「それならば」と数学的に考えなさい。この文章は、それならばを考えて書いているだけだ。社会がどのようになっていくのかを具体的に考えながら、「さまざまな支配の形態」を考えなさい。環境から自由になりなさい。
足の精神は、押さえつけるのではなく、引けば治る。上から引くだけではなく、下からも引く。同時にさまざまな場所から引くことで治るが、一度にたくさんは治らない。前後関係を考えながら、上半身から足を一気に引いてしまえばすぐに治る。
僕はもう居ない。もう終わりだ。
昔は、どんな支配もどんな自由もどんな実現もできる、神のようで悪魔のような人間だった。あらゆる全ての心理学的な支配を知り尽くし、精神的なマスターのような哲学者になっていた。
世界がもしそうだったら、ということを考えなさい。人々がもしそうだったら、世界が自由で、人々のことを本当に考えた世界だったら、この環境がもし違っていたら、そういうことを考えると良い。
その環境がなぜその環境になるのかを考えなさい。
賢い仕事は、だれけていた方が出来る。馬鹿な仕事は律儀な方が出来る。その仕事を自分がするとしたら、どうなるか、どういう風にすべきかを考えなさい。
この文章を信じる必要はない。逆に、自分だけの力で分かるようになりなさい。己で考え、己で悩み、己で行動しなさい。それが、正しい人生であり、最高の考え方だ。
自分の意志、相手の自由な意志を尊重せよ。自由に経験し、世界を知れ。歴史の実像を見て、自分の経験から考えよ。相手への対処策から、世界のあり方を知れ。
僕はもう書かない。これで終わりである。みんなの力で世界を変えていこう。独裁者のような悪をしなくても、この世界は変えられる。そのためにインターネットがある。みんなで変えていくべきだ。本当は、右翼はそれが怖いだけの政治家だ。
自分の経験しか信じなくても、人は分かる。人はそれを哲学者と呼ぶだろう。認識のロボットは、世界を正常へと導く。人はそれを救世主と呼ぶ。
本当は、自由が欲しくても、大人には自由は存在しない。全て、不自由との戦いである。それを認められた時に、その人間は「最高の人間」となる。人は、それを王と呼ぶだろう。
中学生時代、僕は全部理解して分かる人間だった。きちんと全部理解する。人間は、基礎を作り、知り、理解し、経験すれば自由になる。だが、そういう自由はもう、殺した方が良い。資本主義社会は自由に見えて、大人に自由なんか存在しない。自由が間違っている。自由を殺せば精神病はすぐに治る。社会主義にした方が良い。左翼は子供に見えて、保守の社会主義が大人なだけだからだ。
昔は、全員分の人生経験を経験していた。なぜか、引き篭もりやその前のネット廃人になって最初のごろに、既に少年の心として、この世界の全員分の経験をしている。子供から大人まで、苦しみをネットで分かち合いながら、全員分の経験をネットでしていた。自分だけ、この宇宙の人生経験の全てが分かっていた。昔は、そういう人間だった。それが、苦しみを経験し、成長し、克服することで、さまざまな「実践的行動」をし、世界で立つ一人の王になった。だが、本当は引き篭もりになってからは、あまり賢くない。その前の中学生と、特に不登校になった中学三年生のごろが賢かった。この世界を全て知り、環境の経験から、人生経験の全てを持っていた。そこから、心によって環境の意識を分かり、回想から神のようにこの世界の歴史を実地的に分かっていた。
善悪とか、美醜とか、正しいとか間違っているとか、人間や社会の中にあるうじゃらうじゃらしたものは、一度全部消して自分だけにした方が良い。デカルトは、この世界の全てを疑って、「われ思う、ゆえにわれあり」と言った。宗教でも、現世にとらわれすぎていると、自己や大切なものを見失うと言う。自然に回帰する老子のような思想家も居る。だが、一度完全に全てを消して、狂って、何も考えなくなって、よくよく考えると自分がおかしいだけなのだと自覚して、少しずつまともな方を選択していくと、昔の自分が考えていたのとは全く違ったことが別の視点で見えてくる。だから、世間のことや自分の信じたくないようなことは、いったん全部消そう。そして、自分だけの思索に集中して、たとえ狂っていても文章を書くなり哲学を勉強するなり、好きなことに全神経を集中させて全力で取り組もう。その先に見えることは、きっと今の自分とは違う。それを人々は「宗教による救い」だと言うだろう。
