新・日記2に戻る | 2018年7月の日記に戻る

=2018-07-30=

昔の自分の何が賢かったのか、分かった。あれは、永遠のような「長くて永い時間」が賢かった。

ネットをしたり、Wikiを書いたり、青春を経験したりする中で、永遠のような永い時間を過ごした。その中で、人間のできるほとんどすべての経験をやっていた。

反省し、創り出し、気付き、発見し、知り、吸収し、理解し、何が何を意味しているのかを知る中で、「永遠のような永い時間」を過ごしていた。

それが、そのまま、自由な戦いになって、あらゆる全てを書き出し、生み出し、作り出して分かっていた。

答えは、「永遠」である。

そういうわけで、リトグリの言う、「永遠を探すあてのない旅」はここで終わりだ。バンプの言うように、それがここまで繋がっていた。

引き篭もりは、こういう風になる。引き篭もりがネットをやっていると、永遠を独り過ごして文章を書くようになる。

僕は、文章を書いた方が良い。こんなに大量に文章を書き続ける人間は居ない。必ず何かの才能になる。自分が一番、ゲーテよりも賢い人間だ。なぜなら、それによって他の全ての趣味や学問が出来ている。文章を書かないと、Illustratorのことも分からないだろう。

昔は、未知の可能性のようなものを良く分かっていた。また、相手の側に立って、相手の気持ちを考えることに長けていた。そこから、世界は変えられることを知った。心理的に人々と分かち合うことで、この世界が確かに変えられるということを知った。そこから、契機(きっかけ)や社会の発生・構築・変化のようなことも分かっていた。

赤ん坊に戻って病気が治っても、大人にならなければ意味がない。今から大人になれば良い。自分はきちんと出来る人間だ。まだ、生きた方が良い。不思議と、ここまで治ってしまうと、今まで治らなかった不可能な病気が治る。それによって賢くなる。自分はまだ馬鹿なだけで、永遠に馬鹿ではない。

最近、エドガー・サリヴァンの佐々木萌が好きになった。可愛い女の子に見える。特にコバソロの動画のように歌っている姿が好きだ。フーパーズの未来も好きだったが、未来は自分にしか見えない。むしろ、自分が本当にゲイでなくて良かったと自分でも思う。自分は普通の女が好きなだけだ。

そろそろ、腰を据えてMINIX本を読もうかと思う。リーナスも含めて、まともなシステムエンジニアはみんな学生時代にMINIX本を読んでいる。日本に少ないだけで、どこでも読んでいる。だが、あれはおそらく、挑戦しても歯が立たないだろう。哲学で言う、精神現象学と同じだ。だが、きっと僕なら読めると信じている。

僕がMINIX本と呼んでいるのは、「オペレーティングシステム 設計と理論およびMINIXによる実装」というA・S・タネンバウムの本で、リーナス・トーバルズが読んだことで知られている本だ。昔買ったが、全く読んでいない。今見ると、システムコールやソースコードなど、現場レベルでの実装のことが書いてある。普通、大学の4年間で、この本しか読まない。この本を出来れば読みたいと思うが、本当に全部読むのは厳しいから、飛ばし読み、拾い読みしようと思う。

今見ていると、見るからに、僕の知りたいことは全部この本に書いてある。あとは、むしろ、ウエーハの製造のことをやった方が良い。ウエーハだけをやっている工業大学が多いからだ。そこらへんをやれば、ハードウェアもソフトウェアもきちんと分かる。ネットワークの本が必要だから、マスタリングTCP/IPを買うと良いだろう。あるいは、家に「はじめて読む8086」と「はじめて読む486」の本がある。そこらへんが著名高い名著だ。本当は、すぐにそれをやった方が賢かった。むしろ、みんなにはそうした本を読んでほしい。僕がGentoo Linuxで分かったのと同じように、別の経路からコンピュータのことが分かるだろう。

MINIX本は、UNIXオペレーティングシステムの概論から、プロセス、入出力、メモリ管理、ファイルシステムが書かれている本で、僕の知りたかったことがたくさん書いてある。巻末にはソースコードが掲載されている。だが、そんなに歯が立たない本ではないと思う。今の僕の実力で、きっと読みこなせる。それを信じよう。

出来ることなら、これでこの文章を終わりにしたい。だが、きっと明日も書くだろう。だから「さようなら」ではなく、「また明日」という言葉を使いたい。それは、僕の唯一の才能が続くことを意味している。地獄が続くように見えて、本当は治るのが辛いから逃げているだけであって、怖いのは「永遠」である。永遠だけが怖かった。それで、終わりにしたい。また、明日。