新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-09=

人間は、みんなそれぞれ、何かしらの意味で正しいことを言っている。あるいは、嘘であっても賢いことを言っている。反抗や攻撃の全ては悲痛を訴える叫び声である。敵すら味方であり、あらゆる場合で、敵対する必要などない。

学校を自由にせよ。一度した間違いを改め、超えていける勇気を持て。そのために、必要なら、友人と「新しい関係を築く」ことを、子供に教えよ。一度作った関係を作り直せ。それだけでいじめはなくなる。

知らないことは、自分で経験しなければ分からない。自分で経験することで、初めて見えてくるものがある。この世界にある未知の全てを経験し、それぞれの言っている「言葉の意味」を知れ。そこにアジテーションや騙し合いがあったとしても、それは青春の体験に変わって、正しい道に自然に導かれ、いつか運命の日が訪れて、自分の力だけでいくらでも進めるようになる。

変わったのではなく、変えたのだ。この世界はただ変わったわけではなく、この人間が変えたのである。全てのことに対してそれが言えた時、それが戦いの上に手にしたかけがえのない宝になるだろう。

昔は、相手の心理を思うがままに支配して操ろうとする悪い人間だった。だが、そのおかげで、人間の精神や心理のことが誰よりも分かっていた。自己意識の成長と観念の自然な発想を、環境の支配と成立の影響力から分かっていた。哲学者の言うことや、歴史や数学のことが良く分かっていた。必ずしもその思想は悪ではなく、自由に基づいたとても崇高な愛と情熱を信じていた。人々を自分のように愛し、信じ、慈しみ、国や世界を救うことの出来る自由な愛の理想だった。

相手に好かれるために一番良い方法は、嫌おうとすることだ。相手を嫌いなフリをすることで、相手に好かれることができる。

下ではなく、上を消せば治る。そして、裏側を決めなおせば治る。昔上の方で決めていた、「裏側にある宇宙の全ての決定と決断」を決めなおす。それによって、自分の精神が全部決めなおされる。それで、決め直して精神の全てが正常になるだろう。

自分のこの文章を書く目的は、対価でも報酬でも賞金でも、名誉でも栄光でも野心でもない。僕の欲しいのはこの世界の幸せであり、あなたの喜びである。この世界を正常で素晴らしい愛のある世界にすること、それが目的である。一時は、本当に自分の罪を反省し、「この世界を復活させるため」に自分の全ての自由を捧げた。そして、この世界は今、「救世主によって変えられた」。それは変わったわけではなく、変えようとしたことの結果であり、みなの人生と努力の現れである。ここでは、対価や報酬といった考え方は無用である。一人の人が一人に対して貢献し、その報酬を対価として与える時代は終わった。これからは、愛のある王がみんなのために自分の人生を捧げて、芸術作品と知識の文書を作り、遺す。この日本という国は、全員が偉人のレベルに達したのである。

敵など居ない。全員味方である。そのように考えることで、この世界は変えられる。自由なままで経験豊かになり、無意味なことをしなくても有意義なことが出来るようになる。本当に有意義な、社会の構築や子供たちへの教育といった正しい分野に力を注ぐことができる。自由なままで、社会秩序が生まれ、社会は共同体が治め、殺傷や不平等は起きなくなる。

そもそも、平等を自由への対抗策だと考えるのが間違っている。同時に、スターリンが悪かっただけで、平等思想の全てが間違っているとされるのはおかしい。平等は自由であり、社会主義でなくとも社会を平等にして平和にするのは可能である。自由主義が良いからといって、社会を自由にすれば良いとは限らない。極端な自由が良いわけがない。自由は間違っていない思想だが、自由主義と自由が正しいとは限らない。

子供には、差別や偏見の見方が存在しないところがある。特に、自由と平等を、「この世界における政治的な知識や考え方」ではなく、独自に自分の力で考える理性がある。悪い経験に染まっていない。だから、子供のように、もう一度この世界の自由と平等について考え直そう。そして、純粋に、経験豊かになろう。そこからこの世界の可能性が見えてくる。「人殺し独裁者」のスターリン主義ではなく、もっと正しい意味での「平等な理想郷」を、きっと子供たちは作ることができるだろう。文明をここで終わらせてはいけないのだ。

昔はむしろ、「自由な共有」を良いと思っていた。オープンソースのように、さまざまなものを自由に共有する。文章には、自由と共有から説明出来る、社会と人生の全てのことを書いていた。それは、「自分の否定」から始まった、「自分の肯定」だった。