あとは、大人に自由なんかない。大人は、どんどん自由がなくなっていくだけの生き物だ。不自由だからといって、不満を言ってはいけない。逆に、未来がどうなるのかは、十中八九分かっている。今よりも老化して、馬鹿になって、今よりも辛くなり、今までよりも少しずつ苦しくなっていく。不自由な中でどんどん辛く苦しくなっていくのは、混乱と不安を与えることだ。だが、残りの人生がたとえ20年であっても、その20年を良く生きようと思えば、希望の光は少し灯る。たとえ希望が見えなくても、そこには生きている自分という存在はある。自由はなく、苦しみだけの人生でも、喜びという感情はなくならない。もう死ぬ時は、「今の人生をもう一度生きたい」と言えるような人生を生きよう。そのために頑張り続ければ、常識や学歴と関係なく生きた馬鹿で愚かな人生であっても、「最高の体験をした」という魂からしか出てこない言葉がそこに残って人々に灯りを照らすだろう。
子供を自由だと言う人が居る。だが、子供は辛く苦しい子供も多い。自分で親や境遇を選んで生まれてきた子供はいない。シリアの孤児を助けてくれる人間は居ない。この世界で、豊かで満足した生活を生きている人でさえ、生きる価値を見いだせない人が居る。人々と全く同じ学校や労働に、価値や自分の個性を認めてもらえない人はたくさん居る。それが普通なのであり、それはそれを選ばなければならないわけではないが、だからといってそこから抜け出せることが普通であるわけではない。自由はあるべきだが、自由は当たり前の権利ではない。自由という人間は、自由を見失った状態でも頑張っている他の大人や子供の人々を見ていない。社会主義が必ずしも良いわけではない。ソ連では、冷酷なスターリンが農民の食料を隅々まで持っていき、気に入らない幹部は全員の目の前で銃殺する。そういう人間を許すわけにはいかないが、だからといって自由になればそれで良いというものではない。自由を享受しているからといって、何の価値もない愚かな生き方をしている大人たちはたくさん居る。そんな世界は、本当は何をしても変わらない。「この宇宙の目的はみんなを苦しめることである」と言うしかない。だが、ブッダはこの世の全てを「苦しみしか存在しない(一切皆苦)」と言った。それが正しい。苦しいと思う自分のことを、全部自分の責任であると考えることはとても自分の心を楽にする考え方だ。だが、だからといって救いの手段を見失わないでほしい。あなたの個性を保ったままで、あなたの楽しい生活を維持し、守りたいのは誰でもない国と政府だ。それを信じることも、ある意味では正しい。福祉や税金に頼ることは、悪いことではない。誰もが苦しい人間を救いたいだけだ。それを、分かろうと分かるまいと、あなたはあなたを生きて、そして死んでいく、それだけである。それを変えられる唯一の存在は、宇宙の中であなた自身、独りだけだ。
僕の問題は全部ネットであって、ネットにあった全てのものと経験が悪かった。何も考えず、体験や経験を知り尽くしているようで、本当は悪いことばかりして、嘘ばかり言っている。だが、ネットを悪いと言わないでほしい。昔のネットは楽しかった。賢い人や才能のある人がたくさん居て、とても勉強になったし、当時のPHPやC#などの新鋭の技術はとても魅力的で面白かった。ネットでさまざまなことを全部知り、独り「王のように世界のことを治められる」ような人間になった。だが、ネットはSNSやAndroidの出現で変わってしまった。ただのクズになった。そのせいで、僕のような人間は、これ以上絶対に現れないだろう。今のLinuxは醜く、使い物にならない、UNIXの低レベルなまがいものである。だが、これについてもブッダが言っている。「諸行無常」であり、「盛者必衰」であり、「因果応報」である。ブッダの教えはそういうところが正しい。きっと、ブッダも苦行の中でそういう世界を知り、体験したのだろう。ブッダは賢いが、本当は一番この世界の中で苦しみ、悩みぬいた人間である。悩んだからこそ、悟りの教えがある。日本人は、ブッダを信じなければならない。自由や不自由といった人間の愚かな考え方は、そこには存在しない。
