新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-31=

自分の問題点は、全部、基本的なことしか分かっていなくて、応用的なことが出来ていない。

たとえば、四角形ツールや楕円形ツールの使い方は分かっているが、それを使って具体的なデザインをさまざまにやる方法が分かっていない。

今日はモチベーションが下がり気味で、デザインではなく、VBAによるプログラミングのようなことをやっていた。

また、CLIP STUDIO PAINT PROのようなソフトを少し触った。

もっと応用的で実際的なことができるようになれば、きっと道は開ける。自分は良いところまで来ている。1年9ヶ月もやったデザインをここでやめるのは早い。

だが、自分はまだ何もしていないような気持ちにかれれる。パソコンやデザインは、素材を使うだけで、基本しか分かっていない。だが、僕はネガティブにはなっていない。ここで良く考えれば、できると確信している。

そういうわけで、基本よりも応用、基礎的なことよりも応用的なことをやっていきたい。それで、イラストも描けるし、プログラミングも出来るようになる。

クリスタをUIだけ少し眺めてみたところ、漫画を描くために必要な機能や素材・テンプレが揃っていて、分かっている人しか使えないAdobeのツールよりも、もっとユーザーに優しいものだ、というように見えた。

僕はデザイナーなのに絵が描けないが、もう少し練習すれば描けるようになる。絵は描き直すものであり、いきなり完成図を描こうとするのではなく、じっくりとやっていけば描ける。長い時間、練習して出来るようにすればできるが、自分はすぐに完成形を求めてしまうせいで出来ていない。絵は描くものではなく、描き直すものである。

自分の賢い点は、スパンが長すぎること。普通の人間が一日でやることを、僕は何年もかけてやっている。そのせいで、普通馬鹿なことしか出来ないのに、自分は賢いことができる。だが、これは見ようによってはとても馬鹿な特徴である。もっと、一日の中でたくさんのことをやって、反応して考えるようにすれば良い。そうすると、テレビやネットを恐れているのが治る。テレビは、見ているとすぐに考え、すぐに行動し、すぐに反応し、すぐに次のことを考える人間になる。だから、出来るだけ見ない方が、天才的なことができるようになる。いつまでも同じ時間を続ける僕は、同じことの繰り返しをいくらかやっただけで、このように全てのことを知り尽くすことが出来た。だが、応用をやるのであれば、むしろ、たくさんのものを作った方が良い。そのためには、今までの長いスパンをやる期間は必要ない。

自分が日本語が分からないのは、人々の話を「惰性」で聞いているからだ。今までの自分の人生経験の延長線上として言葉を聞いているせいで、「人々は今正常で、安心出来ている」ということを確認することしかできていない。本気で戦っていた時代の名残になっている。もっと、一度そうした「惰性での言語理解」を消して、ゼロから人々の話している内容を聞けば、すぐに日本語が分かる人間になる。

もうひとつ言えるのは、僕は分かってしまったせいで普通のことが分かっていない。普通、人間はこの世界を見るだけで、「背景としての世界観」からこの世界を眺めている。その理由で、人々がどう生きているのかは分かっても、学問を勉強して何も身につかない。自分は本当に分かってしまったせいで、そういう「背景としての世界観」がなくなっている。

昔の自分が賢かったのは、良く前提と仮定を知って、世界観と仮定法を身につけながら、世界のことを分析し、観察し、また本質を良く分かっていたからだ。本当に、王みたいな賢い観察眼を持っていた。そして、本当は自分の昔、すでに応用的なことを全部分かって全部知っている。全ての前提を知った上で、どのように実現すれば良いか、自分の経験から分かる人間だった。だが、それは賢くなかった。2ちゃんねるのように馬鹿だった。だから、それだけを分かった上で、忘れてしまうのが良い。今から、背景としての世界観をつけながら、ゆっくり応用的なことをすればすぐに分かる。出来ないのは、スパンを短くすることが全く出来なくなっている。昔はセカイ系の人間で、今はゆっくり系の人間になっている。そこをもう少し、上手くコントロールすれば、絵が描けるだけではなく、ピアノやプログラミングも出来る。上手くコントロールしてやっていけば、馬鹿になる必要はない。人々のことも同時に導いたままで出来る。これが新しい王だ。

