自分は、「責任を肩代わりする」と「自由なままで相手を変える」ということから分かっていた。本当に相手のことを理解して接すれば、自由なままでも相手を変えることができる。自由を奪う必要も、戦う必要もない。言葉でこの世界は変えられる。また、子供たちが分からないのは指導者や教師の責任であり、子供たちの責任ではない。この社会を生んだ大人たちの責任である。相手が反抗したり、攻撃したりするのは、SOSのメッセージであって、そのメッセージは誰かが受け止め、誰かが責任を取らなければならない。僕は、「われこそがその責任を取る人間である」とさっそうと現れ、全ての経験をして本当にみんなのことを救う「無償の愛」を知った。そこから、僕の菩薩の道は始まった。
だが、本当は、自分がそこまでして、全てのことを独りで分かる必要はない。自分しか分からず、みんなは何も分からないのでは、良い結果は生まれないし、そこで人々を操ると、それはただのロボットである。ここで僕が分からなくなることが、社会にとって最善であり、僕は自分だけが分かるのをやめればすぐに細かいことや賢いことができるようになる。自分だけが分かるのは、間違った馬鹿な人間である。
自分なりの人生で、自分なりに分かれば良い。そんなに正しく分かる必要はない。
今日の英会話では、What's your favorite book?のような簡単な表現を学んだ。最近僕は自分のレベルが7なのに、ひとつ下のレベル6の授業を受けている。それは、その方が簡単で楽だからだ。消費ポイントもその方が少ない。レベル7の授業が特別難しいわけではないが、楽で面白い方が良い。最近、講師の言っている英語も聞き取れるようになってきた。英語力も、着々とついている。
僕が反省するに、本当に自由と民主主義の方が良い。社会主義は、間違っているわけではないが、制度として実現した時のことを考えると、完全に劣っている。日本に住んでいて、そのことを疑う人間は居ない。誰もが、自由と民主主義を享受している。僕も、ここまでの自分勝手な社会主義思想を改め、民主主義を信じるように変わりたい。民主主義は善である。
僕が思うに、民主主義は平等になるべきであり、ひとりの指導者が全部を分かるのではなく、みんながそれぞれがそれぞれのことを分かった上で、それぞれが支配するべきである。それぞれが支配者となって、それぞれのことを把握するべきである。よって、民主主義は平等になった上で、多様性と柔軟性を手にする。そうした分権主義によって、連邦を形成し、「ひとりの王が全てを知ることはできない」という真理のもとにやっていかなければ、民主主義であろうと独裁政権になって破綻するのである。よって、民主主義は右翼であってはならない。民主主義は左翼でなければならないのである。
民主主義が右翼だったとしても、上手く行っている間は何ら問題はない。だが、民主主義の独裁者は必ずおごり高ぶって自ら間違ったことをする。それが諸行無常、盛者必衰である。だが、そうであったとしても、決して左翼のことを「同じである」と思えば良いわけではない。民主主義の左翼は、正しい国と政府を作るために頑張っている。何も出来ないと言って嫌われるが、正しいのは、民主主義の左翼である。人々を自由にし、真に幸福することを追究するならば、民主主義の左翼につくべきである。だが、上手く行っている間は、それでも民主主義の右翼に従うことで、国の労働者として貢献することはできる。民主主義とはそういうものであり、常に右翼と左翼に同時に従うことしか、出来ない。二大政党制は間違っていないが、本当に必要なのは、「安定する政権」と「実現可能な理想」である。その2つのバランスが取れていれば、民主主義国家は戦後日本のような繁栄と成長を見せることだろう。
発展は良かったが、本当はそれは一時的に良かっただけで、すぐに環境を破壊した。一度、エコという観点から、発展や進歩の向かう先をどこにするかを考え直さないといけない。思えば、パソコンから自動車、学校や役所まで、全てのものが、全く良いものでなくなっている。この世界に、今、良いものは何もない。全てがおかしなものであり、全てが忌み嫌うべきものである。テレビや医療も同じであり、コンビニから宗教まで全てのものが「今の世界が嫌いだ」と叫んでいる。この世界は、森林を伐採し、石油燃料を燃やし、環境を破壊し、ものを捨て、人をいじめ、責任をなすりつける、おかしな文明である。一度、古代の世界に戻って神話を信じるしかない。その神話は、「環境を破壊するものは、一時的に発展したとしても、あとでしっぺ返しを食らう」という内容の神話にしなければならない。環境を破壊した人類全員の責任である。