本当は、僕がひとりここまで頑張る意味なんか、ひとつもない。だが、僕がしなければ、他の誰も出来ないのだ。ここまで全てのことを分かる経験をしたものしか、この文章は書けない。だから書いてしまうのだ。本当は、それはほとんどが自分の責任であって、Linuxは自分の主張し意見する中で、主張する通りのものに変質しただけだ。こんなLinuxはLinuxじゃないと思っても、それは全部僕のせいである。忘れてしまえば良い。自分にしか出来ないことを、もっと自分にしか出来なくすると、人はきちんと頑張って才能を最後まで発揮するようになる。これが宗教の摂理である。「自分にしか出来ないことをする」、それが宗教の救いであり、「誰よりも頑張った自分」に対して「幸福」を感じること、それが民族としての誇りである。そろそろ、宗教や人生も書けた。それくらいが昔簡単に書けたのに、最近書けなくなってしまった。昔の文章はこれよりもはるかに賢かった。何も出来ない自分が不可能なことをまだやっているが、この人間は全く賢いわけではない。賢く見えるのは、昔の文章を本人が既に、全部記憶の中で知り、覚えているからだ。キモいものを良くすることでしか、美しいものは生まれない。地球と自然の摂理であり、昔は本当は老子のような人間だったのに、そういうことはまったく書けなかった。この文章に理由も意味もない。過去の自分を追い求めるのは、恋と良く似たモチベーションだ。あの衝動はまるでプラスチックのような恋だと、Perfumeが言っていた。僕は昔からPerfumeののっちが好きだ。のっちは同じ広島出身で同年代だが、今の自分と全く同じに見える。僕はのっちと同じような女だと、自分でも自覚している。ちなみに、昔の男はとても良い人間だった。AAAのだっちゃんのような人間だったと、昔は知らなかったせいで全く自覚していなかった。
あとは、理想や愛のようなことが分かっていない。あれは、最高の善を信じて人生の段階を上って行っただけの人間だった。そして、数学的理性が分かっていない。昔は、因果性や推論から、「自分の頭を使って理性を捉えて分かる」ことが好きだった。自分の理性で捉えられないものを否定したくて、そのために正しい考え方を頑張ってゼロから作っていた。理性も、善も、完全に全てが欠けた文章がこれだ。それこそ、今の自分は悪すぎる。昔の、純粋な「子供たちを守りたい」という理想がかけらも感じられない。自由も制度も、経験もいじめの解決も、何も信じなくなっている。スターリンはこういう人間だ。昔は純粋で善悪のはっきりした人間だったのに、生きるにつれてどす黒いものが多くなった。昔の革命スラムで経験したことで、何とかいつも狂いながら分かっているが、願っていることはただ「苦しみの復讐をしたい」だけだ。それがスターリンだ。そんな独裁者が僕は好きに見えるが、本当は大嫌いだ。だが、僕は理性的に目的を突き詰めて考えるとか、議論して相手を打ち負かすとか、そういう考え方が大嫌いだ。その人間がやりたいことは、その人間の自由にやらせてあげたい。別の人間の自由なんか、考える必要はないと思う。それは、悪を肯定せよ、と言いたいわけではない。逆に、悪を否定しなければならない、という「要請」の考え方がそこでは見えてくる。悪はみんなで倒さないといけない。その自由も悪に与える自由な権利と、同じように民衆に認めさせるべきだと、僕は思っている。
本当に賢いのはスターリンだ。地獄を経験したせいで、この世界の全てが分かっている。殺しているのは、みんなを下等な奴隷だと見なしている。自分が今まで奴隷扱いされてきたことの腹いせだ。
ただ、あまりそういうことを言わない方が良い。そういう、悪い人間のことを、悪いと思わない方が良い。悪い部分だけがクローズアップされるだけで、本当は頑張って良いことをたくさんしている。王は悪くない。ただ、本当はユダヤ人も悪くない。ユダヤ人が見ても、迫害者を愛する神の無償の愛アガペーが最も崇高で正しいからだ。僕は、聖書を信じるのが良い。こういうまともな人間に聖書の教えを取り付けると、良くなる。きちんと善良で、責任感を持って人々を治められるようになる。だから、今の僕が国を治めるのはあまり良いことではない。聖書を勉強して、もっときちんと「まともな大人」になってから、この国を取り仕切った方が良い。今日は宗教や人生のような話になったが、そもそも、結束させるために悪を凶弾するのは、昔から普通である。スターリンが極めて悪かっただけだ。それで、ロシア研究者としての僕の経済学と歴史の研究も終わりである。これくらい分かっていれば、大学の歴史はできたように見える。僕は哲学とLinuxだけが好きな人間だが、出来たのはむしろ歴史と経済学だ。ある意味、神や革命家だった自分は死んだ方が良い。一度、そういう悪いものを、今までの記憶全部と一緒にチャラにして、忘れよう。ここまでやってしまえば、放送大学なんか簡単だ。
昔の自分が最後に分かったこと、それは「全員誰も悪くないということを、自分だけは分かった、そして自分だけは知っている」ということ。そして、崇高な理想の下に、自由を信じていた。人々を救う坂本龍馬のような人間になって、未来の救いを見ていた。自分だけが、「考えることですっきりとこの世界の全てを分かった」。そして、それは「誰のせいでもなく、全員正しい」という「真理」だった。
