もっと、社会的な目的を考えるようにすれば、資本主義や民主主義や自由のことが分かるだろう。
努力には報いがあるべきである。何かの目的のために、自分の意志で働くか働かないかを決められるべきである。
競い合うことで、社会は発展する。競わせることによって、努力し、頑張るようになる。
ものは、減らすべきではなく、増やすべきである。金儲けが目的になれば、ものは生産され、どんどん増えていく。
利益を得、金儲けを許すことによって、良いものが生まれる。還元的に、労働者には給与が入り、会社はもっと優れたものを作れるようになる。
ある意味、「目的」を考えることによって、資本主義と自由の良さが分かる。
政治家や権力者は、みんなで選び、間違ったことが出来ないように投票で選んでいくべきである。
目的をきちんと考えると、平等がなぜ悪いのかも分かる。平等では、働いても働かなくても給与が入る。120%頑張った人間と80%頑張った人間に同じ給与が入ると、誰も120%働かなくなる。楽になるように見えて、計画経済は強制労働となって辛くなる。きちんと頑張った人間に相応の給与を与えた方が良い。
僕の頭が悪いのは、アニメの女のせいである。アニメの女を、普通の女にしていけば、すぐに治る。
足の精神には、男と女、そしてこの世界を保持し、維持している部分がある。保持しようとするから辛くなっている。一度、手放してしまえば治る。
虫の触角が死んだ。虫はアニメである。
アニメの女を現実の女にすると、精神が楽になって、「止まる」ようになる。女がエクスタシーでイく。それで楽になって終わりである。
資本主義は、「自由」と思えば分かる。自分で目的を選んで、意志を選択して働けるべきであるし、会社は誰でも作ることができるべきである。資本主義を動かしているのは「自由」である。たとえ労働者に自由がなかったとしても、それはあくまで自由の範疇(はんちゅう)の中である。自由が自由を失った時が、終わりであり、滅亡である。それを直していかないといけない。
昔は、人生として、ただ、自分が出来ることを考えただけだ。世界において、何が出来るか、何を実現すれば良いか、実現するためにはどうすれば良いか、そして、実現のためにどのような形態があるか、それが何を意味しているか、それは何が出来て、何が出来なくて、どのように在って、どのように無いか、そういうことを考える中で、世界のありのままを知り、全てが実現できるようになった。
自分の力で反省し、経験し、行動し、考え、分かり、自分なりに作り上げ、積み上げることで、全ての人々との愛すべき関わり合いを得て、その上でひとつひとつの可能性と気付きを知っていく中で、「この世界で自分が何ができるのか」を知り、またネット社会において行動することで、「何が確かに実現できるのか」を知った。
文章では、自分の出来る国、自分と同じように、自由に行動し、経験し、知り、考え、労働するような、「自由な経験をさまざまに得ることのできる社会制度」を作り上げて、人々が自分と同じような自由な悟りの境地へと至るまで、そこへと導くために、あらゆる発想をし、また議論や可能性を人々の意志から考えて形態を実現するかのような、そういう国家のモデルと人生のプロセスを完璧にまるごと全部書いていた。
また、さまざまなことから歴史を知った。想像力は物理的な自然法則と絡み合って、この宇宙の根源的な場と視点の歴史を実感した。この世界は、ありのまま存在する。そこでは学校や押し付けの理性は必要なく、ただ、在ったかのように在る。在り方だけがそこにあり、実際に何があったのかは「誰にも分からないが、だが確かにひとつの真実が在った」と考える。そのような「実存主義的歴史論」を昔は意識と想像力と、そして自分の人生の「回想」から分かっていた。
数学とは言うが、「自由な数学」だった。成り立ちを感情と心の中で考え、人々が実際に何をしているのか、自分には知らない何をどのように知っているのかを考えた。自分は、知ってしまってから自由にするのが好きだった。知らなければ、選択できない。知ってから選択すべきだと考えていた。だが、それは本当は、科学的に正しくても、哲学的には間違っている。人間は知ってから行動することは本質的に出来ない。不可能である。もし可能だと思うなら、それはあとの人生になってから分かるように、妄想の産物である。昔は、そのように考えると同時に、どこかでそうしたもの全てに「意味がない」と感じていた。完全にニヒリズムから、哲学を分かっていた。
パソコンの基本は、ストリームが通り抜けること。この「通り抜ける」という概念が重要だ。プログラミングは、処理を細かく考えるよりも、何かから何かへ何かが通り抜けていく、と考えると分かりやすい。文字列だけが変わって、全体のアルゴリズム構造は変わらない。通り抜けるだけだ。そこが分かると、UNIXの仕組みが良く分かる。
昔は、積極的に知りながら、自分なりに行動し、矛盾なく考え、善と理想を目指して生きていた。賢くはなかったが、人生として素晴らしい人生だった。
僕は、中国の芸術について知りたいと思う。中国の文化と言うと、山水画や水墨画のような中国美術や、漢字のルーツとなる中国語の文字、中国の音楽、料理、建築様式、民族衣装、そして歴史や政治体制や地理などがある。特に、中国の美術について知りたい。僕はヨーロッパのことを既に広く知っている(だが覚えていないので分かってはいない)が、中国やインドのことはあまり知らない。そして、中国で「三教」と言われる、儒教、道教、仏教について知りたい。それらをきちんと知って、この文章を完成させたい。中国は日本人の文化のルーツとなる国だ。中国語は日本語とは違うが、同じ漢字を使う。僕と中国はとても相性が良いと思う。そもそも、ヨーロッパ人化している自分は、あまりに馬鹿な頭脳の思考形態になった。もっと中国人や日本人のように、まともな賢い頭になりたい。それなら、中国の芸術が良いと僕は思う。文化と言えば芸術と言語である。僕は、芸術と言語に向いている。それも、ヨーロッパではなく、中国の方に向いていると思う。
特に、僕は老子と道教が好きである。自然に調和して生きながら、ありのままに過ごして生きていく。そこから、この世界がどのようなありさまをしているか、自然との調和から探っていく。僕は昔から、そういう考え方をネット社会とともに独り思索にふけながら生きることで、自分の人生経験として、悟るかのように生きていた。僕は、儒教、道教、仏教が好きである。インドについても色んなことを知りたいと思う。インドはカースト制が残っていて、ITで大発展していながらも、農村部は貧しく、人々は身分制の中で辛く苦しく生きている。だが、一方では過去の荘厳な宮殿であったり、仏教やヒンドゥー教、あるいは最近のシク教であったりなど、一部では最高の知性と賢さを発揮している。僕は中国とインドを、日本人の心のふるさとだと思っている。中国とインドを学べば、なぜ日本が今このような文化の中で生きているのか、良く分かるだろう。