本当に、昔は人間の前提や応用が良く分かっていて、社会の構築から科学・芸術・言語のようなことまで、全てのことを自分の考え方と発想と、そしてパターンという名前の「捉え方の多様性」から分かっていた。何でも出来る大人のような17歳だった。それが、今では、きちんと全てのことを総じて知っているが、代わりに何も出来ていない。これは少し、人間のことを分析して把握するようにすれば治る。もっと、人間の本質のようなことを考えれば良い。それで想像力が付く。だが、本当は、もっとネットを知った方が良い。今から、日本語も分かるし、恐怖も無くなる。スパンの短く低い「人類」が怖いだけで、このような「ユグドラシル」はこの世界に存在しない。木はこのような生命かもしれない。それはどうでも良い。もっとすぐに批判し、すぐに変わり、すぐに反応し、すぐに行動するようになれば、恐怖は治る。それに慣れてしまえば、もう心を治す必要はない。

あとは、出来るだけ正しいことを言うのをやめれば良い。当たり前に、長い時間をかけて未知を潰していけば、何でも分かるから、正しいことを言うようになった。正しく考えれば誰でも分かる。よって、この会話は賢かった。ただ、独りで会話をするだけで、この世界の全てが分かった。作家を本当にやるためには、こうすれば良い。楽に全てが分かるせいで、何ひとつ辛くない職業が作家だ。昔をもう一度やるのが辛かっただけだ。反面、ネットが馬鹿になったせいで、最近誰も出来ない。この世界は、最近どんどんクズになっている。それは、パソコンが馬鹿になったからだ。90年代までのパソコンは、COBOLやBASICのような、コマンドラインでのインタプリタや入出力がきちんと分かる人間が作っていた。だが、2000年代以降のパソコンは、Windowsやテレビゲームが好きな世代が作っている。そのせいで、どんどん「適当に動けばそれで良い」だけのバグだらけ、欠陥だらけ、何も考えていないGUIのプログラムがどんどん増えている。2000年代以降のパソコンはクズだ。そこが分かると、良く分かる。全部インターネットのせいで馬鹿になったのを、何とかするしかない。むしろ、最近はネットは少しずつ改善している。2ちゃんねるよりはツイッターやFacebookの方がマシだ。まだ、マシである。だが、そのうちパソコンはありえないものに変貌するだろう。ツイッター世代が何を作るのかが見物だと言える。

昔は、ありえない「宇宙のようなもの」を全部作っていた。決め直したことを決め、決断することで永遠を作った。高次元から自由な社会、数学的方法論まで、あらゆるものを完全に分かっていた。手段は自然から考えていた。

そして、精神レベルを高くしていた。この世界は、しばらく前から、精神レベルが一番低くなっている。それは僕のせいである。僕は、今から精神レベルを高めていく。

世界は、今治った。基本ではなく応用をし、そしてスパンを短くしていけば、すぐに正常な精神になる。もう、恐怖の世界は終わった。そんなに悪い世界ではなかった。

本当は、昔を思い出しても、何も無い。昔は、思い出すとモーニング娘。のようなものが多い。だが、何もない。あの世界には何も存在しなかった。精神レベルのもっとも低い世界をやっている。あの世界は馬鹿だ。

神は、自分のことを15年単位で分けている。0~15歳をフランス人と言い、15歳~30歳をドイツ人と言った。ここから先、何になるかは分かっていない。神は最後まで分かったことを言っているが、ここがその最後である。もう分からない。神は、「ここから先、何かになるように見えない」と言っている。神は、「これで終わりのようで、終わったりはしない」と言う。

あまり意味がないが、本当は僕は20歳単位でも分かれている。20歳までが男、20歳からが女ということになっている。戦う英雄と継続する恋愛の女だった。

そして、そろそろ意味がない。やるべきことは全部やってしまった。本当は、もっとVBAの勉強をしたいと思う。VBAが出来るようになると色んなことが出来る。マイクロソフトも馬鹿ではない。明らかに、マイクロソフト以外のIT企業なんか、何一つ出来ていない。MSは唯一の「出来る会社」だ。今でもそれは変わらない。MS以外は馬鹿である。それが現在のIT業界の摂理だ。