今の僕が思うに、自由でも平等でもない、「ふつう」という視点を忘れている。左翼や右翼には、「ふつう」という中間の概念がない。そのせいで、どんどん極端に相手を倒そうとする。本当に必要なのは「普通」という概念だ。普通でなければ、この世界に意味はなくなる。アメリカは、そういう「普通」という概念を忘れてしまっている。それはIT技術のせいだ。

昔は、「普通」を「自由」だと思っていた。自由にそれぞれが楽しむこと、参加すること、自然界のことを知性で考えることに、「実感」をしていた。そういう、実感は、「普通」と「自由」に分かれている。この中から、「自由」を取り除いて、「普通」だけにしよう。そうすれば、この世界はすぐに「忘れてしまった真実のピース」を取り戻す。それが、世界モデルの自然発生であり、それは「自由」ではなく、「普通」なのである。

理性とは、「起きる前に論理的に考えること」であり、それは起きてしまえば意味がなくなる。起きるまでが理性であり、起きてからは経験である。よって、僕は馬鹿になっていない。ただ、起きるべきことが起きただけで、何も変わっていない。これが、正常な大人だ。

既存の考え方から分かるのをやめて、ゼロから考えれば分かる。もっとゼロから考えるようにしよう。

足の問題は、もっと別の状態にすれば治る。治る、ということが間違っている。本当は、疲れている部分や、辛い部分だけを消してしまえば良い。世界を変える必要や、頑張って耐える必要はない。

ゼロから考えよう。昔の自分や、学問や、あらゆる誰か他の人間が考えたことから考えるのは捨てよう。自分独りで、独自に自分だけで考えよう。何よりも、考えることをやめよう。その上でゼロから世界のことを知れば良い。それによってのみ、聖なる新しい道を歩むことができるだろう。

本当は、昔の自分は、「自由であることは、自由でないことよりも良い」と考えただけだ。「強制するよりも、相手の自由を尊重したい」と考えただけだ。社会を変えるのであっても、「自由な手段で変えることが出来たら良い」と考えただけだ。なぜか、それだけで分かった。

一度、昔作った「自由」を忘れて、新しい自由を作り出そう。その自由は、「自分の手で決め、自分の手で変えられる自由」である。それが良いと思う。

要するに、行動や習慣を治す必要はない。ただ、馬鹿になっている部分だけを取り除けば良い。それで、すぐに分かるようになる。全ての狂いはもう、上塗りされている。上書きされた後のことは、全部残せば良い。それで賢くなる。自分は、今が一番賢い。さらに賢くなる。

思えば、長い旅だった。ほとんどは、「解決」のために費やした。自分でおかしくなって自分で治し、世界を正常にするための後悔の努力が、聖なる道を創造した。絶望の中で解決する可能性と希望を信じることが、愛と自由の道を作った。全ての聖なる道は、ただ、最後まで続くまっすぐな、刹那(せつな)と永久(とこしえ)の融和だった。

本当は、自分の問題は「死による解決」を信じていることだ。地獄の戦いをして、3~4年ぐらいですぐに死ぬのを良いと思っている。死による解決を良いと思っている。それが間違っている。死体のような、腐った体をまとい、恐怖と沈黙の力で世界を滅ぼしている。この人間はそこが間違っている。治すための方法は、ひとつ。それは「生きて何かをしようとすること」だ。それによって、この病気は治る。生きて何かをしたくないのはおかしい。自分は、全てを流れるように眺めて、何も望まず、ただ流れ去ることを望んでいる。それが、一番の間違いだろう。僕ももう30歳になる。何もしなければ、そのうち出来なくなる。人生はまだあるし、若くないわけではない。何もしなければ、また何もしない10年の歳月を生きることになるだろう。過ぎた時間に何も思わないのであれば、生きる意味を見失った自分のことを見失うだろう。

昔は、自分の今までの経験を愛していただけだ。それで、地域の根源的な意識と歴史から、環境を分かっていた。

人々を指導しようとするな。人々を指導しようとするものには、ロクな人間が居ない。

何をすれば良いか分からないなら、「この世界における経験とはどのようなものがあるか」を考えれば良い。今更、インターネットのような経験をするのは意味がないだろう。ピアノやデザイン、芸術活動に勤しむのは良いが、すぐには天才にはなれない。地道にやるとは言うが、地道にやる経験にも色んな経験があるだろう。哲学や青春のような経験は、もう二度は出来ない。ひとつの夢に向かって地道にコツコツとやっていけば、そのうち形になる。「きっとカタチにしてみせる」と思えば、それが本当の人生の始まりである。