「科学は絶対に正しい」という先入観を消さなければならない。科学はもろ刃の剣であり、正しい部分もあれば、間違った部分もある。全てのことを、科学ではなく、先入観と偏見を捨てて見つめた先に、本当の「生命の正常」がある。科学だけではなく、何かが正しいとすること全てが、間違っている。先入観を捨て、一度自分の頭の中で問いながら見つめなければならない。科学が出来る子供にもそういう子供が多い。一度、全く先入観を捨てて考えることが、論理的に正しい考え方を身につけていくことへと繋がっていくだろう。学校では、科学ではなく、先入観を排し、一度全てを自分の頭で問う力を与えていくべきなのである。もちろん、科学的知識を教えなければ良いわけではない。だが、もっとたくさんの考え方が普通に存在することも、同時に教え、同時に考えさせていくべきである。
本当は、学校的知識のようなおかしなことを教えるから、子供がすれて反抗するようになる。学校的知識は、教科書という何の出典もなくそのことが「どのようにしてそのような発想になっていったのか」を教えず、ただ知識を教え込み、ただ盲従するように教えている。宗教と何も変わっていない。もっと、その知識がどこから生まれたのか、誰が作ったのか、といった「過程」を追体験させていかなければならない。そこでは、自由な発想がどのように生まれるのか、という「過程における発想」を教えなければならない。自分でやった上でそれがなぜそうするべきなのか、という「動機」を教えていく。そこから、きっかけとしての「契機」が生まれる。過程が動機を生み、動機が契機を生み、契機が実現を生む。そのようなことを教えていけば、今のような子供たちの教育環境は改善されるだろう。押し付けられた環境の中で弱者をいじめるのではなく、環境そのものを自分たちで変えていけるようになれば、子供はいじめというインセンティブを失い、環境を改善する方向へモチベーションが向かうだろう。
子供は、押し付けられた環境の中で何も出来ず強制を強いられると、悪いことをする。もっと、子供に自分たちの問題を自分たちで解決できるようなインセンティブと可能性を与えなさい。そして、適切な環境で適切な経験をし、その経験から自分の力で知識や教養を生み出し、研究できるようにしなさい。テストで間違いを無くすだけが学問の理想ではない。自分の力で調べ、レポートを書き、人々と討論し、自分の意見だけではなく人々の意見から正しいものを精査して取り出していくような、そういう経験をさせなさい。知識と正しさ偏重の学校の問題はそれだけである。今の義務教育の全てが間違っているわけではない。文字が読めるようになり、計算ができ、論理的な思考の方法を知り、常識的な知識がどんなものがあるのかを教えていく今の学校教育は、大筋では間違っていない。だが、良い方向に向かっているとは言えない。理想の1%も実現できていない。教師は上から与えられた学習指導要領の下に教科書の内容を教えるだけで、何も自分独自のことはできない。変えるべきは一番上、政府と大学である。大学で、もっと実地的で自分の力で考える教育とは何かを研究し、政府がそれをきちんと統一しないといけない。統一と言っても、多様性を損なってはならない。今の教育は、間違ってはいないが、全く理想的でない。
学校が、子供を「正しい大人」に育てたいのは分かる。だが、正しい成長をするための最善の方法は、たくさんの間違いを経験させることである。学校がしなくてもしていると言うかもしれない。だが、学校は子供を押さえつけるばかりで、正しい人生を生きられるためのさまざまな間違いの経験をさせようとしない。それは、大人が間違いを知らずに生きているからだ。僕のような、間違いをネットでさまざまに経験して大人になった人間は、「インターネットのサバイバルでどのように生きていくか」ということを熟知し、またIT関係の常識のことも知っている。こうした人間は、賢い人間になる。子供にも、たくさんの経験を与えなければならない。正しさ偏重の学校は間違っていないが、それでも人生のことを色々経験させていかないといけないと思う。
