僕は、今から、放送大学の勉強をする。
僕も、もう30代だ。学歴が全くない状態を脱したい。僕はすでに放送大学に入っている。インターネット配信も受けられる環境にある。
放送大学の良い点は、まず、「入学しなくても、テレビやラジオから無料で講義を視聴できる」ということ。
放送大学は、入学し、単位登録し、単位認定試験を受け、教科書を購入し、卒業する、ということにはお金がかかるが、単にテレビやラジオを使って授業を視聴するだけであれば、入学しなくても、BSのチャンネルから無料で講義を聞くことができる。
また、僕のような放送大学の学生には、「インターネット配信」というとても優れたシステムを利用できる。
インターネット配信の優れた点はいくつかある。
・専門に関係なく、全ての科目を無料で視聴できること。
・自分のペースで続けられること。
・自分のやりたいだけ、好きなだけ、いくらでも視聴できること。
僕のように、たまに勉強したくなる学生は、そのつど、勉強することができる。また、昔の僕のように「自由にいくらでも好きなだけやりたい」のであれば、放送大学がぴったりである。
ほかの特徴として、「コストが安い」「受験しなくても入れるため、入りやすい」「リスクが少ない」というのが挙げられる。
まず、コストが安いというのは、入学に必要な料金が安いということ。単位がほしい、自分の学びたい科目だけ、金を払えば良い。
それから、受験しなくても入れる、というのは、放送大学は「オープン大学」であるため、受験制度を採用していない。僕のように全く勉強しなくても、誰でも入れる。
それから、リスクが少ないというのは、放送大学は、入ったら4年間みっちり勉強しなければならない大学と違い、そのつど勉強し、勉強したくなくなればそのつどしなくても良い。したい時に出来るという手軽さが、いつまでも通い続けられる低リスクな大学を実現している。
劣った点としては、
・通信制であるため、キャンパスもないし、学生の友達は出来ない。
・研究室がなく、ゼミもないため、研究がし辛い。
・テレビやラジオの大学であるため、教授に直接会って、質問したり助言を得たりすることが出来ない。
・教科書は15回の手作り教材で、内容が詳細でない。また、講義の種類が少ないため、文学だけをするのであっても、歴史や哲学の講義も受けなければ卒業できない。
・学生のレベルが低い。そもそも、単位の認定や卒業を目指していない学生が多く、入っているだけで勉強していない自分のような学生が多い。
などがあるが、それらを圧倒するだけの、「全科目自由に視聴できる」という「オープン性」がある。儲からない、レベルも低い大学だが、素晴らしい大学である。
ただ、僕としては、「大学の勉強に飽きてしまった」というのがある。これ以上、本も読みたくないし、大学にも行きたくないと思ってしまう。勉強したくないわけではないが、いざ勉強を目の前にすると、「こんな意味のないことを学びたくない」と思ってしまう。それは、大人である故の問題だ。もう全部完璧に知っているのに、これ以上やっても意味がない。
だが、僕は勉強したように見えて、本当は何も知っていない。詳しいどころか、スタート地点から全く変わっていない。何かが出来たわけでも、分かったわけでもない。だから、飽きてつまらないと思っても、今から勉強しなければ意味がない。
放送大学は、そういう人間のための学校である。
放送大学の講義は、僕は文系、理系、情報系の科目をきちんとしようとするから、出来なくなっている。情報学のとびらの講義を見ると、「こんなにパソコンのことをもうやりたくない」と思ってしまう。理系や文系の、たとえば数学や物理や哲学や歴史の講義も同じである。「もうこれ以上、それらをぶり返したくない」と思ってしまう。
だから、僕は今までにやったことと関係の薄い、心理学や社会科学の科目をしようと思っている。それらなら、抵抗が少ないからだ。そういうことにしたい。
あとは、むしろ、エロと多重人格を治した方が良い。そういうものが、僕の人生を苦しめている。そういう、自分だけで生きようとするのはやめた方が良い。孤独は何も良い結果を生まない。社会性が身につくために、孤独は必要ない。喪失は、自分の社会性を目覚めさせるように見えて、社会に適合することを少しずつ奪っている。