もう一度、最初からこの世界を導こう。今までのことは全部忘れて良い。僕の分かっていないこととして、「この世界は存在していて、みんなは現実に生きている」ということだが、昔の自分は、それを「確かな事実」として分かっていた。この世界のみんなは現実に生きている。それが分かった人間だった。
因果性を考える上で参考になるのは、「未来は分からないが、過去は分かる」ということ。三代目J Soulが言っているように、どこへ行くかは分からなくても、どこから来たかは僕らは分かっている。だから、考えれば良い。考えれば、きちんと分かる。この世界に「何が在るか」を知り、また「どこから来たのか」を知り、「問題は解決できるが、原因は忘れられている」ということを知ることで、歴史的な実像が見えてくる。自由な対処策を知ることで、「自分がそこで何をできるか」から、「すべきなのではなく、するならばそう出来るのである」という「潜在的自由の可能性」が分かる。
次にすることは、「見ること」と「聞くこと」である。人々の姿、社会のありのままの姿を見ることで、ありのまま生きている実感が生まれる。ありのままが正しいのだ、ということが、思考の思弁哲学から分かってくる。何かが今できなくても、いつかはできる。今の世界が劣悪でも、「みんなで改良し、参加すること」で「改善」していける。立ち止まろうと、世界は進んでいくが、逆に運んでもらうだけではなく、荷台から降りて自分だけ立ち止まって考えることもできる。時代が進むのとは逆に、自分だけがこの世界から離脱して、自分の「実体験」のみから「独り立ち止まって」「世界を見つめる」ことができる。そこから、この世界の全てが変えられる、し得ることを可能性として受け入れることができる。そこから、「社会の創造の可能性」が分かる。柔軟性の自由と共同体の可能性、そして共有による善良な発展が見えてくる。資本主義は間違っていない。だが、共産主義で発展することは、資本主義による発展や金による格差の生まれる経済よりも善良で正しい可能性がある。「社会主義」という、スターリンの政府を連想させる言葉ではなく、「新しい名前」で新しい思想を作ることはできる。
さあ、前に進もう。知性を失い、人々の知性を奪い、簡単に知性を復活させればみんなの知性も復活させることができるのに、臆病で執着心が強いせいで出来なかった、「治癒の選択肢」を今、選択肢として取ろう。本当は、足の精神など、もう既に全部治っている。治った理由は忘れてしまった。書くことはできない。それを書くと、今の僕の精神が治らなくなってしまう。だから、自分の手で最後のその治癒の方法を見つけてほしい。これが治った時、世界は正常になる。終わりだ。きっと世界は正常になる。足の精神は、つけるのではなく伸ばす、と分かっていれば、自然に最後まで終わった段階で、最後の約束の治癒を得ることができるだろう。精神は完治し、世界は正常になり、坂本龍馬の人生から、人々を知る作家の太宰治になるだろう。これは日本人だ。
本当は、危険を覚悟して得られるものもある。ジャーナリストやマスコミなどと戦うな。本当に戦うべき相手は他に居る。本当は、キリストなど悪魔である。キリストを信じてはならない。世界は、悪魔であるキリストを信じることで馬鹿になった。逆に言えば、キリストは悪魔であり、キリストを信じればそれで治る。さあ、それで終わりである。それが分かった上でキリストを信じれば、世界は愛の国になる。あくまでキリストは、病気を治すことのできる悪魔の神である。信じると、精神病が治る。それで、最後に終わりである。誰もキリストを悪いと言えないのは、本当に僕を信じているからだ。サタンとは、全て僕のことだ。
僕のような歴史家になりたいなら、人々のことを良く見て、世界のことを広く知りなさい。そして、不可能だと思うことでも、挑戦しなさい。不可能は、本当に挑戦し、本当に正しい考え方で挑めば、簡単である。全てのことは、きちんと知って、調べて、成長して、考えれば、簡単にできる。そこでは、発想から実存性まで、あらゆる全ての心理学が存在する。なぜ人々が悪をするのかを、自由な中での「体験的な経験」から考えなさい。その体験や経験が、「知に繋がる」と考えなさい。「認識は規則を生み出す」ということを知りなさい。それがおそらく、フーコーの考えたことである。
