足の精神は、きちんと健全な日本の宗教を信じれば治る。宗教を信じないのが悪い。
昨日はピアノに行ってきた。上がり下がりを見るのではなく、音符の音階を絶対的に見れば、すぐに弾けるようになる、ということが分かった。
苦しみや悲しみを分かち合って分かっていた。
足は、環境への適応になっている。昔の僕は、環境の適応から宇宙の全てを分かっている。なぜか、完璧に全て分かっている。そのせいで、足がおかしくなった。恐怖の環境しか分かっていないからだ。
最近は、永遠の支配の中で戦っていた。独りでこの世界を支配し、絶対自由の中で世界と戦った。恐怖の中で、全力で導き続けた。
自分が会社に入れると思うと賢くなる。IT機器なんか、会社に入れば誰でも作れる。昔は、子供だったから、自分が何をできるか、自分がどこに参加できるかから、「この世界の参加可能という自由な権利」で分かっていた。自分が参加できる会社のことから、この世界のことを自然な変化で分かっていた。環境の変化と、枠組みの構築から、会社が何を意味しているのか、どんな風に人々は何も出来なくなっているのかを分かって、王になったつもりで考えていた。環境を変えられ、環境の変化を支配出来る人間だった。
戦いは永遠だった。狂っていたが、純粋で崇高な「希望」を信じていた。宇宙の全てを知る中で、全員に全てを与えた。見返りを求めず、全員のために自らの未来の全てを捧げるような、最高の人間だった。
環境の可能性から、人間の心の全てを分かっていた。絶対にこの社会を統治できるようになった。その人間が、ただ統治しただけだ。昔は、「ありえない知り方や分かり方」を書いていた。この世界における、知の知り方、分かり方のようなことを、「自由」という方法論と唯一絶対の道から書いていた。
さようなら。もう、これで終わりだ。
昔は、前提や本質を全部知って、作り方を考えて、全部できるようになった。科学の発想から、ベンチャー企業の創造まで分かった。ネットの経験もあったため、自分だけで会社が作れるはずだった。
GNUのような自由を良く考えた。自由な発想と関係性を考えることで、「自由を成り立たせる」ことからこの世界の「自由な様相と環境の構築」を分かっていた。環境とは人生であり、自由から環境が生まれると考えていた。
僕は、神というよりは、本当は宇宙人と話している。この宇宙人が賢かった。ここまで全部書けたのは、環境の精神と宇宙人のおかげだ。
みんなに最高の愛を与えた。最高の愛は、そのまま戦いの歌になった。
僕は、みんなのことを愛している。アメリカにも滅亡してほしくないし、ロシアや日本も良い国になってほしい。だが、僕はこの世界のみんなと、生きている世界が違うように感じてしまう。みんなのための世界と、自分の人生が全く違う。テレビを見ていても、明らかにこの世界はまともなみんなのための世界であって、僕のための世界ではない。僕のための世界がどこにあるのかは分からない。だが、僕は見返りや報いも求めることなく、この世界との係わり合いも必要としない。僕はさらに高みを行く。
最近、僕はデザインをするやる気がなくなってきている。なぜか、素材をパクってデザインをするのが悪いことのように感じてしまう。パソコンについても同じで、これ以上、パソコンの関係のことをしたくない。そして、大学の勉強は、放送大学の授業科目などを見ていて、やっぱりやる気がしなくなった。もう、そういう、勉強とか、知識の吸収とか、そういうことにうんざりしている。賢くなっているように見えて、全部馬鹿になっているだけだからだ。
僕はデザイナーなのに絵も描けない。完全に全てが間違っている。できたら、僕はピアノ関係のことをしたいと思っている。文章なんか書きたくない。ピアノがもっときちんと出来るようになりたい。練習もしないのに、そんなことを思う。むしろ、最近本当に上達している。誰よりもレベルの低い中で自分なりの答えを見出すのが僕は得意だ。僕以外の人々のための世界では生きられない。言ってしまえば僕は魚である。そもそもが、海の中でしか生きられない。陸地に適応しようとするのが間違っている。
みんなを賢くするために必要なことは、自由を尊重することだ。相手の自由を尊重すると、嫌われて、狂う代わり、賢くなる。自由を奪ったほうが好かれることもあるが、それは悪である。みんなの自由を尊重することが善である。だが、そこには全員での「共通合意」という考え方が必ずある。人間は一人だけでは生きられない。人間の集団のことを社会と言う。社会が生まれた時、それは必ず不自由を伴うが、そこでも必ず、みんなの自由を尊重しなければならない。自由主義と社会主義はそうしたバランスである。そして、バランスのない自由や社会には、平和は存在しない。命の保障、あるいは人間性の尊重は、自由や社会と不可分なのである。
