新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-25=

精神を一度に全部つけて、ひとつの精神になれば治る。だが、それはすると死んでしまうせいで、出来ない。だから、男と女の二つの精神にすれば、すぐに楽になる。

「自分は悪くない」と思った方が良い。自分が悪いと思っていると、ストレスや恐怖から歩き回るようになって、知性がない人間になる。

自分が悪くないと思うと、腸が綺麗になって、ニキビ、じんましん、しびれ、虫歯、麻痺、そして癌や虫歯のような不可能な病気が治る。

自分は悪くない。みんなのことを本当に愛して、みんなのためになるような世界になるように、世界を変えようと一心に努力し、理性の下で恐怖に耐えただけにすぎない。とても素晴らしい善良な王だった。だが、そういう戦いは辛く、苦しいだけだ。そろそろ、それを終わらせよう。

自分は何も悪くない。文筆家が哲学的な文章を書いただけだ。

研究をするためには、基礎と応用を考えること。技術とは、それがどのようになっていて、なぜそうなっているのか、そしてそれは何のために使えるのか、どのように応用することができるのか、ということだ。科学とは、それがなぜそうなるか、背景には何があるのか、ということだ。また数学とはなぜそのように考えられるのか、それはどういう意味を持っているのか、なぜそのようなものを考えるのか、どのように考えるのが正しいのか、それはどのように考え得ることができるのか、ということだ。

今日は英会話教室に行ってきた。I couldn't live without a rice cooker.とか、I can live without TV.のような表現を学んだ。

英会話教室に行って思うのは、英語はなんとも馬鹿な言語だ、ということ。白人の言語というのは、概念的で、論理的だが、単純で、記号的で、表現力が乏しく、中身がなく、意味が少ない。逆に、日本語は表現力豊かで、多様性があり、高度な意味を持つ単語が多く、さまざまな意味のある部分を組み合わせて使う。日本人は、総合芸術や社会文化の創造に向いている。逆に、英語は、経済、科学、数学、発明のような、単純なものを組み合わせて正確に考えることに向いていると思う。だから、日本人や中国人は芸術的で、あらゆることを「独自の個性」から表現する。白人の芸術というのは、リアルで、写実的だが、個性や表現力に乏しい。白人の「絵が綺麗」とは、正確に表現することを意味している。日本人の「絵が上手い」とは、自分なりに可愛く表現することを意味している。だから、白人の抽象的な現代芸術は、日本人が見ると醜く劣ったものに見えてしまう。逆に、日本人や中国人の芸術は、とても良く考えられた表現性で、建築や水墨画を「哲学的な表現」で形容し、表現している。時に、技術や科学や経済の分野でも、日本人は「協力して努力する」という発想をする。あるいは、日本人や中国人は自然との調和や社会全体の秩序を考える。白人には、一人の天才に従い、指導者を崇拝することしか出来ない。

日本語の優れた点は、中国語、ドイツ語、フランス語、そして英語の全てがミックスされているところ。中国語の漢字、ドイツ語と同じ格変化や前置詞支配のような格助詞、フランス語のような活用形と発音、そして英語の外来語が存在する。地球において、もっとも地球全体の公用語とすべき言語、それが日本語である。だが、一番習得の難しい言語であるため、エスペラントのような言語の逆である。

僕が思うに、日本語とエスペラントを公用語にすれば良い。それが一番良いだろう。

世界は、パソコンに騙されている。僕はこれ以上、プログラミングやIT技術について、何もしない。プログラミングは低レベルな実行処理機械である。何も賢くない。むしろ、音楽や美術のようなことをやりたい。そのためには、時間がある時に鍵盤と鉛筆・筆に触れることだ。今のところ、それが出来ていないから、それをやりたい。ドイツやフランスやヨーロッパのような外国のことも、もうしない。もっと、理系の知識を分かって、昔のように高度な数学的理性から、今度は確かな形で独自の数学を作りたい。

そろそろ、スイスが終わった。スイスは天才だった。次は、中国になる。中国の美術と、仏教、儒教、道教のことをやる。

これで、この文章はひとまず終わりである。これ以上書くことはない。これでおしまいだ。さようならと言う意味はもうないが、ここでひと段落である。