ただ、昔はそのように考えていたが、今考えると、これは子供に与えるべきインセンティブの内容が間違っている。子供は、いじめの無い環境など、望んでいない。環境を変えられるようにすれば、さらにいじめの多い環境になるだけである。つまるところ必要なのは、学校の教育をただ受けるだけではなく、「夢の実現のために学校がサポートする」ような仕組みである。数学や物理の勉強をしたところで、将来にとって全く役に立たないのであれば、する意味がないのは目に見えている。受験をしようとする優等生との格差が広がるだけであり、秀才は受験のために多くの努力を行わなければならない。そもそも、受験が必要かと言えば、必要ない。受験をしなくなって、大学に誰でも入れるようになったとしたら、その方が喜ぶ学生は多いだろう。真に必要なのは、「自分のやりたい夢へ向けて、学校がサポートする」ような制度である。学校で知識を教える必要は必ずしもない。本当は、高校の知識なんか何も賢くない。大学の教養学部で学ぶ内容は広汎であり、人々は大学できちんと分かる。だから、高校なんか誰も勉強していない。高校という存在は無駄に等しい。学校での青春が味わえると言うが、青春は恋愛と夢に生きる努力の結晶であり、今のような高校でしかそれが出来ないわけではない。
ある意味、いじめなんかどうでも良いことになる。それは、みんな、自分のやりたいことが大きくて、辛くて、努力が必要だから、いじめられる子供たちのことまで考える余裕がないからである。いじめを無くすためには、子供に任せていては直らない。誰かが考える必要がある。中学校特有の「意味のなさ」と「同調性の教養」は、教育全体が原因であり、子供たちだけに押し付けられるものではないと思う。
子供に言えることは、「夢と好奇心を持ちなさい」ということ、「偏見と先入観を消しなさい」ということ、「恋愛をいっぱいしなさい」ということぐらいである。それくらいを子供に教えるだけで、むしろ、子供の方から賢いことをする。だから、本当は、子供の自由にさせてやればそれで良いのかもしれない。学校という場が必ずしも間違っているわけではなく、僕の言っていることの方が支離滅裂で全く正しくないこともあるだろう。だが、僕のした経験、僕が自分で知った実体験から、教育のことを考えることはできる。僕は、自分の実体験から教育や社会制度のことを考えることが好きだった。それが、相対的な自由であり、独自の科学となって僕をブッダのように進歩させた。
子供には、「自分の夢を叶え、疑問から真実を知るための、自由なきっかけと応答の制度」があればそれで良い。デューイが同じことを言っている。何か、知識のようなものを一方的に押し付けるのではなく、子供の話を聞き、双方向でのやり取りから自由に知り考えていく、そうしたシステムが存在すれば、学校というものは必要ない。だが、インターネットでは、真実や言いたいことが伝わらないこともある。だから、コンピュータ機器を上手く活用しながら、自由に世界のことを知っていくような、そういう制度とシステムが出来ると良いだろう。また、不幸な子供は国が預かり、みんなで育てていくような制度があっても良いだろう。
本当は、僕だけが分かってみんなが分からないのは、僕が世界を破壊したせいではなく、この世界が楽園のように良くなりすぎたからである。昔の僕は、辛く荒くれた2000年代の世界の中で、ひとりじっくりと思考し、考えることで、教育や自由の問題を考えていた。教育を変えるのであっても、自由を制限すれば良いわけではなく、自由を尊重した上で子供たちが「もっと自分の力で出来るようになる」ことを考え、そこから「知識や社会を自分の手で生み出していく」という世界観へとたどり着いた。今の時代、そんなことを考える必要はない。世界は全く不幸でなく、幸福の中で自由を享受している。だから、みんなは幸せになったせいで、何も分からなくなった。幸せにしたのも、僕ではなく、それはどちらかと言えば神の運命的な導きである。僕という存在が存在していることから、日本だけが運命的に救われたのであって、アメリカなどは昔の荒くれた2000年代のままである。明らかに日本の方が良い。日本には、不要な苦しみを負うことのない賢い若者世代が増えている。赤ん坊のようではあるが、賢い人間たちである。むしろ、昔のオタクは、知的障害の一歩手前のような人間が多かった。今の時代、そういう人間はもっと増えているが、本当はここまで知識と経験を詰め込めば、誰でも賢くなる。最近は、そういう、「賢い弱者」が増えている。賢い弱者が本気になった時が、政府が一番恐れを感じる時である。