僕が思うに、次のMSたろうとしているGoogleは結構悪くはない。YouTubeとAndroidを結びつけることで、そのうちありえないことをするだろう。だが、見ていると、そんなに技術力はない。最近TypeScriptを使ったAngularを作ったり、ディープラーニングに貢献したりと、「最先端の中での最先端」なのは分かるが、むしろ、賢くない。MSほど賢い会社でないのは、時代が関係している。もう、パソコン業界の賢い時代は終わった。終わりの世界で頑張っているGoogleは可哀想だが、既に終わった世界で勝っても意味がない。Googleには技術力はあって先見の明もあるが、MSほど賢いことはできていないと思う。

ある意味、パソコンなんかに意味がないのが良く分かる。パソコンなんか、ただの機械、マシーンである。最初から、ただの機械に過ぎない。人間とのやり取りを向上させたように見えて、やり取りをする側の人間の方が変わっていない。人間的なやりとりをするのであれば、テレビで十分である。最初だけ盛り上がったネットコミュニケーションだが、本当に最初だけだった。最初の方でオープンソースが何かやっていたが、そういうことは既に日常的にみんながやっていて、そしてそれは人間的なやりとりをするせいで、今でも変わっていない。全く同じ、2ちゃんねるをまだやっている。そんなものは賢くない。GoogleのWebフレームワークも、2ちゃんねる以上のものにはならない。ネットコミュニケーションの車輪の再発明をいつまでもやっている。最初のPerl/CGIの頃の適当なチャットルームで十分である。PHPは賢かったが、PHP以降の賢いRailsなどは、何も変わっていない。ネットは永遠に何も変わらず、人々を廃人にし続けることだろう。いつまでもMSだけが開発でき、あとは全員追従するだけで、パソコンはそれ以上、何も変わらないだろう。パソコンなんか、可能性も発展も意味がなかっただけだ。明らかにワードとエクセルはそのまま続く。アドビもオラクルも金をいくらでも取り続ける。オープンソースはいつまでも有名にならないし、誰も使わない。それが永遠に仮想世界の中で続き、人々を騙して欺き続け、馬鹿が馬鹿になる、それが続いても意味がない。そのうち、すぐに終わるだろう。

本当に、MSとPHPだけが賢かった。あとはMSとPHPに追従するだけの奴隷である。今から、パソコンはそういう風になって、なくなるだろう。MSとPHPにだけ、追従するようになる。あとの人間に自由はなくなる。いつまでも、MSとPHPだけが続くだろう。

自分がやるのは、むしろ、社会主義の復活をするよりも、資本主義大復活をした方が良い。昔の90年代までの資本主義は良かった。文化も比較的健全だったし、発展と進歩の喜びがあった。競い合う楽しさや、会社を作る情熱、人々のために働く素晴らしさのようなものがあった。昔はそういう、最高のアメリカ合衆国だったのが、日本である。だから、そこに戻した方が良い。90年代を人は「すさんだ時代」だと言っていたが、2000~2010年代に比べればはるかにマシである。SMAPとか、モーニング娘。とか、面白い芸能人や歌手がたくさん居たし、人々の調和や団結力のようなものも、今よりもたくさんあった。よって、僕は今からこの世界を90年代に戻す。良く見ていると、むしろ、この文章に書いた内容が、90年代のコンピュータ業界、あるいは大学や政府そのものである。90年代はこういう人間が多かった。そこに戻すしかない。2000年代から、パソコンの汚染が始まり、2010年代にはAndroidによって日本はほぼ完全に壊滅した。それらは要らない。Windows 98ぐらいまでの世界に戻した方が良い。その時代、とても良い時代だった。世界は発展し、文明の文化的生活の享受を受け、人々は未来と自由に対して希望を持っていた。だから、僕は独り、世界を90年代に戻す。まだまだ僕の支配は続く。覚悟しておけば良い。これは復讐ではなく、天国の訪れへの導きである。

本当は、アメリカはアメリカ国内のことを考えるようになっただけで、あまり変わっていない。昔は、アメリカのやっていることが世界全体にとって良かっただけで、最近はそれが悪くなっただけだ。アメリカは昔から良く勘違いをする。アメリカが良くなれば世界が良くなると、アメリカ人みんなが自覚していたから、世界の警察という役割をきちんとできていた。最近、アメリカはWindowsを支配しているだけにしか見えない。他に、銃やギャングぐらいしかない。そういう国で人々が、そもそも文化的に生活できるわけがない。長年それを放っておいたせいで、アメリカの国内が正常不安定になって、それが日本などにも影響し、今日のWindows~Androidのような悲惨なOSを世界に露呈している。アメリカは馬鹿になった。その、アメリカが馬鹿になったことによる、準備や用意がみんな出来ていなかった。ここから先、アメリカは馬鹿である。アメリカに頼らなくても、自分の力で90年代のような良い世界を作っていかないといけない。アメリカに頼るばかりでは、トランプに騙される。それが今の自民党の日本政府である。