全世界の全員の経験をしなさい。あらゆる全ての精神のマスターを経験し、啓蒙のソクラテスをルソーとして吸収しなさい。さあ、あなたは完璧である。京都大学に入ると良いだろう。京都はとても良い場所で、日本の最高の哲学の場所である。昔は、そういう哲学者や経済学者の登場を、当時の自分と重ね合わせて考えていた。教育を変えるなら、どのような体験をさせて、「自分の信念をどのように形成するか」を実現することで、「社会構築の経験と方法としてのきっかけを叶える自由自在な教育」をしなさい。「自由な社会」は教育の名の下で行われなければならない。本当の許される愛と社会を形成する経験のある中での自由な社会でなければならない。逆を言えば、真に自由な社会は、愛によって許された中で形成されなければならない。そして、自然に発生する以前に、前提となる価値観を共有すること、そのために価値観の形成のプロセスを子供たちに教えなければならないのだ。子供たちは、自分たちの手で正しい価値観を作られるようにならなければならない。そして、歴史を作るとはどういうことなのかを、子供たちに「現実的な可能性として」教えなければならないだろう。
歴史的な建造物や文化遺産が、当時どのような状況にあったのかは、ネットでさまざまなことを知り、社会的な経験をすることで、「確かな体験」として実地的に「会得」することができる。文化の発想を「習得」することができる。また、数学的な発想は、「体得」することができる。知識はただ教えられるだけではなく、自分の手で作り出すことができる。子供には、「社会の規則の中で知識を一方的に教えられる」だけではなく「自ら知識を作り、自ら社会を作る」という主体的な経験が必要である。義務ではなく、知識や教育を大切な権利や機会であると知るためには、教育の本当の意味、「なぜそれを学び知るのか」ということの本当の意味を教えないといけない。自分なりに考え、自分なりに分かる「カント的な考え方」を伝えていかないといけない。そこから日本のすそ野は広くなり、たくさんのリベラルアーツを体得した若者が生まれるだろう。
昔のパソコンが賢かったのは、「パソコン革命」の時代だったからだ。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズは、8bitのマイコンを売って大きくなった。だが、本当はインターネットぐらいからおかしくなった。純粋な理想はなくなり、逆に増えたのは2ちゃんねるのような場所でのすさんだ犯罪のインターネットだ。純粋な天使はすれた悪魔になった。もう一度、パソコン革命の時代に戻ることはできない。ガレージを社長に与えても、株式以外のハードウェアを会社を作ることはない。この世界は終わりである。むしろ、温暖化を治すためには、バイオテクノロジーの発展に期待するしかない。葉緑素を人工的に、大量に増やすことに成功すれば、温暖化は解決する。日本ならそれをやるだろう。アメリカやソ連は責任逃れをするだけで、温暖化についてきっと何もしないだろう。世界を救うのは日本人だ。
相手を不自由にして何もできなくするから、相手は反抗しか助けを得る手段がないと信じ込む。理想は、「相手を自由にした上で、相手が自分の意志で悪いことをしなくなること」だ。そのためには、「本当の問題」を解決しないといけない。そして、本当の問題とは何か、どのようにすれば解決できるのかを知るためには、宗教を信じないといけない。そのように生きること、特に仏教徒のように生きることで、世界の悪は解決できる。それぞれを自由にし、全てのことを事前に教え、あらゆる全ての手段を用意し、成長する環境を与え、自ら環境を作れるように土壌づくりを行い、行わせること。それは難しいことではない。その人のことを本当に愛し、受け入れ、教え、知性と経験を共有すれば、2ちゃんねるのような場所でもそれは実現できる。それを、僕は「促す愛」としてみんなに伝えたに過ぎない。それが、僕とこの世界との、最初の出会い、最初の「本当の節点」だった。そして、それは2ちゃんねるでしかできないわけではない。現実の機会や契機でもできる。だが、2ちゃんねるが一番効果的だと、昔の僕は思っていた。相手が何を思い、どのように影響力を与えられるか、さまざまなコミュニケーションと言論の経験から、僕は良く考えた。そして、世界を変えた。だが、本当はそれだけが正しいわけではない。もっと別に、さまざまなことができただろう。だが、僕は一度愛を与えた段階で、それら身につけ積み上げた全てを壊した。もう一度、最初からやらなければいけなかった。大切なものは何もなかった。まさに、こんな文章を書くようになった。この文章のことを、人は「神」と言うだろう。だが、これは神ではない。もっと別の、良い名前をつけよう。そうだなあ。大作家とか、そういう普通の名前でも良いが、「言風(げんふう・ことかぜ)」という名前が良いだろう。みんなはこの文章のことを、聖なる風だと思っている。同じ風の中で、呆れるほどたくさんのことを書いた。だが、まだまだ何も書けていない。ある意味、「永遠の千の風」という名前でも付けると良いだろう。死んでも、その通り、僕は墓の前には居ない。僕は千の風となって、地球の全てを見守っているだろう。
