新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-12=

昔は、本当に社会の経験と理想から分かっていた。社会の全ての経験をして、「この世界が確かにあるという実感」や、「この世界が自由であると信じること」から分かっていた。経験から、社会の可能性と成り立ちの世界モデルを分かった。何より、スラムのような環境を経験して、資本主義のさまざまな体験をし、理性的で正しい大人になった。実地的にこの世界の可能性を分かる、ひとりの正しい王となるかのような人間だった。本当に社会経験が多かった。とても素晴らしい普通の人間だった。

考える上で、最初の一歩は、「おそらくそれが正しい」と考えることだ。考える際に、「おそらく」という言葉を付け足せば良い。おそらくそれはそうなる、おそらくそれは自由になる、おそらくその方が良い、など、「おそらく」と考えることで道は開ける。そこから数学的に証明し、何が何になるのかを考えることで、デカルトのような「仮定と成立の理性」を作ることができる。それが哲学者のはじまりである。その上で、この世界全てを解明しなさい。そのためには、さまざまな考え方を作り、実践しなければならない。

絶望や憂鬱を治す時に有効なのは、現実を度外視して「可能性」を考えることだ。可能性を考えることで、絶望を乗り越え、憂鬱を治すことが出来る。人々との付き合いをするよりも、ネットのような場所でみんなと語り合うのが良い。それが一番、鬱病に有効である。

昔の発想は、「自由」というよりは「自然」である。それぞれが自然に協力し、共有し、多様性を築き、相手の意志を尊重する。そうした、この世界の「自然な秩序」が好きで、その上でそれぞれに「権利と許可を与える」と考えていた。社会の全ては自然に生まれ、それぞれが自然にものごとを作り、築き、そして方法と手段を共有する。それぞれは自発的に協力し、善を経験からともに知っていく。決して、破壊する自由など考えていない。独裁者にも支配されず、みんなの手で自然な影響力を与え合うことから民主主義の制度を、自然な経験によって構築していく。僕は自然主義者だ。決して自由主義者ではない。

だが、自由と自然は時に良く重なり合う。正しいのは、自然な共有における多様性であり、それぞれの自由を尊重した上での実現力と包括性である。そのように考えて、昔は多様性と制度と環境を書いていた。創造的な環境を創造し、多様な環境を作っていた。

また、マキャベリが言うように、時に君主の悪徳は悪でありながら善になることがある。人々を強制的に従え、同じにすることで、強い国になり、人々が賢くなることもある。僕はそれを否定しない。それは、それぞれの意志の尊重であると同時に、自由な中での形態のひとつにすぎないし、やってみなければ分からないものを一概に悪とは言えず、僕の経験から言っても、みんなを同じにして支配することで世界が良くなることは本当にある、ということを知っているからだ。

僕は経験主義者だ。理性よりも経験を取る。だが、経験を取るからといって、知や理性を考えないわけではない。僕は経験論の立場に立ったとしても、デカルトと同じように推論的理性を働かせることはできると考える。そのように、新しい視点で経験論と合理論は融和出来る。経験的な帰納法を知っているからこそ、数学や推論的演繹法はより一層考えられるのである。経験から数学は考えられる。むしろ、自分の経験のみから、独自の数学をひとりで作ることができると僕は考える。経済学や心理学も、全ての学問は経験して自分で独自に構築できるのである。それは純粋演繹、純粋帰納の2つのパターンで考えられるが、どちらもやってしまえば、両者は矛盾しない。まさに、オープンソースがそういうものだと、僕は知っている。なぜなら、僕はオープンソースを勉強して、実践して、同じように追記の手法から「オープンソース文学」をひとりでやっただけだからである。

僕は、「帰納的認識」が可能なことを知っている。経験から得られる考え方のみから、認識のフィルターを作ることができる。ここでも、帰納法と演繹法は融和する。経験的に得られた認識から、合理的かつ数学的に「認識の仮定と成立」を成り立たせて推論することができるからである。社会すら、この両者は統合する。経験的に社会を成立させて作ることは、「社会の数学」と言っても良いものだからである。