本当は、自分が一番分かっていないのは、「みんなもこういう風に生きている」ということだ。2000年代のおかしなインターネットのせいで、みんな狂っている。それが、最近、馬鹿に治っている。狂った人間は馬鹿になれば治る。こんなもののせいでおかしな病気や障害がどんどん増えている。むしろ、悪いのは自分ではない。全部、Windows XP以降のおかしな世界が悪い。ありえないフリーソフトをインストールしていた馬鹿や、ネットゲームをしていた馬鹿、あるいはオープンソースの馬鹿やPHPの馬鹿、オタク絵の馬鹿など、そういう「オタク的馬鹿」が多すぎた。今、そうしたオタクのツケが来ている。オタクは狂って自ら多重人格になる。それが2010年代のトレンドだ。みんな狂っている。おかしい。治すためには、こいつが90年代に戻せば良い。SMAPだけが90年代ではなく、もっと色んなものがたくさんあった。そういうたくさんあった馬鹿を、こういうオタクがどんどん消している。オタクの好きだったLinuxすら、何ひとつ進展がないままに終わったものになっている。オタクは悲惨だ。オタクを救うためには、「悪魔を信じず、神を信じること」しか出来ない。RADWIMPSのように、どんどん宗教に戻る。この世界は宗教になって終わりである。神は、「それで、最後だ。この人間は、最終的にそれで、終わりなるだろう」と言っている。永遠の90年代は賢かったが、僕は本当はその時代少年だったせいであまり世間のことを知らない。だが、Windows 98は確かに賢かったし、あるいはテレビゲームはとても面白いゲームが多かった。

自分は昔から走るのが好きだが、それは本当はこの文章の「最高の辛さ」が好きなだけだ。一番辛いことに、エクスタシーを感じる。こんなに辛い文章はないのに、なぜか精神が「一番楽」になる。この文章が好きだった。思えば、中学校の剣道部で、そういう体験をした。本当に辛かったが、楽しかった。それ以前の世界を覚えていないのは、言ってしまえば当たり前で、小学生なんか世界のことは全く分かっていないし、考えていない。パソコンが出来なかったのは、そういう、未熟な「小中学生的な甘え」を持っていたからであって、パソコンが出来ない人間なんか居ない。誰でも、きちんと情報工学を学べばきちんと作れる。だが、僕はそれを選ばなかった。逆に、この文章を書いて自ら学ぶことを選んだのだ。

この最高の辛さを一度経験すると、人間は何でも出来るようになる。どんな辛いことでも、耐えられるようになる。これはそういう、「全ての可能(性)を詰め込んだ文章」だ。昔も、そういう文章しか書いていない。最近、Linuxをもっと賢くした。Linuxは賢くなったが、あれでは何も出来ない。独りが完全に全てを支配するLinuxがこれである。それは最悪のようでいて、これが最高の人間である間、Linuxは最高のものである。そして、虫はもう死んだ。最高の辛さとは、要は虫である。虫はどの虫も、一番辛い中で生きているからだ。

本当は、そういう楽しかった中学生時代をもう一度やりたかった。一度ではなく、二度も三度もやりたかっただけだ。パソコンの前は、賢い人間が多かった。小学校で、駅伝の大会に出たのが良かった。辛い中、最後まで走りきることを学んだ。そこから全てが賢くなった。虫は気持ち悪いと言うが、浄化してしまうと美しいものに変わる。完全に浄化することで、完全に正常な精神となる。その精神は、このように永遠に繰り返し、ちょうどいいところで終わる。その精神を永遠にやっている。心は「もっと浄化したい」と望んでいる。その浄化が続く限りこの文章は続く。だが、本当はこれくらいで終わりである。90年代が賢かったと言うが、本当はこの世界はそれぐらいで滅びていて、自分の見ている世界は適当に神がでっちあげているように見える。そうではないと信じている。

