新・日記2に戻る | 2018年8月の日記に戻る

=2018-08-07=

昔は、経験から自由になって分かっていた。文章にも、「いかにして自由になり、悟ったか」を書いていた。世界を経験し、心と社会の可能性を考え、知性をつけ、学習し、Linuxシステムを学ぶことで、自然に「リベラルアーツのように」自由になって分かっていた。また、キルケゴールの言うように、倫理性と良心を身に着けることで、「人間が本来いかに成長するか」と「倫理性は自然に身につく」ということを分かっていた。要は、大人になって善良なマスターの経験をした。

最近は、神の精神を作った。思い出すと、おかしな思考の常時判断に陥ったり、永遠の対話をしたり、ロボット世界の女王になったり、あるいは中世のドイツ人になったり、黒人と精神の中で話したりした。それら全てが神の体験であり、神の精神だった。

精神は、動いたままで、離れれば治る。離れずに殺そうとすると、自分が死んでしまう。離れながら、意識を他の場所に向けながら、分裂するように殺すと死ぬ。本当は、頭と心が極度に単純な生物になっている。頭は頭、心は心で、それぞれが独立して働くようにすれば、まともな理性は復活する。

スターリンのような冷酷で残忍な独裁者や、ヒトラーやムッソリーニのような野心のある狂った独裁者が現れないようにするためにどうするべきか。僕は、「勝手に独りの手で決めようとするな」と叫ぶことだと思う。

テレビの映像でムッソリーニやヒトラー、スターリンの映像を見たが、彼らはとても残忍で、凶悪で、人々を殺し、野心を持ち、その実行のために冷酷な仕打ちをし、また人々を騙す。危険で、独りの手で全てを成し遂げようとし、団結と言って人々を支配しながら、自分にとって不利益になるものを容赦なく粛清し、そして公にしたくないことを秘密にする。特に、スターリンにそういう気質がある。

今の時代、ファシズムや共産主義は流行らない。ほとんどの国が民主主義になった。だが、独りの手で全てを決めようとし、人々を支配に陥れようとする輩は、今の時代にもたくさん居る。日本には、そうした右翼ばかりが多い。

みんなで決める、というだけでは、何も分かっていない大多数の民衆による、ファシズムと同じ右翼による団結とは名ばかりの犯罪的政権になってしまうだろう。だが、人々を信じなければ、誰のことも信じることが出来ず、悪に悪を重ねて人々を陥れる、共産主義の大殺戮社会になってしまうだろう。

どちらが良いか、という問題ではない。本来信頼のおける人々を信頼出来なくなれば、右翼であろうと社会主義であろうと、同じ結果になってしまう。彼らは、勝ったからといって、生き残ったからといって、何も得ていない。戦いの末に、何も残らず、ほとんどはそれによって失われ、人々にたとえ有名になったとしても、多くの疑心と批判にかられて、最後は人々の手で倒され、殺され、あるいは敗北し、自殺していくのである。

何が正しいのかは分からない。人々を信じる心が果たして正しいだろうか?それでは、独裁者を信じる心も正しいことになるのではないか。あるいは、身を潔白であるとする証明や、信頼がおける人々との絆、あるいは、偉業を讃える業績が果たして正しいだろうか?

政治家がどのように生きるべきなのか、果たして僕には分からない。右翼のやっているように、敵に勝つために才能を持って人々を団結させることが、本当に間違っているのかというと、そうでもない。だが、彼らが遺して行った「結果」を見なければならない。たくさんの犠牲を払って、得たものは何もない。人々は処刑され、餓死し、強制労働を強いられ、不当な犯罪で強制収容所に入れられたのである。

果たして、民主主義者が独裁者に対抗し、世界中をグローバルな資本主義による平和にしようとすることが、正しいだろうか。

何が正しいのか、僕には分からない。

新しい体制として、僕は「当たり前体制」というのを取るのはどうかと思う。それぞれの王が共存して、それぞれが自由にやって、国を豊かにする。当たり前のように平和が普通で、当たり前のように仲良くし、当たり前のように豊かで、当たり前のように平等である。それらを守り、共存させるのは、「大きな自由」と「不正のない潔白」であり、王は当たり前のように相手に自由を許し、当たり前のように身の潔白を常に証明する。そのような社会になれば、きっと軍隊も無くなるし、自殺やいじめや過労も無くなるだろう。人々が不満や反抗を表に出すこともなく、永遠の天国のような楽園がそこにあるだろう。

「当たり前」というと痴呆のように感じられるかもしれないが、それなら「信頼」という言葉を使おう。当たり前のように相手のことを優先し、尊重すること、それが「信頼」の証である。決して信頼と「団結」は違う。団結とは、人々が同じ大義の下に結束することであり、その大義を間違えると、とても巨大な犯罪を犯してしまうことになる。そして、えてして政治家は大義の本当の意味について、説明を濁す。それは、大義など、本当は政治家の中に存在せず、ただ名声と野心という名前の妄想に駆られているからである。大義を信じていても、その大半は野心と妄想である。よって、政治家は「信頼」しなければならない。相手のことを信頼し、キリストの言うように、他人を自分のことのように愛さなければならないのだ。