新・日記2に戻る | 2018年7月の日記に戻る

=2018-07-26=

コンピュータは、プログラミング可能な機械である。プログラムを計算可能な機械であり、「プログラマブル」という言葉で表現する。ハードウェアは、プログラミング可能なだけで、本当はCPUやハードウェアが動いているだけに過ぎない。だが、そのハードウェアに、「情報」として、プログラムを実行させることができる。CPUという名前の機械がWindowsを実行するように、ハードウェアに「情報を与えている」。だから、本当に動いているのは、CPUとメモリに繋がった、ディスプレイやハードウェアデバイスに過ぎない。それらは一種の汎用的に、「基礎」の機械的処理を動かしている。それをどのように「使いこなす」のかは、プログラムにかかっている。

だから、ある意味、Windowsだけしか実行できないわけではない。Linuxのような他のOSも実行できるし、ある意味「今までのOSの概念を超えた、超高度なシステム」だって実行できる。オープンソースの利点とは、そこである。「誰かが作ったありえないシステム」を実行可能であることが、オープンソースのある存在価値である。もちろん、Linuxの上でプロセスとしてそうしたシステムを動かすことはできる。

本当は、「CPU」とか「ディスプレイ」という名前すら必要ない。ただの機械である。ただの機械が、情報を認識して動いている。その情報を与えることを担当する人間のことを、エンジニアと呼び、本来ユーザーは全員エンジニアであるべきなのである。機械とは、何でもできる総合スタジオである。ここでいう機械はパソコンだけではない。この世界にある全ての機械が、ネットワークで繋がった総合スタジオになるだろう。

昔は、社会のことを色々と考えた。社会モデルを作りながら、実地的な経験から、文明のようなことを分かった。文明的に科学や社会の体制のことを分かった。また、環境で人々が何をしているのかを考えた。環境で人々が「するだろうこと」や「し得ること」を可能性として考えた。それぞれが協力し、議論することから、「何をすれば良いのか」を考えた。そこから、みんなで世界を決める「会社」や「議会」のようなことを考えた。マルクスのように考えることで、評議会のような発想をしていた。理性的に自由を考え、「それはどのようにすれば出来るのか」や、さらに考え方を発展させて「それはどのようにすれば自由になるのか」を考えた。どうすれば自由に出来るのかから発想し、どうすれば自由なのかから考えた。ひとりの指導者や組織が支配するのではなく、分散して、それぞれが可能性を持ち、経験を教え合い、自由が許され、手段と時間的余裕が与えられなければ、子供は分からない。また、労働、生産、消費、そして決定から、社会モデルを作った。成り立たせてどのようにすれば良いのかを考えた。そして権限を考えた。自分の経験から、「これはそうしたかったけれど、人々はこんなことを言った」ということを分かった。実験結果を知ることを繰り返すことで、しだいに柔和な考え方になって、人々を救えるほどに「この世界をどうすれば良いか」が分かる人間になった。何を為すべきかが分かっていた。文明的に、環境活動的に、意識から発想、実地的な経験から社会の成立を考えて、ひとり、全てが分かって全てが出来るようになった。

この世界の全員を、同じであると考えなさい。この世界はかけがえのない世界であり、誰もが同じように苦しんでいる。自分と世界は同じだ。自分と他人は同じだ。一蓮托生、一切皆苦である。この世界と自分は確かに同じであり、この世界はひとつなのだ。それを信じることで、逆に自由になれる。みんなで融和すれば、愛を共有できるだろう。

選択肢はひとつしかないわけではない。それは全部の可能性の中のひとつの選択に過ぎない。言ってしまえば、理想は違っていても「どれも同じである」と考えることはできる。だから、本当は「どれでも良い」と考えることはできるし、「それはそれで価値のある選択である」と考えることはできる。そこから、「それはそういうものなのだ」と考えることも出来る。それは大人の考え方だ。