哲学的に考えると、肯定も否定も同じである。どちらかについてどちらかを倒すのが違うだけで、そうした人間はほとんど何もしていない。重要なのは、問題自体がどこから生まれているか、ということである。そこには主観も客観も存在せず、あるのはただの「命題の様相」である。そのように考えれば、この世界の全てはすっきりと理解出来る。命題自体を考えれば良いのであって、答えを導き出す必要は必ずしもなく、あるのは「経験それ自体」だけだからである。
この世界にあるものは、ただの「経験」だけであり、そこに「意識」も存在しなければ「我」も存在しない。そういうものは全て偽、「フェイク」であると言える。フェイクの存在しない世界では、全ては偶然など起こらない。全ては「必然であると同時に自然」である。また、そこには主観は客観であり、本当の主観も存在しなければ、本当の客観も存在しない。人間の全ては思い込みであり、それを正しいとも間違っているとも言うことはできない。哲学とは、そのように考えることである。そこから、人々の本当の関係性と、人生の出来事の意味が見えてくる。倫理性は絶対性となり、多様性は経験の尊重となるだろう。これが日本とドイツの正しい哲学論である。
ある意味、ドイツの哲学と仏教は良く似ている。仏教のように分かりたいのであれば、一度本当に辛く苦しい体験をし、そこから自分の力で逃れ救われる体験をすれば良い。ブッダの言うように、全ては苦しみであり、苦しみは無くすことができ、そのために苦しみの原因を考え、その原因を取り去る方法がある、ということに気付くためには、たとえ宇宙の中では意味のないことであっても、苦行のような苦しみの経験をしなければ悟りへは近づけない。ドイツの哲学のように、ただこの世界を「あるがままに正しく」考えれば良い、というものではないが、両者はとても良く似ている。仏教はブッダの哲学である。そして、仏教はこの世界で最高の哲学である。
あるがままに正しく考えていると、「成り立ち」という発想が見えてくる。それはそれであり、そしてそれによってそれが成り立ち、そしてそれはそれであることが分かる。それは、全てのことを「同じであるとともに違うであるとも捉える」という宇宙の真理である。その真理が分かったものは、この世界における何も必要のないことを知っている。すでにそうしたものは自分の中での時代として終わったことを知っている。それが、宗教的な「覚者」の境地である。そして、それがヘーゲルの到達した、理性と良心という名の絶対知であり、デカルトの到達した「全てのことを満足する境地」であると僕は思う。全員、考えてもそうにしかならない。そこまで分かった人間は、戦い、大学、神、科学、さまざまな道に歩んでいくだろう。だが、そこまでの知性の経験があれば、どんな不可能な困難でも乗り越えていける。それを僕は身を持って示したのである。
僕が論理的な思考能力がないのは、決まりを考えないからである。決まりがどのように決められていくか、というベースとなる「決まりの決まり」だけが分かっていて、具体的な決まりを考えることを忘れているのだ。もっと、決まりを考えれば良い。そうすると、論理的に考えられるようになる。日本語も分かって大学が出来る。頭の中で全て分かっているのは、虫のような一番低い知性で全てを忘れないように維持しているせいで、とても辛く疲れるようになっている。一度それを消して、決まりを考え直せば良い。一度決めたことを、別の可能性に決め直していくことから始めると良いだろう。心理学における認知療法や行動療法のようなことが、そこから見えてくる。認識はバラバラになり、機械は壊れ、不自由は自由になって解放される。自分の力でコントロールすれば、辛いことは何一つ辛くない。