だが、色んな失敗を経験することから、自分の力で経験して自分なりに考えて分かる、ということはとても良いことである。子供には、押し付けの理性を与える学校は必要ない。全て、自分の手で、自分の力だけで分かるべきだ。それが正しい。ブッダも同じことを言っている。
そして、僕の文章はここで終わりだ。このまま、さようならを言わずに別れる。いつかまた会えるだろう。自分にない知識を全て欲しがる欲望と、世界征服の野望は、これで終わりだ。これにスイス人の名前をつけておこう。名前は、ヨハネス・ヴァイスバッハ、白き本のヨハネである。
キリスト教で、ヨハネは最高の人物とされている。ヨハネという名前に甘んじないように、きちんと社会科の専門家になりたい。本当は、まともな文章を書けるみんなが賢いというが、みんなはまともな文章なんか、書いていない。みんなとは言うが、書いているのは専門家たちであって、専門家になりたいなら大学の勉強をきちんとすれば良い。だが、それは講義だけを受ければ良いというのではなく、さまざまなことを自分の力で調べて研究していかなければ出来ない。だから、僕の今やっていることは、まさにそれである。よって、このままで居た方が大学の勉強はできる。だが、自分独り、孤独にやり続けるのは、つまらない。だから、今のところ、多重人格は成功している。自分が2人きちんと会話をすると、何でもすぐに完璧に全て分かる。これは天才の頭脳をしている。無くすのはもったいない。
脳や神経の、「動く部分」は、治さない方が良い。動く部分は、まだ何かを治しているからだ。それどころか、動く部分は、殺すのではなく、蘇生して、生き返らして、復活させた方が良い。動く部分を完全に、根こそぎ復活させると、それが正常な人間である。人間には、普通、動く部分が全部ある。動く部分を不当に殺そうとするから、いつまで経っても怖いままが続く。
言葉を作りなさい。創造性を信じなさい。存在理由を考えなさい。社会の問題を自分なりに解決しようとしなさい。感受性を高めなさい。心を作りなさい。疑いながら信じなさい。目的性を持ちなさい。
本当は、大学なんかする意味がないのが分かった。本を読んでいた、今までの方が大学よりも賢い。なぜなら、大学の授業なんか、知っていることを知り直すだけだ。大学は、みんなを盲目的で向こう見ずな馬鹿にして、最終的には全てが分かる代わり馬鹿になる。
もっと、論理的に考えることが出来ていない。何かを実現するための方法を、抽象的に考え出せば良い。それが、論理的に問題を把握し、解決する心に繋がる。ただ「考える」のではなく、「考え出す」ということだ。それは発見であり、目的を共有するとか、問題を解決するための良い方法を探す、ということである。
これで全て終わりである。もう、研究が終わった。ただ、本当は、何かを見失っている。この世界を正常にするための方法が分からない。この世界は、「愛を偽る」ことで馬鹿になっている。僕は、正直に言えば、この世界のことは愛していない。ここに愛は無かった。間違った恋愛だった。
嵐を起こしたかった。最大限の影響力で世界を支配した。本当は、昔から、やっていることは変わらない。みんな全員が見ている場所で、馬鹿をしてみんなを欺く。最初から、そういう風にしか出来ない。Wikiを書いて研究していたのが、そのまま大学の研究になっただけだ。これを「研究」だと思えば良い。ここから先は、むしろ、デザインの技や常識を学んだ方が良い。僕はデザインの方が良い。一番好きなのは、作業所のみんなとやったIllustratorだ。それが正しい。それだけをやり続けた方が良い。Linuxなんか嫌いだ。
gitが壊れたように見えて、本当は壊れてないみたいだ。ファイルが一気に減ったのは、GitHubの仕様変更か何かだろうか?コミットのテストをしてみる。
.gitフォルダを良く見ていると、pack-*というファイルがとても巨大だ。ここにきっと今までのアーカイブが残っているのであろう。gitは壊れていなかった。それは良かった。