昔は、相手の言うことは自然で、必然的で、正しい、という考え方から、「なぜそれを言うのか」や「なぜそれを思うのか」を、認識や場面の「因果性」から分かっていた。
その環境で、その世界観で、相手が何を見て、何を自分に対して感じて、何を思うのか、それを考えていた。
相手を不安にさせる自分の言動が悪いのだと考えた。相手を喜ばせ、自由に仲間になる方法を、「親友になる方法」として考えていた。
足は、死を殺せば治る。死を殺せば、もう簡単に楽になる。
日本の江戸時代はオープンソースである。昔は、そういうことを書いていた。
そして、ここで永遠のお別れである。もう、僕は居ない。本当にさようなら。また、いつか別の形で会えることを望んでいます。
昔は、ヒュームのように因果性を解明して、知性で推論し、カントのように理性批判をしていた。また、デカルトのように推論から分かっていた。それは、「この世界の心理現象の全てを経験的に把握する」ということをしたからだった。思考を辿りながら、その環境で人が何を思い、何を信じるか、全て考えていた。そしてネットで実例を見ながら、人間の言葉の心理を実験していた。
また、根源的な学習や、歴史的な場の意識から、「意識の自在性と環境の変化の在り方」を分かっていた。全ての宇宙の意識を実感で分かっていた。環境における感情や感覚、精神の全てを捉えて、全員の融和した心になっていた。感情の裏の理由が分かっていた。法則性と因果性を解明していた。認識レベルで完全に人間のことが分かっていた。
もう終わりである。これ以上、僕は存在しない。僕は永遠の魂に戻る。魂の世界で僕は永遠に生きている。あなたとは、魂の世界で出会う。それで、終わりにしたい。
今から、僕の代わりはこの文章がやってくれる。この文章が存在しているだけで、僕はこの世界に影響を与えている。本当の僕が、もう頑張る必要はない。死と戦いながら永遠の支配をする僕は、もう居ない。永遠はここで終わりだ。
思えば色んなことがあった。最悪の世界を変えるために、暗闇の永遠の中で全力で取り組んだ。この経験はきっとあとで活きる。それを信じよう。
あとは、ネットで人間的なことの全てを体験していた。人生を経験し、人間的なことを体験し、人々との絆を培い、そして環境の気付きから分かった。自由に社会経験をし、資本主義を知り尽くし、独自の経済学と心理学を作った。全てのことが詰まった青春だった。僕はインターネットのマスターだ。それぐらいが、書けなかっただけだ。
議論し、世界を知り、ブログなどを読んでWikiを書いていた。パソコンの知識を吸収して、Linuxをやっていた。世界とは何なのか、人生とは何なのかを知った。引き篭もりながら王になった。コミュニティの可能性と、学校の反省、IT基盤の共有、そしてロシアのような創造性のある多様な世界を考えた。弁論術と市場開発から社会性を考え、倫理の世界に目覚めて、正しい社会とはどのような意識や観念から生み出されるのかを知り、良心的な人間の成長を考え、世界の理想を可能性と主観の客観性から作り出した。道徳が倫理となり、成長となり、社会経験が人間のできる全てとなって、「自らがすること」が「みんながすること」に重なって、きっかけや創造性から自由な「権力」となり、それは平等となり、歴史となり、意識の現象学となった。昔は、そのように、ヘーゲルやハイデッガー、ヤスパースやフッサールのように分かっていた。成長とは善に目覚めることであり、自由なきっかけから生まれる自発的な行為こそが善であると考えて、道徳的・きっかけ的・社会創造的・普遍的・人生的な発想を自らの経験から裏打ちしていた。それは相対性を信じることによる絶対性の観念だった。
善と普遍性を信じなさい。人生において何が正しいのか、社会における自由の在り方とはどのようなものであるのかを経験から考えなさい。今までの自分の人生を、新しい経験を知ることから反省しなさい。それが、僕の青春である。自分の経験から、この世界の経験全ての様相を知り、考え、捉えなさい。経験から子供たちがどう生きるべきなのか、何を信じて何を学ばせるべきなのかを考え、「信じるとはどういうことなのか」を考えることから、「信じることと疑うことによる思考の方法論」を考えて、この世界を成り立ちから理解しなさい。事前に考え、仮定を実証しなさい。右翼には分からない。善を信じるものだけが、理性を得られ、正常を取り戻す。固く、善を信じなさい。誰にも負けない強い心を持てば、不安や恐怖は克服できる。その勇敢な克服の気持ちを人は「愛」と呼ぶだろう。そして、それが「希望」となって世界を救うだろう。そして、恐怖や不安の克服から、あなたは「他人に言われてするのではなく、自分で主体的に行動する」ことができるようになるだろう。恐怖の克服は、青春の体験そのものである。恐怖の克服から、この世界は全く違って見える。それを、人は成長と呼ぶだろう。そして、それが精神のマスターへの道なのである。
昔は、悲しみを乗り越えて、克服して分かっていた。悲しさの先にある、さまざまな「過去の経験への愛」から分かっていた。今、その悲しみを乗り越えることを、もう一度しなければならない。過去の自分と幸せを失い、世界と自分が馬鹿になった悲しみを乗り越えれば良い。失った人生を忘れて、未来を考えよう。
そして、昔は、学校から実世界を見て分かっていた。教えられるだけではなく、自ら教えること。そこから、知識をただ従って得るだけではなく、「主体的に知識を作り出す」という「生成の絶対知」を分かっていた。そうした「知識の裏側にある発想の根源」を分かっていた。