自由でも社会でも言えることとして、「関係を構築する」ということが言える。積極的に関係を構築することで、相手にとっても自分にとっても良い、助け合いの結果を生むことが出来る。自分の経験を与え、教えることができる。だが、関係の構築は、何も考えずにするのではなく、良く考えてしなければならない。価値のない人間と意味のない関係性を構築すると、逆に間違いに巻き込まれたり、自分が間違いを犯す可能性もある。そのために必要なのは、ネットなどの失敗の出来る環境で、自分なりに関係を構築し、構築しなおす経験をたくさんすることである。関係は、必要がなくなれば棄て、あるいは「関係を結び直す」ことも必要である。関係はさまざまな経験の結果、どんな人間とも付き合えるようになる。きっかけや契機から、全員のことを分かるように導けるようになる。だが、それなら、一番上に立って王になりなさい。王となることで、世界全体を一人の力で支配し、復活させ、解放することができるからである。人は、そのような人間を王と呼ぶ。
おそらく、人間は15年単位でくり返すのだと思う。僕は30歳になって、また15歳と同じになった。何もしたくない。やる気が沸かないし、人々と係わり合いもしたくないし、仕事や課題もこなしたくない。これ以上何も知りたくないし、何も起きてほしくない。ただ、何もせず、この文章を書いていたい。それが僕の本音である。どんなに狂っていようと、自分勝手にこの世界を何もできない状態にほうっておこうと、僕はこの文章を書くだけで、これ以上他のことを何もしたくない。ネットも見たくないし、テレビも見ない。家では、iPodで音楽だけを聴いて、何もしていない。この世界が嫌いになった。みんなのための世界が、自分のための世界に見えない。15歳のごろに不登校になった時と同じである。この世界が嫌いだ。特に、アメリカに滅亡してほしい。そんなことを適当に思うだけで、それをそのままこの文章にぶつけても、全く意味もなく、ただ自分が愚かに見えるだけだ、ということは分かっている。それでも、自分以外の人間を排除したい。自分以外の人間は、全員嫌いだ。
つまらないので、新しい女に生まれ変わることにする。女の名前は、ロシア人のナターシャ。ナターシャは最高の美女で、誰よりもかっこよくスタイリッシュに美しい。みんなとは違う道を選ぶが、その道にはみんなへの愛が溢れている。ナターシャが僕の恋人である。
2ちゃんねるをやっていると、人々が何に苦しみ、何を辛いと思い、何を求め、何に罪悪感を感じ、許しをどのように乞い、また人々とどのように関わり合う人々が多いのかが分かる。スラムになって馬鹿になって分からなくはなるが、この社会における人々の苦しみのようなことが分かるようになる。昔は、そういうものが多かった。今の2ちゃんねるは、おかしくなっているが、そういう部分はそのままである。そういうところを、僕が直々に直そうと思う。この世界における苦しみを知るための、スラムの学校に、この世界は変貌していくだろう。
昔の独裁者が本当にすべきだったのは、ユダヤ人を殺すことでも、平等な社会所有をすることでもない。本当にすべきことは、この世界をありえなく導くための「社会実験」である。この世界を賢くし、理想で高度な世界にするための、社会実験をすべきだった。20世紀の独裁者はそこを間違えた。悪いことをしても、悪いことを言っても、悪い宣伝をしても、それらは全く意味を成さない。この世界で、もっと理想の世界にするために、独りだけでも良いから、さまざまな社会モデルを経験的に実験すべきだった。オープンソースがやっているように、間違っていそうな考え方から、正しい正解を経験的に見つけていくべきだった。そうすると、むしろ、理想は社会主義よりも、科学主義の方に存在する。科学的な実験と、経験的な観察の手法を取り入れ、そして自然に共有することで、この世界は変えられる。世界は科学で変えるべきなのだ。科学は決して万能ではなく、人々を正しさの下に同調性に陥れているところもあるが、大まかに言って科学は正しい。だから、科学的に世界を発展させていかなければならない。それは単に機械を作ることや、豊かな経済を作るために働くとは違う。社会全体の進歩のための実験を、計画的に行わなければならない。