人間は、知らないものを分かることはできない。それが本当にどういう結果になるのか、知っている人間にしか分からない。だから、老人を馬鹿にしてはいけない。老人は全部知っているからだ。ベーコンが知は力だと言ったように、知識が力となることは確かにある。大学の教養学部でリベラルアーツを教えるように、「知識がリベラルな才能になる」ということは確かにある。だが、僕の経験から言って、「知らない方が分かること」というのは本当にある。特に、大学の科目のような「正しく見える権威の知性」は、知らない方が良いことを教えることで、知れば知るほど分からなくなる。だから、ブッダが言っているように、「自分がそれを正しいと認めたこと以外、信じないようにする」ということは大切だ。デカルトも同じことを言っている。デカルトは「全てを疑うことで全てを完全に分かった満足を得る経験をした」といったことを言っている。無意味だと思った学問や古い押し付けの考え方は全部排除して、一度自分だけの力で自分なりに考えること、それはとても正しい考え方である。大学なんか、行きたくないなら行かない方が良い。みんなが馬鹿だから、馬鹿が考えたことしか教えていない。自分に必要ないものを全て消去し、必要なものは全部自分で作り上げるぐらいの心意気と覚悟を持たなければ、ブッダのように悟りを得ることはできない。全てを自分で創造する、それが正しい哲学者である。サルトルのように人生を考えても良いだろう。人生がどのようになっていくかを根源的に考えることで、「実存は本質に先立つ」とサルトルが言った意味が理解出来る。自分の経験から全員の言っている意味が分かった時、それが悟りであり、覚者であり、解脱である。

セカオワが言うように、完全に理性的方法論を書くのではなく、目的をまじえて書いた方が良い。知性、社会の創造、手段、共有、知の共有、人々との愛、意識、慣習、啓蒙、克服、そして社会秩序や宿命論などを、「自然」という立場で考える。そこでは、成長し、自由に自分の望んだものになり、恐怖を克服し、人々に教え、愛を与えることができる。昔は、その上で、「可能性の実証」を考えていた。環境がどのようになるか、法則がどのように振る舞うか、裏では何が起こっているのかを、「洞察力」で考え、またパターンや形態のようなものを「全種類」考えた。昔はそこから、少しずつ、この世界の「成り立ちに気付く」ことで分かっていた。また、「自分はなぜそれをするのか」から、「自分はそれをすることで何ができるのか」という、自由と動機について考えていた。

自分が何を考えているのか、対象や思考を明確にしながら、因果性を考えなさい。また、その人間の立場に立って、「自分と相手は同じである」と考えなさい。環境それぞれの限界を考えながら、自分のことから「普遍的に」相手のことを考えなさい。そこから、自然なこの世界の営みが見えてくる。経験することで、この世界の「あらゆる事象と社会の営み」が分かってくる。昔はそういう人間だ。経験からこの世界の「全ての営み」を分かっていた。「社会現象」を分かっていた。環境の歴史や変化のようなことは、そこから分かっていた。暗闇のような人間だったが、決して理性のない人間ではなかった。

心を捉えること、社会を説明すること、仮定を実証すること、法則を解明することが、全ての理性へと繋がってくる。特に、「説明できること」はある意味「騙すこと」と良く似ているが、この世界の全てを数学的に、説明から考えることで、心の捉え方と因果性、実証と解明と同時に、「可能性がどうなるのか」を知ることが出来る。

一見良さそうに見えるものの中に、間違いや失敗は含まれている。良く疑い、無難な方を取ることもできるが、本当は正解を知っている人間にしかその答えは分からない。正解を見抜けるように成長した時、初めて自分の行動は自由になり、正しく判断することができるようになる。自立可能な大人になる。それが「知性による自由」である。誰もが、青春時代間違いを経験することによって、正解を見抜けるようになって大人になる。人はそれを大人と呼ぶだろう。