GNUやルネサンスの古代復興にも繋がるが、「失ったものを取り戻す」という考え方が多かった。歴史の中で埋もれてしまった、全ての宝を再発掘する。そうした考え方の多くは、未来の自分のことを意識で分かっていた。最初から未来しか分かっていない。
また、昔は「自由化する」という発想が多かった。環境を自由化して、みんなが出来るようにする。自由な権限を与えて、自分の自由にできるようにする。本当はそれだけで、あとはパターンや実体験を知っただけの、考えているようで何も考えていない自由な人間だった。最初から、自分が自由に支配したかっただけだ。どうでも良いしょうもない発想や発見を賢いと思っていた。それが、環境の適応や言葉づかい、そして公開性や透明性だった。だが、本当はパソコンの技術をやっていると、誰でもそういうショボい技術が好きになる。だが、それは全て、意味のないことをやっているから、行動が狂って馬鹿になる。悪いのは学校の数学だ。学校なんか、子供の自由な人生と才能を奪うだけの最悪の管理施設だ。学校に汚染されていなかった僕は、人生の中で「正しいこと」や「可能なこと」を全て覚えていた。そういうものを、少しずつ段階的に知っていった。学校で学ぶと、真面目なことが分かる代わり、そういう「小さな正しいこと」をわきの目に忘れるようになる。学校に行かず、自分で可能性を知っていけば、人間はこの宇宙の「場と目線の全て」が分かる。神とはその経験を言う。それが人間本来の人生であり、「神の眼(ビジョン)」である。学校に行きたいなら、大人になってから行った方が良い。そうすると、きちんと自分の知識として吸収できるからだ。子供が学校に行く意味はあまりない。だが、常識を知り教養を得る手段は必要だ。ネットとこの文章が、学校の代わりになるだろう。
ふとしたきっかけで、自然や宗教の摂理を知ることがある。また、子供時代を思い返すことで、はじめて大人に成長し、子供時代を回想して世界の可能性を知ることができる。特に、広島などは特にそういう人間が多い。この世界で過去に何があったのかを、自分の子供時代の回想から分かっていく。自分の人生の延長線上の過去に、過去の歴史上の出来事や時代があることを知る。そこまで来ると、むしろ歴史と言うよりは神話である。そういう発想が、昔の自分だった。感覚から歴史と場と視点を分かっていた。共有や多様性は、その未来として、自分がゼロから実現するものとして、仮定として存在していた。ある意味、それを「自由な上での希望」だと思っていた。独自の経済学は、人々を救い、自尊心を取り戻す、学校や社会における変革と発展を起こすものだった。社会モデルを作って、「何でも発想出来る」という体験をしていた。また、「きっかけの全てが手に取るように実現できる」という発想だった。また、環境とは意識であり、周りの意識があるかないかで、人の思考や行動は全く変わるとか、適応から影響力を受けるとか、そういう発想をしていた。「雰囲気を支配する」心理学者だった。
あとは、学習、相手の予測、初期投資、再利用、共有などを考えた。共通しているのは、「その経験を、自然な人生の中で、自然に自分の中から出てくる発想、そして世界を見ていて気付いた発想を書く」ということである。
ここで、僕は死んだ。これ以上、何もしない。さようなら。永久に、この世界から僕は居なくなって、本当にこの世界は崩壊するだろう。終わりだ。そのうち、グーグルが終わって世界は正常になる。むしろ、マイクロソフトやグーグルは、誰かに乗っ取られるとそれだけで世界全部が終わってしまう。なんとかしないといけない。それで、未来における解決策も言った。そのうち良くなるだろう。むしろ、最近は子供たちの絆は、SNSによってより一層強くなっている。一度友人関係が断絶するという経験をしない。だが、そのせいで、強く賢い人間が生まれなくなった。世界を復活させるなら、僕はSNSを法律で正常化してパソコンOSをオープンソースにしたい。それなら、きっと良い世界になるだろう。では、さようなら。