いじめは、みんなでいじめられる側について、いじめっ子の方をいじめればなくなる。
昔の自分は、いじめられる側の子供についたことがある。だからといって、リスクのようなものはあまりない。敵が増えるのをいじめっ子は恐れる。正義と正義の戦いになった時、いじめっ子は必ず負ける。
昔は、夢の中で、サバイバル生活をしていた。川をさかのぼって別の場所に行き、海藻のようなものを食べて生きていた。そうした夢の中の経験が、今につながっている。
夢の中での経験は本当に今に繋がっていて、高い場所から急降下する経験や、一番辛い中を乗り越えていく経験などを良くしていた。また、バックトゥザフューチャーのような映画のような完璧なストーリーを良く見る。夢の中での友達は、中学生時代から変わっていない。DebianやUbuntuのようなLinuxのディストリビューションを良く使っている。未来のような場所で、父親の博物館が見えたりする。
不思議と、足はもう精神的に全て治った。治らない最後のポイントが治って、死んだ。不思議と、この世界に自分が存在している意味がない。みんなは自分よりも馬鹿で、何も分かっていない。そろそろ自分は死んだ方が良い。
自分の文章は、盗作ではないと思っている。参考にして書いただけであって、多くの部分は引用のようなものである。だが、批判があったらどうするか検討したいと思う。
このホームページの内容は、盗用や盗作ではなく、多くの場合は引用に該当するだろう。ホームページの場合、自分なりに内容を書き換えることで、多くの場合著作権問題はクリアしていると思う。だが、書籍の場合は、参考にして(自分で)書いたわけではなく、そのまま抜き出した部分が多い。これは逆に、書籍の場合は自分で書きかえると悪いと考えたからであるが、プログラムのソースコードなどは自分用に書き換えたところも多い。この場合も、引用の範囲を超える過剰な転載はしていない。ただ、参考にして書いたとは言っても、「ほぼそのまま」引用した部分は多くあるが、この場合も引用だと明確に示しており、引用元も明記しているため、問題はおそらくない。
全ての場合において、引用元のリンクや書籍名を明記しているし、引用であることを示すCSSのスタイル(左側にインデントされる灰色の線)も明確に示すことで、引用した部分がどの部分なのかも分かるようにした。自分で書いたのか、それとも引用や参考にした内容を記述したのかは、スタイルで判別できるようにした。また、CC-BY-SAやGFDLやパブリックドメインなどで公正に許されている場合を除いて、引用の範囲を大幅に逸脱する過剰な転載はしていない。一部、パブリックドメインの絵画を載せたり、ArchWikiやLFSやGentoo WikiやWikipediaなどから大きな転載をしたりはしたが、この場合は著作権法やライセンスによって許されている。コピーレフトなライセンスを継承する必要がある場合はそのようにした。商用利用が許されていない場合は広告を非表示にした。もし問題があったとしたら、事後的に対応したいと思っている。
自分は、駄目なものを駄目だと思いすぎている。駄目でないものを駄目だと思い、自分の失敗や過失を悪いと決めつけて、責め立てている。それによって狂っている。だが、これはあまり治しすぎない方が良い。治すと、頭が辛くなる。だが、この病気(名前もない病気)の本質は全て、駄目でないものを駄目だと決めつけていることである。それが、間違っているだけだ。