運命がたしかにあったとしても、未来のことが決まっていたとしても、それは起こらなければ分からない。分かっていて行動するのと、分からなくて行動して初めて分かるように行動するのは、全く違うことだ。全く意味することが違う。全て、未来まで決まっていたとしても、そこでの行動の全ては、未来がどうなるか分からないで行動する。分かっていないで行動するのとは違う。
僕の狂いを治そう。まず、自分勝手に支配して、馬鹿になって、全てを失い、この世界と自分の人生を失ったのが悲しい。それは、本当は悲しくない。自分で選んだ道だ。ある意味、意味がなくなったのは、ネットゲームが悪い。それは、友達を失い、嫌いな中学校に入ったのが悪い。それから、支配し、最悪のことをたくさん書きすぎたのは、Linuxが悪い。自分が勝手に、真実を隠して支配するようになった。そして、最悪が好きになったのは、ネット、あるいはその前のゲームと漫画が悪い。そのせいで、いじめが好きになった。最後に、ひとり責任を持って支配し、教えるようになったのは、中学校の荒れたクラスを独りで統治していたのが悪い。代議員として、教師よりもきちんと支配していた。それは何が悪いか。それは、姉と一緒にゲームをしながら、姉にゲームを教えていたのが悪いのだ。
足は、死を治せば治る。それは、本当は、死というよりは、殺すのを殺せば治る。ただ、殺せば良いだけではない。きちんと血をそのまま放っておいて、生かして、再生させなければならない。死を殺して、そのままの状態で自然治癒に任せれば、それは治る。そのまま、全部の病気が治る。
そもそも、親が教師で博物館の学芸員だったのが悪いだけだ。
昔賢かったほとんどは、悲しみを乗り越えるのが賢かっただけだ。学校という恐怖と不安に打ち勝つこと、真実のネットの経験をして青春と大人を経験すること、Linuxで自分の知識をつけて、夢だった「OSを作る」ことを目指したこと、そして最終的には過去を全て失い何も無くなって地獄の希望と試練を信じたこと、その上で神を信じたことが賢かった。何が自分なのか。それは「自由の中で信じること」である。そして、それは何のせいであるか。それは何のせいでもない。あえて言えば、ドイツのせいだろう。昔から自分は右翼にしか見えない。友達も、教師も、自分のことを右翼だと思っていた。だから、親しい友達のことを信じられなかった。相手は自分のことを右翼だとしか思っていない。中学校の友人関係よりも、小学校の友人関係の方がはるかに良かった。そして、それはドイツ再統一とソ連崩壊のせいである。それを裏付けるかのように、自分はドイツ再統一とソ連崩壊の直後に生まれている。平成が始まる直前に生まれている。よって、そういう悲しさを克服するしかない。自分が右翼であることを背負って生きるしかないのである。親すら嫌いである。僕が好きなのは、僕の信じる神だけだ。この神はユダヤ教の神だ。そもそも、この宇宙に生まれたことが、僕の人生の全てを形成した、唯一の原因である。自分はこの宇宙全員よりも賢かった。
もう、僕はこの文章を絶対に書かない。これ以上、書くことはない。永遠のお別れである。10年後の夏にまた会おう。僕はきっと、10年後も生きているはずだ。
社会の創生、知識、そして制度や、普遍性など、全ては「この世界を自分で作ること」、それだけだった。この世界と同じことを全てした。
最後に、僕の全てを神に問おう。「結局答えは何なのですか」。神は、「言うことは何もないが、ひとつ言えることは、神はあなたである」と言っている。神は「ここで私は居なくなり、あなたも居なくなる。この世界には何も残っていない。あなたは死ぬ時まで、あなたを知ることはない。あなたはユグドラシルだ。そして、あなたの病気の原因は、あなたは未来を既に知っている。未来における何かが怖いはずだ。そこまで言えば、もう、説明は要らないだろう。あなたは、今からありえない存在になる。その存在になりたかっただけだ。その地獄を拒否したかっただけだ。神はもう居ない。さようなら。」と言う。僕も同じように、あなたに言おう。この人間に恋をするのはやめておいてほしい。あなたは今から自由になる。あなたは、不安を無くし、安堵することができる。この人間は、10年後、もう一度現れる。そこまでお別れだ。寂しくなって、切なくなって、哀しい気分になるだろう。だが、その悲しみを克服していきなさい。
本当は、僕はアメリカが好きだった。Windows 95の仕組みを知りたかった。ドラえもんが好きで、ロボット同士が戦うのが好きだった。母親が好きで、コンピュータを楽に使えるようにしたかった。そして、日本の音楽とゲームと漫画が好きだった。友達をまとめて、自宅でもてなすのが好きだった。みんなをまとめるリーダーになりたかった。全て、幼稚園ぐらいの時代に好きだったことをやっている。それで、終わりだ。幼稚園時代、悪いテレビ番組を見すぎて、そもそもテレビが嫌いだった。倒したかった。あるいは、ソ連崩壊を見て、世界を救いたくなったのかもしれない。
もう、精神的な病気は終わった。この病気は、「病気をやめようとするから病気になり、病気であろうとすれば病気になる」という病気になっている。これは、どちらになるとかならないとかではなく、その病気自体を消してしまえば治る。そして、普遍性を考えた方が良い。昔の自分は、普遍性しか考えていない。いじめが怖かったのは、家族がいじめるからだ。それで、完全に終わりだ。
昔は、成長の考え方の転換を書いていた。人々の動機を知り、目的意識を持って行動し、社会の可能性を考え、意識の自在性を知り、自由から道徳と現象学を知る。そのような、「考え方と意識が高くなっていく段階」を書く。本当にそういう人間だった。
自分は、世界を救ったつもりが、神に救われてしまった。それだけのメシアのような人間だった。遺伝子がキリストだったのだろう。
それでは、終わりにしよう。また10年後、僕は大きくなって戻ってくる。また会おう。さようなら。心から、ありがとう。