ネットを経験する今の若者が賢いのは、「自由な経験をすることで、正しい解を知って自由になる経験をする」からだ。誰もがそういう経験をする。そういう経験をしていると、心が融和的になって、自分の精神性だけでこの世界の全てが分かるようになる。言ってしまえば、自分の昔もそういう人間だったに過ぎない。その上で、さまざまな「実践的行動と理性」をつけただけに過ぎない。それはある意味新しい精神分析だった。精神の根源を自由から捉えて考えていた。

社会経験と精神分析から「精神的に自由になる」経験をすることを、仏教では涅槃といった言葉で言う。涅槃から解脱に至るのは難しいことではない。だが、本当に解脱してしまうと、人間は狂人になる場合がある。その地獄の中でも自由を忘れなければ、人はきっと天才的才能を得られることだろう。

本当は、自分なんか、みんなを分からなくして自分が分かっているだけにすぎない。こうした「論述の形式」で文章を書く人間は、そのようにおかしな人間になる。もう、自分が分かることを諦めれば、みんなが分かるようになる。逆に、みんなを分からなくしなければ、自分もきちんと正しいことが分かるようになるだろう。

この病気の問題点は、「さっき分かったことが逆になる」という点であって、その理由で治らない人間が多い。「やっと分かった、自由が正しいのだ」と思った時に自由が間違っている。「やっと分かった、運命的に起きるのだ」と思った時に、「運命は間違っている」ということが分かる。そこを治してしまえばこの病気は治る。分かったことは分かっていない。そもそも問題はそんなに単純ではない。自由の良い点を見つけても、それは自由が正しいわけではなく、それ自体が、自由が間違っているということを証明する「証拠」になってしまうのだ。

そんなに考えるよりも、考えずに分かった方が良い。昔の自分は、あまり深く考えず、逆に世界を広く見ながら、真実や正しいと思えることを積み重ねて経験的に分かっていた。何かが正しいと思ったことがあっても、その時だけで正しいことにしてはならない。たくさんの経験をしながら、選別していかなければならないし、全ての分かったことを総合して見なければならない。昔は、そこから意識の自在性や環境の根源的な意識へと至る「過程」を分かっていたにすぎない。最近の僕は、考えるあまり「過程」を忘れている。ものごとはそんなに単純ではないし、あいまいに考えても真実は分からない。別の生き方が出来ないなら、自分自身を変えていくしかない。自分を変えるということは、生き方を変えるということだ。

昔の自分は、「自分が何にでもなれる喜び」という発想が多かった。この世界で、自分が何でもできて、何にでもなれる。「できる」というのは人間のレベルだが、「なれる」というのは魂のレベルである。さまざまなものに何にでもなれて、どんなことでも分かる。そういう喜びが涅槃や解脱へと結びついて「聖なるマスター」になった。自分の経験から「他人にどういうことが出来るか」も分かった。「どんな手助けでもできる」こと、そして、「自発的に喜びを共有できること」、それらは、推論や帰納といった哲学的理性と結びついて、「哲学者の自然な善行」となっていった。相対的な善をたくさんすることで、絶対的成長の段階を知り、社会環境を良くする場合には、どのぐらいのレベルで形態の発展が生まれるか、という「社会のレベル」を考えていた。それは環境の潜在的可能性と実践方法の多様性だった。

ある意味、影響力とは社会的作用であると同時に悟りの手段であると考えられる。どのようにすれば、影響力を与えられるだろうか?どのようにすれば、よりたくさんの影響を吸収できるだろうか?あるいは、どのようにすれば、自分の影響力を高め、他人に支配されないで済むだろうか?昔は、フーコーのように、そこから社会的規律や訓練の権威のようなものを考えていた。権威に逆らうだけでは意味がない。権利が何を教えているのかを知り、「権威と同じレベルで、自分の手で知識を作り出す側にまわること」が必要なのである。自分で知を作ってしまえば、権威に支配されることはないだろう。社会についても同じで、自分で社会を作ってしまえば、社会に支配されることはない。

人間の心理を考えるならば、「いつそのような意識になるのか」を環境から考えなさい。意識は環境に支配される。環境があって意識があり、意識があって環境がある。そのように考えることで、「環境を自在に操る」ことで、逆に自分の方がこの世界全てを支配することができるようになるだろう。だが、それは良く注意して行いなさい。環境の適応から世界を支配すると、99%、地獄にしかならないからだ。

