新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-08=

足がおかしくなっているのは、下を変えようとするからだ。文章を書いているせいで、上にあるものを変えずに、下にあるものを変えるようになった。下ではなく上を変えようとすれば、おかしく歩き回っているのも、疲れているのも治る。

自分がおかしいのは、満足のいくようにやろうとすることだ。知らず知らずのうちに、満足して納得できる形でしか、行為を終われなくなっている。

この文章は、禁断の文章である。あなたが今まで最も大切にしてきたものは、もう私のものだ。その代り、あなたは宇宙の全て、世界の全て、人生の全てを知り、真実と愛と安心を手に入れるだろう。

論理的に考えるということは、嘘を疑うということである。賢い人間を「分かっていない人間」だと見なしている間、あなたは賢くなれない。分かっていない人間にならなければ、あなたは馬鹿のままである。分かっていない考え方をする人間と、分かっているように見えて何もしない人間、どちらかしかこの世界には存在しない。そして、えてして何もしない人間が分かる。賢い人間は分からない。それが、賢い。

正しいとか間違っているとか、面白いとかつまらないとか、そういう価値観は人それぞれ違っていて、ある人は面白いと言っても、ある人はつまらないと言う。それを発展させると、正しいと思えば全てのことは正しく、間違っていると思えば全てのことは間違っている。これを、「相対的」と言う。だが、相対的は、経験し、人々の営みと人生を知り、社会における自身の立ち位置を知り、人々の経験を知ることで、しだいに絶対的になってくる。それは、「主観と客観」を超え、「自分と他人」を超えた上での、「絶対的な相対的価値観」である。そこでは、それが正しい、ということは、あらゆる相対的な価値観を超えて、ひとつの「真実」や「事実」として正しい、というレベルの段階になる。ある意味で、「この社会を築くことは、何かしらの考え方に基づいて、必ず正しい」となり、「この概念や考え方は、あらゆる経験や人生の垣根を越えて、『確かにその意味では』正しい」という風になる。ここまでが哲学である。だが、宗教的な段階に進むとすれば、「全てを放棄し、絶対的な知識と良心を執筆する」という段階になる。そこでは、全ては聖なる創造物であり、自分は一人の精神的存在である。その上で、神を信じるならば、それは世界を導き、「絶対的概念の歴史」を創造する。そこまでが宗教である。

発想は本質となる。全てを理解し、学習し、自分の手で「自由に」実現できるようになった時、人は自分の人生を創造できるようになる。この世界の全ての営みを知って、あらゆる人間がどのように生きているのかを、自分の「精神の世界での青春」の体験で分かることが出来る。それはただの青春ではなく、理性と経験が融和する、宇宙と魂の融和の体験であり、その創造と具現化の道の開拓の体験である。全てを想像力で把握し、予測しながら、考え方の適用によって環境と心の成立を知り、法則を解明し、厳密な論理からあいまいな言葉を数学的に直すことができるだろう。社会を経験する中で、「辛い時代だからこそ経験出来る全ての経験」をするだろう。それが、僕の言いたかったことだ。世界を破壊してもなお、人々にとってのその経験は消えることがない。

また、人生は自由から倫理的になる。「これは正しいのだ」と思っていた経験は、「ある意味では逆も正しかったのだ」という経験になり、「考え方次第でどちらも正しいのだ」という風になる。また、「社会はこうすべきだ」と思っていたことは、「本当は、ある意味ではどのようにすることも同じように正しいのだ」という経験になり、それが、世界全体を「高い立場から」見ることに繋がっていく。その上で、哲学者を包括し、「自分独りだけで全ての哲学者の言っていることが分かる」ようになる。それを、人々は経験のマスターと呼ぶだろう。社会論については、「自分で実現することができる」ようになると同時に、「自分だけではなく、人々が実現できるように導くことができる」ようになる。

人間は、好かれるよりも、嫌われた方が良い。好かれる人間は、辛くなって馬鹿になる。嫌われる人間は、賢くなって楽になる。嫌われるように生きていると、ヘーゲルのような賢い人生になる。嫌われた方が良い。

賢い人間は、みんなから嫌われている人間が多い。嫌われていなくても、嫌われていると思い込むのであっても良い。それでも同じだ。誰からも嫌われ、愛されない人間が賢くなる。ひとり、賢い人生を歩んでいる人間がそういう風に多い。人生とは、そういうものだ。誰からも嫌われて、それで神に愛されている。