中国になると、昔の青春のマスターがもう一度できる。経験から発見し悟る哲学者がアジア人だ。
昔は、独り、みんなと違う道を生きることで分かっていた。環境から自由になって、学校を回想し、引き篭もりとなった体験を思い出して考えることで分かった。
数学的論理と発見の積み重ねから全ての法則を解明し、全てが出来るようになった。
神は、「アメリカ、ドイツ、ソ連が繰り返す」というが、それはそれらのループになるわけではない。第二次世界大戦の再来のように、アメリカ、ドイツ、ソ連が蘇ることを言っている。
今から、核戦争と異常気象による自然災害によって世界は滅びる。だが、その前に、日本でこの文章が流行る。日本人は全てを知って出来るようになる。いくら世界が滅びても、日本人がそれを解決する。
なぜ、白人に比べて黄色人種は醜いのか。それは、神を信じないからだ。神を信じないサタンだから、哲学者のような偉大な人生になって、自ら地獄の自爆テロのような戦争を起こす。だから、アジア人の方が賢いのに、白人の方が分かる。白人は精神異常になっている。白人は、自分のことを悪いと思う人間が多い。日本人や中国人は、自分のことを悪いと思わない。だから、自尊心に気付くためのマスターの経験ができる。言ってしまえば、全面的にアジア人の方が良い。だが、アジア人はサタンだ。本当は、日本人はさらに微妙だ。日本人はサタンを自らの手で克服して人間の手で神を超える人種だ。日本語は最高の言語だ。アジア人は、自らの手で神を超えるしかない。
自分は、気付いていないフリをしているだけだ。それしか気づいていないフリをして、世界を思うがままに操っている。本当は全て分かっている。それを治すと、赤ちゃんになっているのが治る。
自分から離れれば精神の異常は治る。
自分のことを悪くないと思うこと。それが一番の万能薬だ。
昔は、経験と学習から人格を分かっていた。全ての知識を自分で作り直していた。社会的なコミュニティのことを、実地的に仮定して分かっていた。どんなコミュニティを作れば良いのかを、実地的な心理学的環境の作用から、きちんと考えていた。全ての心理現象を支配出来るようになった。精神の現象学から、ヘーゲルのような自己意識の段階を分かっていた。
これで終わりである。あとは、この世界のなるように任せる。この世界は、今、全て救われた。
昔は、愛が多かっただけで、最近は勇気が多かっただけだ。今は、夢を守るために戦っている。
英会話教室と農園に行ってきた。今日は「How often do you eat fresh fruits?」とか「I go shopping twice a week.」のような表現を学んだ。
頭が動いて、次へと続く部分は、治さなくて良い。精神の中の悪い部分だけを殺せば良い。
一度癌が治ると、人間は白人になる。白人は、癌が治ったせいで金髪の髪が生えるようになった。精神は正常になるが、赤ん坊から進歩しなくなる。アジア人は成長する人間が多い。
常に分かって治るのがおかしいが、本当はそれが賢かった。永遠に分かり続けるせいで、何でも分かるようになった。
不可知を分かりなさい。分かるわけがない部分を分かることで、人はこの宇宙の全部を分かることができる。数学的、哲学的、経済学的、心理学的、物理学的、そして文学的に分かりなさい。
一度、悪い部分を吸収すると治る。悪い部分は、みんなを欺いて馬鹿にする部分だ。絶対にこの世界全部を馬鹿にする。本当は、その部分だけを殺せばすぐに治る。
気付いていないフリをしているだけで、本当は完全に全てが分かっている。そういう人間が自分だ。
本当は、自由と平和が一番良い。野望や理想の実現のために、権力で人々を押さえつけて殺すのはおかしい。人の命を守らなければ、大義名分に意味はない。自由と平和のバランスを取ることで、「誰も殺されない国」を作ることができる。
僕はそろそろ共産主義者をやめる。そもそも僕は、共産主義なんか信じていない。自分の国家モデルをただ成り立たせただけで、悪平等なんか絶対に嫌いだ。
昔は、ボトムアップ的に世界を変えるべきだと考えていた。自由と人間性を尊重することで、宇宙人のような理想の社会を作れるのだと信じていた。また、宇宙の様相として、言語、文化、記憶、そして原子と細胞の「この宇宙の様相」を予測し、創造し、捉えていた。この宇宙の意識を捉えることで、宇宙の全ての存在がきちんと分かっていた。それはネットによる経験的なものだった。
ネットでは、大人として自立したことが良かった。本当は、引き篭もりだから、実際には自立できていない。だが、ネットの大人たちと関わり、話すことで、この社会における「この世界がどういうものか」ということが分かった。大人たち全員の立ち位置が分かって、矛盾なく考えることから、「この世界で人々が何を考えて生きているのか」と、「自分の今までの考え方は何が間違っていたのか」が分かった。そして、ネットのコミュニティの形成を知るうちに、「理想の社会とは何か」が分かった。そこに近づくために、「理想」や「方法」を良く考えた。全てが分かった、「愛の救世主」だった。
哲学的な第一真理とは、「それがどのように在るか」とか、「その在り方とは何か」とか、「状態や経験の様相は何であるか」とか、そうした、状態、状況、存在などの「在り方」をめぐる真理であると僕は思う。この世界に、それが存在している、ということは疑いようのない事実だが、その存在は「どのように存在しているか」という考え方があり、その上で「人間の限界」として、「それをどのように捉えられるのか」となる。それが僕は、イギリス経験論から実存主義まで続く、「哲学の第一真理」だと思う。
人間はどのように存在しているのか。人生とはどういうものであり、人々の思う普通とはどういう意味を指しているのか。社会がそうであること、存在がそうであることは、何を意味しているのか。
それを考えるために必要なのは、「賢い言葉で考えること」だ。それは、固い言葉で前置詞の知性を振り回すことでも、人々の劣った言葉に同化して自分の知性を失うことでもない。全てを知った上で、正しい言葉で考えることで、哲学は完成された「全ての哲学」となる。そのために、存在の様相の下での「人々の関わり合い」と「心の成り立ち」を考えること。これが、僕の哲学だ。
僕は、学校で子供のいじめが起きる背景には、「あるひとつの考え方しか認めない雰囲気や空気」という学校特有の「同調性の強制」があると思う。たとえば、進化論などは、信じていない人も多い。正しい教育を施して子供に真実と正しい知識を教える代わり、その真実以外の「間違いを全て認めない」という、大学や科学特有の問題があると思う。自由で多様性と愛と善を教える学校が、科学主義に陥るあまり間違いを認めなくなっている。子供には、むしろ、さまざまな間違いがたくさんあった方が良い。そこから子供自身が考えて、自分の力で真実に近づけるような、そういう正しさではない「間違いを許容する」教育を僕はしていかなければならないのではないかと思う。定期テストでも、授業でも、そして受験でも、大人は子供に間違いを認めてくれない。だから、子供はそれを素直に受け止めて、「みんなのルールに従えない人間を迫害する」という「いじめ」を行ってしまうのではないかと思う。