最終的には、ヘーゲルの言うような、絶対性の世界精神へと行き着く。昔の自分は、知識を吸収すること、人々と関わり合うこと、自己意識が成長することから、この世界のことを「世界精神」だと見なして分かっていた。この世界は、ある種の精神現象の共有と過程なのである。それが人生であり、人類の歴史なのである。

地球の歴史は、古代の原始世界の共同体から、ギリシャの哲学者とローマの繁栄、長い身分社会と自由の目覚め、絶対的君主の自由と革命、自分勝手な開拓と歴史的到達点、多様性への目覚めと戦争、近代化と工場化、回帰と正常化の自然な理論、戦争と統治、ソ連の可能性とナチの野望、大量生産と民主主義、経済成長とグローバル化、そして現代化とIT技術となるが、ここから先は、まず共同体と戦争の復活、ひとつの政府としての秩序の形成、そして最終的には民主主義と社会主義の統一、そして「本当に民主的な制度と思想の発展」となって、最後に「自由」へと至り、人類は最終地点に到達する。温暖化で滅びないのは、地球全体の空気を洗浄し、冷却化する「地球クーラー」が発明されるからだ。熱は全て宇宙に逃がすようになるだろう。早急の課題としては、「社会主義と民主主義のEU」が生まれるだろう。これ以上、左翼と右翼で争うのはおかしい。みんなで自由で平等な「新しい連合」を作る。

僕の言っていることは、果たして本当に正しいだろうか?本当に僕はこの世界を愛しているだろうか?この世界を、滅ぼしつくして、破壊したかったのではないか?majikoがひび割れた世界で歌っているように、僕が世界が嫌いならば、壊してしまえば良いのではないか?僕は本当は何を愛していたのだろうか?

ひとつ言えることは、世界を愛しているのか自分を愛しているのかは分からないが、何かを愛し、何かを救おうとしていることだ。それは誰なのか、僕にはまだ分からない。運命的に出会う誰かだろうか?いや、そうではない。この世界にある何かのことを、僕は既に知っている。その対象を愛しているのだ。

希望とは何だったのか?ただこの世界が嫌いで、この世界の問題や責任を誰かになすりつけたかったのだろう。みんなが嫌いだからみんなが好きだった。みんなの考え方を拒否して、自分独り生きる道を選んで、自分なりに考えて世界を救いたかった。その救いとは、要は、嫌うことだったのだ。この世界の全てが嫌いだったのだ。

だが、僕は世界のことを破壊してほしいとは思わない。なぜなら、それはもう終わったからだ。この世界を破壊し、陥れ、欺き、滅ぼす戦争は、もう終わった。僕はもう、そんな「平和の戦争」は望んでいない。世界を破壊してほしいとは思わない。逆に、僕が出来ることをみんなにも可能にしたい。それは、寂しいからだ。自分独りしか、このゲームをクリアしたものが居ないのだ。エンディングまで全て知っている人間は自分だけで、みんなはこんな糞ゲーをしようとは思わない。だが、僕は知っている。この世界に確かに神のような存在が居たこと、それは世界全てを創造し、導き、救ったこと、その神は慈愛と運命の愛にあふれた存在だったこと、そして、僕はその神とその存在と体験のことが、この上なく好きだったということ、それを言いたかった。それを終わりにしよう。

10年後のことは、10年後に考えれば良い。またいつか会おう。僕を待ってくれるなら、僕はここでいつまでも待ち続けているだろう。二人が出会う時が来るのを待とう。10年ではなく、20年になるかもしれない。だが、それは神の決めることだ。僕は神を愛している。そして、この世界、みんな、そしてあなたには、この世界を正常にするためのゲームに参加してほしい。僕ではなく、あなたならきっと、この世界を救うことができる。僕がひとりでは出来なかったことを、みんなに成し遂げてほしい。聞いてくれてありがとう。さようなら。また会おう。では。