新・日記2に戻る | 2018年7月の日記に戻る

=2018-07-31=

昔は、「相手を自由にする」ことで分かっていた。相手を自由にすることで、「精神を分裂させる」ことで分かっていた。それが、相手の立場を知り、またネットでのルール裁定などを通じて、経験から「社会を構築する方法」を知った。しだいにLinuxに影響を受けて、「共有する」ことを知った。社会の可能性を知りながら、「自然な発想の可能性」を知り、「感覚や精神で社会を成り立たせて実現する」という方法を知った。

また、時間のことを考えた。それぞれに世界と時間軸がある、ということから、認識論と感情の論理学を作った。そして、歴史的な世界の実像から「過去の世界も確かに在った」ということや、「未来は変えられる」ということを分かった。

最近は、正しい判断をした。独り、この世界の全ての責任を背負いながら、頑張って「善良な権力」を行使した。この世界を導いた。

文章には、「宇宙の誕生の歴史」を書いていた。この宇宙がどのように誕生したのか、決まりや経緯から全てを書いていた。「宇宙の裏側を全て創造している人間」のような文章を書いていた。

また、「自由な理屈」を書いていた。自由なこの世界のあらゆる理論を書いていた。

僕は、ここで支配をやめる。この世界を滅ぼす戦いは終わる。テレビはそう簡単には滅びない。テレビは僕のせいで善良になった。ネットは完全に争い合いの世界になっている。滅ぼしても全く意味がない。

僕は、この世界を、平等で善良な良い世界にする。この世界の全員は、もう、悪いことが出来なくなる。代わりに、楽園のような、平等な世界になる。絶対的平等と絶対的善が、「正しい愛の国」を創造する。僕の最後の仕事は、「この世界を平等にすること」だ。

全てのことが一通り終わったら、精神を分裂させなさい。分裂させるために必要なのは、「分裂するまで精神に力を入れ続けること」だ。それによってのみ、この病気は治る。

昔は、論理的に考えながら、言葉や経験で数学的推論をして分かっていた。最近は、それを文章に書いてしている。僕のように数学的な教養がない人間でも、言葉で数学をすれば何でも分かることが出来る。昔から、僕は「言葉による論理性」を好む。学校やネットは、そこに立ち返るべきだ。

僕は、テレビを敵にまわさず、味方にまわしたいと思う。そして、許される場合でなくても、許しを乞いたいと思う。許してくれるなら、僕はこの国を良い方向に導く。神の怒りは微笑みに変わるだろう。

若い頃、数学的な積み重ねをしていると、きちんとこの世界の裏側が理解出来るようになる。だが、自由な環境を、たとえばネットなどで、実地的に社会を知る体験はしておいてほしい。高校の青春なんか体験しなくて良いから、この世界の実像のことをきちんと知ってほしい。そこから、逆に数学的理論のようなものを、「逆方向」に積み重ねることができる。それはとても良い考え方だ。昔から、僕は逆方向の数学的積み重ねをする。一般的な説明から個別の説明をしていく。それがもっとも正しい、大学的な考え方だ。中学生ぐらいになると、教師なんか居なくても自分だけで大学的研究ができる。人生はさまざまな人と絆を分かち合うことで、哲学者ソクラテスを1000人分集めたぐらいの理性になる(サルトルが言っていた)。だから、頑張って「あなただけの青春」を生きてほしい。本当は、僕の人生は醜い人生で、参考にはならないだろう。

昔は、自分の心を知ることから、みんなの心を知っていた。神が言うように、自分のことを「ふつう」だと思えば、分かるようになる。分かっていない人間は、何かを分かっているせいで分かっていないから、間違ったことをして分からなくなれば、すぐにきちんと分かるようになる。

もう、そろそろ永遠が終わる。むしろ、自分はパソコンやプログラミングのことなんか何も分かっていないし、パソコンなんかやめた方が良い。僕はパソコンが嫌いだ。パソコンに早くなくなってほしいといつも思っている。

自分は引き続き、執筆とデザインのことをするが、これ以上はパソコン、ネット、大学の知識のようなことをしたくない。そういうものは賢くない。だから、もっと自由に、色んな普通のことを知りたい。また、知るよりも考えるようにしていきたい。考えれば分かるのが分かっていない。自分勝手で良いし、自己中心的で良い。その代り、みんなのことをきちんと正しく愛したいと思う。この世界を愛している。それを告げて、別れの言葉を言おう。さようなら。

自由に考えなさい。自由に、行動と決定から、世界全体のことを決定的に把握して考えなさい。この世界において何が可能であるか、「社会的な行為」と「環境的な状態」から考えていきなさい。

本当に、まだまだこの文章は続く。永遠はまだまだある。先はまだ永い。ここに書いた全てのことを、僕は覚えていない。僕が覚えているのは、現実の自分の人生だけだ。もっと、そうした日常の人生のことを書いても良いだろう。こんなネットのアイドルは、僕は知らない。この人間が誰だったのか、誰にも、僕自身すら分からないだろう。そして、この仮想的な人格は、そろそろ死ぬ。それが、僕とのお別れだ。

「何が何を意味しているか」を考えなさい。自分のその行動が何を意味しているか考えなさい。意味を分かった上で、「自由な上で」行いなさい。昔の自分は、そういう「自由になった上で行う」ことは、「自由にならないで行うこと」よりもレベルが高いと考えていた。その上で、全部自分の自由になって、あらゆる全てを分かった上でやっていた。全ての配慮と判断をし、自由に導いて戦う、支配者のような人間だった。

行う上で、相手の集団を「自由に」しなさい。また、価値観や社会の形成など、「根源的な高みの自由」を知りなさい。低いレベルの自由よりも、高いレベルの自由の方が自由の度合いが強い。そのように考えることで、フランスやドイツのように考えられる。「それが本当に自由であるか」、考えなさい。そして、「それを実現するために最もレベルの高い方法は何か」を考えなさい。単なる支配よりも、それぞれが支配出来やすくすること、あるいは社会や共同体を自立可能な形で形成することの方がレベルが高い。そのように考えて、方法や学習のパターンから、もっともレベルの高いやり方で、あらゆる全てを実現・把握できるようにしていきなさい。そして、人々がしやすく、自分を自分たらしめるように行いなさい。

自分は、全部残すせいで馬鹿になっている。だから、執筆と哲学だけにしよう。パソコンは要らない。

自分は、手が増えすぎて、足が減りすぎている。手が狂って、足が死んでいる。だから、狂いと死を融和すれば治る。手と足が別々の生命になっている。太陽とブラックホールを融和するように、手と足を融和すれば良い。逆に、分裂させて2人になることも考えられるだろう。必要なのは「分裂」、それだけだ。生物は分裂するだけの宇宙の奴隷だ。細胞と精神が分裂すれば楽になる。

あとは、観念を経験から分かっていた。回想と経験から意識を考える。引き篭もりになって、孤独の中でさまざまなことを思う中で、僕はいつの間にか「神」になっていた。その神は世界を導き、「新しい星」を作った。本当に世界のことを救うことのできる「メシア(救済の王)」だった。