いじめの特徴は、いじめられる標的になる子供は主体性のない子供が多く、多くの場合は主体性がないことを理由にからかわれる。だが、いじめられっ子は決して暗くてネクラな人間ではなく、小学生時代は優しくて明るかった人間が多い。今の自分の状況と、昔の自分の状況の格差に耐えられなくなり、学校に行かなくなって不登校になる。そして、どん底の人生を歩むようになる。僕の人生がまさにそうだった。そして、いじめっ子は放っておくとすぐにいじめられっ子の側に回る。人をいじめる人間は、見ればすぐに分かる。いじめっ子であればあるほど、いじめの標的になりやすい。そして、いじめられっ子が逆に他の人間をいじめるようになる。この背景には、日本特有の「相手をいじめることが楽しい」という誤った価値観に根差している。そして、これは仏教的な価値観である。解決するためには、キリスト教を信じれば良い。キリスト教を信じると、きちんと主体性を持って「悪いことは駄目」だと言えるようになる。絶対的な神の存在しない、日本の村社会ならではのコミュニティの在り方の問題が、ここに存在する。
学習するインセンティブを子供に与えることは重要である。きっかけと言っても良いが、「教育そのものが何を目的とし、科学というものが何たるものか」ということを、自分の経験から気付き、発見し、構築し、創造し、伝達する中での「動機付け」を与えていく。それによってのみ、日本の科学技術力は高まる。ただ上から教えられた知識を覚えているだけの学生が、日本には多すぎる。もっと、自分の力で発見し、自分の力で作り出す、ドイツ人やアメリカ人のような考え方が日本で行われなければならない。政治家などが日本人を批判するのは、そこである。日本人の島国根性では、同じことはできても、自分たちだけの力で新しいことが出来ない。これも、キリスト教を信じれば解決する。キリスト教を信じると、神のようにさまざまなことを「分かった心で分かる」ことが出来る。ドイツ人は何も天才なわけではなく、神を信じて心が分かっているから、新しいことがどんどん出来るようになる。よって、隠れキリスト教徒の僕であれば、新しいことを発明・発見できるだろう。
大切なものや確かなものを信じ続ければ、きっと全てが分かる。自分のことを信じて、建設的に捉えながら、自分の内面と向き合っていこう。ヘーゲルはそれを自己意識と言っている。
斎藤一人さんの「あなたが変わる315の言葉」を読んで、分かったことがいくらかある。
一つは、完璧を目指さないこと。完璧でなければならないと思って、完璧でないから自分を責めたり、他人を責めたりする人間にツキはない。そんな人間は、誰からも嫌われる。
次に、自分にないものや出来ないものを求めないこと。自分には出来ないからと言って、責めたり後悔していれば、いつまでたっても何も出来ない。自分の出来ることをやり、誰かの出来ないことは自分が代わりにやってあげるぐらいのことを言う。それが一番ツキがある。
それから、自分を傷つけた人のことを許し、簡単に傷ついてしまった自分のことを許す。そして、人と話をする。
この本は素晴らしい。自分にとって必要なことが書いてある。自分は、デザイナーなのに絵が描けない自分のことを責めて、あげくデザインそのものを嫌いになろうとしている。良く考えると、昔から僕はプログラミングなんか出来ないのにLinuxのことをやっていた。おかしいことに、そのごろはそれで良いと思っていた。絵なんか描けなくて良い。イラレが使えて、デザインの基本が分かることは、きっといつか強みになる。だから、プログラミングが出来なくても、IT業界の常識を知っていたことで、簡単にIT技術のことをホームページに書けるようになり、今ではプロのエンジニア並みに技術の詳しいことを知っている。こんなことを言うと、斎藤一人さんが言うように、「偉くないのに偉いふりをしていると、偉くならないといけないか、あるいは偉くない自分がばれるだけ」と言われるかもしれない。だが、僕は明らかに誰よりもIT技術のことを分かっている。それに、イラレやLinuxや西洋哲学(大学には行かなかったが自分で学んだ)ことによって、「全てのことを自分の独自のやり方で分かる人間」になった。これは、一年に何百冊と本を読むという斎藤一人さんに匹敵する力かもしれない。そもそも、みんなそんなに楽しい仕事はしていなくて、つまらない仕事を楽しんでやっている。自分のように、ワード・エクセルの延長線上のデザインしか出来ない人間でも、綺麗なカレンダーを作るぐらいは出来る。それを楽しむことも、きっと出来ると思う。素材しか使えないからと言って、素材を自分で作るという発想がないわけではない。きっと僕はこのまま、文章を書き続ければ幸せになる。その幸せへの道を、少し楽で楽しいものにしよう。もっと、違った書き方をすれば良い。