自分に能力や経験や、あるいは理性や才能がなくて、できるわけがなく思える人間は、学校の「覚える教育」に騙されている。誰も、そんなに覚えて分かる人間は居ない。論理的に積み重ねて、背後や前提を良く知った上で、正しい方法を使って誰よりも賢く、十分に常識を知って考える高校生は多いし、馬鹿になってそれが出来なくなると、何も出来ないように勘違いするだろう。だが、そうした経験が過去にもしあったとすれば、そういう風に考えなくても、きちんとコツと本質を掴めば簡単にできてしまう。そんなに賢くやる人間は子供にしか居ない。何でも出来ると思えば、本当に何でもできる。絵を描くのもピアノを弾くのも簡単だ。出来ないように見えるのは、この世界と大学に騙されている。

スターリンの問題とは、「頑張っているのがたとえ自分だったとしても、そのために犠牲になるのは末端の若い兵士たちである」ということだ。本人はまったく手を汚さずに、世界全体を支配下に収めるべく、兵を指揮し、相手を騙す方法を考える。だが、そうした独裁者がいくら頑張ったところで、手に入れるものもなければ、何か得られるものは何もない。全て失い、全て手放すだけである。本当に正しいのは、そうした「階級の平等」であると同時に、「洗脳を解くこと」なのである。

足は、休めずにおかしく動き回っている部分だけを取り除けば良い。治しても、殺しても治らない。昔の自分は忘れて、ゼロから考えた方が良い。そのうちきちんと出来る。そもそも、何も出来ないのは、「発想がないから」であって、それは「過去に全てをし終えたから」である。発想が欲しいなら、知識も経験も全て忘れて、ゼロから考えること。それで、子供と同じように発想できるようになるだろう。

スラムや右翼のような汚れた経験をして、いくら悪に染まったとしても、そこで自由と希望と責任の理想や信念を忘れなければ、その汚れた姿は美しい。汚れは天によって浄化され、絶望の地獄の先に栄光の扉が開かれる。この世界の中で、自由に生きるということは、そういうことである。さまざまな汚れは、全て自分が浄化すべきもの、浄化されるためにあるものである。それらを全て浄化すれば、絶望は希望の光に変わるだろう。その愛は宇宙の中で最も美しく輝く、白き世紀末の芸術作品となるだろう。星は歓喜に酔いしれ、「本当に自由な世界」を実現するだろう。

本当は、日本をありえない国にしたのは僕である。僕が日本の文化を作ったのだ。僕は、日本語を評価したい。英語の特徴は、論理的で全ての意味を言い表すことだが、これは機械的・数学的である。逆に、日本語は省略することで、自分の目的だけを明確に言い表す。これは心理学的である。日本語が必ずしも非論理的であるわけではないが、日本人は自分の思うことを明確に言い表して、反省することが出来る。白人が発見をすることや解決や実現を行う人種であるとするなら、日本人は成長し自らを超えていく人種であると言える。白人は自分の限界を作り出して自分を絶対的頂点にしようとするが、日本人は限界なく、全員でさらなる高みや調和を目指そうとする。それは、「自分の意志と目的が明確であるから」だ。よって、機械やプログラミングが最も得意なのは、本当は日本人であるだろう。これからは、世界中で日本語が流行るだろう。日本語はIT・ソフトウェア社会においてぴったりの言語だ。ある意味、オープンソースと良く似ている。日本人は、アメリカのIT社会よりもはるかに優れた社会を、既に作っているのである。昔から、日本のネット社会は、アメリカのものよりもはるかに賢い。英語はそれだけで成り立つような「発明」をするが、日本人は改良し付け足すような「付け加え」をする。それは、英語はそれだけで全てになることを望み、日本語は周辺から付け足し、対象となる相手を助けることを望むからだ。英語はただひとつの原理の発見やただひとつの優れたものの勝利を望むが、日本語はそれぞれの発展とそれぞれの協力や関係性の実現を望む。それゆえ、日本にはアメリカのIT革命とは無関係に、すでに同様の共同体文化が栄えていたのである。