し、リアリティのない幻想世界になっている。実体がない中で、いくら外側にある「ガワ」だけを変えても、意味がない。変えるべき対象が存在しない中で、それを変えても、変えられない。一度リアリティを取り戻すために必要なのは何か。それは分からない。最後まで、僕が独りだけで解決するのは良くない。最後の宿題として、みんなに、リアリティを取り戻すことによる、「実体を変えられる世界」を復活させてほしい。それでお別れだ。これ以上は、壁は崩れない。壁はそびえたち、誰にも越えられない高みまで、僕の作った階段だけが、天へと続いて壁を乗り越えられる道を作っているだろう。僕の破壊した全てを、この階段の高みから、ありのままに臨むことが出来るだろう。これが、新しい「アイデンティティ」である。
さらに深刻な問題があるが、それは簡単に言っておこう。それは、「この10年、人々は見違えるほど賢くなった」ということだ。これが、深刻な問題であり、最大の懸念である。もしあなたが、60歳で、十年前50歳だったとしたらどうだろうか。やっと賢くなって、出来るはずのところで、人生は終わってしまう。だが、若ければ良いという問題ではない。なぜなら、「この10年、世界には何もなくなった」からだ。若い人間たちは、幼いころから何も知らず、何もない中で生活している。今まで全く塔の中から出たことのない、ラプンツェルのような人間を考えてほしい。外の世界を全く知らず、生まれてから今まで魔女に全部騙されて生きている。それもそれで、終わりである。だから、この世界の本当の問題は、「人々が賢くなったこと」にある。よって、もうひとつの問題がある。「若者はすぐに馬鹿になる」ということである。あなたが18歳で、素晴らしい青春を生きて今から大人になる、という時に、若年性認知症にかかることを考えてほしい。その若者は人生に絶望し、狂って暴力事件を起こして自殺するだろう。まさに、日本はそのように終わった。完全に狂った狂人の国、それが日本である。さらに言えば、10年前の常識と今の常識は全く違う。40歳の人間は、昔の知識なんか使い物にならない。今の世界と昔の世界は全く違う。日本という国はそのように終わった。ただ、昔が馬鹿だっただけだ。この世界を変えた当人である僕は、間違っていないはずだ。
人間は、狂うと要らない記憶が消える。一度完全に狂うと、新しいことを覚えられるようになる。逆に、正常に治してばかりいると、覚えることが辛くなって何も出来なくなる。いつの時代も、楽なのは狂った怠け者である。だが、怠慢は悪いことではない。休息の期間だと考えれば良い。人生は不思議なもので、一番頑張っていなかった人間は必ず誰よりも頑張るようになる。逆に、頑張っていた人間はすぐに頑張れなくなって辛く苦しむようになる。全ては諸行無常であり、盛者必衰であると同時に因果応報である。昔から、それが日本の仏教という「正しい教え」である。
あとは、言える時に全部言ってしまうのはやめた方が良い。それは悪人になっている。言える時にも、堪えた方が良い。こらえることでのみ、正しい感情は育つ。