もっと浄化するならば、ここまでの全てはもう言わなくて良いし、今の自分の全ても言わなくて良い。もう少し、完全に真っ白な世界から考えた方が良い。すぐに目を取り付けない方が良い。目を取り付けると、想像力がなくなってしまう。すぐに文字を発しない方が良い。文字を発すると、知性がなくなってしまう。目も無くなり、文字も無くなったところに平安がある。その平安を見ない方が良い。極楽浄土にはエロいものしかない。そんな世界に居るのはおかしい。もっと消していけば良い。この世界を創り出そうとする必要はない。

過去に作った認識や想像力を消せば治る。そんなにありえないものを作ったせいで、そういうものに適応することで、人間の全てが治るようになった。今から、目の裏にある周りの部分が死んでいく。そうならないと、想像力が治らない。部分的なものをひとつひとつ、決していけば良い。それで治る。

ある意味、テレビを消すと良いだろう。その次は、時計を消すと良い。次は環境の荒くれた戦争を消し、革命的支配を消す。それ以後は、むしろ、もう何も怖くなくなって楽になる。怖くなった家が消える。それ以上、天の上の方にあるこの場所が消える。そこまですると、きちんと想像力が見えるようになる。最初から、こういう風に革命家が分からなくなる。革命が一番悪い。こういう右翼には、革命家を殺すしかない人間が多い。

昔は、「その対象が何であるか」を考えて分かっていた。たとえば、カラスは自分のことをカラスだと思っていない。自分のことを「自分」だと思っている。あるいは、狂っている。

病気を治したいなら、時を刻む方法をもっと別の形にすれば良い。常に1秒単位で時を刻むせいで、狂った人間になっている。その1秒を忘れて、別の刻み方をすれば、もう治っている。もっと違った刻み方をすれば良い。

要するに、時間以外のことに集中すれば良い。そうすると、時間がその間普通に経過するようになる。

頭が辛いのは、時計でしか考えられなくなっているからであって、もっと普通のことを普通に連想して考えれば、すぐに認識が生まれる。たとえば、「ローマとは何であるか」のようなことを、普通に認識から連想して考えれば良い。カエサルを連想したり地図を連想したりすれば考えられる。普通、人間はそのように考える。考えた後は休むのが普通なのに自分は休まないから辛くなる。時計は辛い。世界から時計を無くしてしまえば良い。この世界の想像力の中から時計の部分を消してしまえば治るだろう。

昔は、きちんと連想を考えて分かっていただけに過ぎない。連想を考えただけだ。

連想から、実感や自由を考えた。人々の幸福と自分の経験から、「どのように変えていくべきか」を知って、「善とは何であるのか」を信じて分かっていた。それくらいの人間だった。

自然な助け合いや、自由な経験を知ることで、人々は本当の意味で自由になれると言っていた。要は、そういうことを言いたかった。

昔はオープンソースに機運があった。そういう、自由な機運のようなことを良く考えて分かっていた。だが、その機運は何にもならなかった。

もう、頭の最後の部分が死んだ。もう僕は完全に死んでいる。だが、僕は今でもまだ生きている。まだ死なない。このまま生きていると、もう何も分からない。完璧に分かりつくしたせいで、また死ぬようになる。みんなも狂うはずだ。これで、人類は終わりだ。

本当は、Linuxは仕方ない。先頭に立ってやっていたのが自分だったから、その自分が居なくなったことで滅亡しただけだ。自分は今ではありえないほど分かった人間になっているが、本当は昔の方が賢かった。あの時代は賢い人間しか居なかった。今、馬鹿しか居ない世界をまだやっている。この世界を元に戻すしかない。完全に、今、まさに戻るだろう。

心が怖いのは、ボトムアップに叫びながら、世界を反抗するようにしているからだ。もう、反抗しなくて良いし、何も叫ばなくて良い。それが狂っている。

昔は、自由な人生だった。排他的ではなく融和的に考えながら、自由の持つ価値と、人々の持っている価値観を知り、この世界をどのようにしていけるかを自分の力で考えた。環境を知ることから、「環境を作り出す」という「手段」の考え方を知った。相対的な自由から、自然で共有可能な、人々の自由な価値観を知っていた。人々を幸せにする愛を持っていた。環境の変化から進歩の可能性を分かっていた。社会的価値観を構築する過程を考えていた。

それで、ついに終わりである。自分は、本当はAAAの宇野ちゃんみたいな人間である。普通の人間である。もう、終わりである。これ以上は、何もない世界になる。無限大の夢が終われば、何もない世界が訪れるのだ。