ある意味、資本主義で悪いわけではない。だが、辛く苦しい迫害の体験も経験しなければ、本当にこの世界のことを分かることはできない。

科学から社会まで、全てを「世界モデル」で考えていた。観念と思考のようなことは、「可能性の一部」をモデルにして分かっていた。全ての意識、環境、感情のパターンとふるまいを知っていた。いつどうなるのかを考えることから、逆に「何を成り立たせればそれは成り立つのか」を知った。そこから、精神の依存性と無限性を知った。契機から社会のことを分かるようになって、「チャンス」という考え方を知った。この世の全てはチャンスに満ちており、いつでも何かの契機を成り立たせて人間は生きていると考えていた。また、社会については、「その可能性が成り立つのであれば、その結果はどうなるのか」を考えた。事前に全ての可能性を考えることで、社会的・科学的な発想を全てモデルにしていた。そこで、「経験を成立させる」ことで、全てを実感で分かっていた。心理学者の自由な帝王だった。

全ては何かしらの契機であり、何かからの成立による成り立ちである。また、自分とこの世界は一体であり、賢さとは相対的な自由である。分かるために必要なのは、「何をどのようにすれば自由(不自由)になるか」という考え方であり、それは契機の成立であるとともに、一体の中での「契機の行使」である。その行使は、自分独りにしか出来ない。自分が応用できる存在は、自分しか存在しない。自分に自由が許されているということ、そのことに喜び、また驚きなさい。この世界はいくらでも変えられる。自分は何でもできるということに気付けば、あなたは何でもできる。必要なのは気付くことだ。

実体験を考えるということは、本当は「自分にしかなかった体験を愛する」ということである。自分だけがここまで分かった。自分だけがこういう体験をした。その上で、自分だけが頑張り、自分だけが考え、自分だけが知り、自分だけが生きた。その「生きざま」を残すこと、それが自由である。そして、人々のことなど、もう考えなくて良い。人々の全てを知り、吸収したら、今度は人々に教え、従えなければならない。社会を知り考えた人間は、従え治めなければならない。それが「責任」であり、むしろ「約束」である。この世の全ては、そのように「それぞれの道」として生きている。道から外れなければ、誰でも同じになる。そして、本当はそんなにたくさんの種類は無い。全部で5種類ぐらいしかない。それを全部生きるならば、きっとあなたは子供から王になり、革命家になり、宗教家になり、科学者になるだろう。

そもそも、自然界に本来、明確な区別など存在しない。あるものは、機械と、生き物と、黒人や白人やアジア人を総合した「人間」である。そして、機械は人間の一部であり、生き物は人間の敵であると同時に資源である。そのように考えるべきだ。最近は、コンピュータやICチップを内蔵した機械の方が多い。機械と機械の間に明確な区別は無くなっている。よって、それらは全部、「機械」である。違いなど存在しない。そのように、今から考えれば、この世界の実像が「全て自分を中心とした環境」なのが見えてくる。そして、「絶対的な客観視や明確な区別のある考え方は不可能」であることが見えてくる。奇しくも、それを既にブッダが言っている。ブッダは、そこまで分かっている代わり、まともな人間になっている。

子供になりたいのであれば、良い方よりも悪い方を取りなさい。

王になりたいのであれば、全てのことを知りなさい。

革命家になりたいのであれば、苦しみの中を耐えなさい。

宗教家になりたいのであれば、ありえない法則を自分の力で解明して、苦しみを解決しなさい。

そして、科学者になりたいのであれば、言葉を理解しなさい。

どれがどれであり、どの順番であるか、といったことに、明確な区分や順番はない。誰もが、適当な順番で、いい加減な区分で生きている。だが、ひとつみんなが同じであることがある。それは、「人間として暮らし、人間として生き、人間として努力し、人間として道具を作って生きるための手段を得ようとすることには、何の違いもなく、誰もが同じである」ということである。人間は平等ではない。だが、「自由」という意味では平等である。これを、ある種の名高い言葉として、ここに残そう。誰もがこういう風に生きている。5つの区分よりも先立って決まっている、1つしかない、そしてそれぞれがたくさんの法則の中で生きている、「みんな同じ」の区分の方が、「みんなそれぞれ違う」とか「優劣がある」といった区分よりも大きい。ダントツで優れたものと比べれば、誰もがどんぐりの背比べだ。そういうことを言っている。そもそも、最初はそうしたものを「神」であると言っていた。

夢と現実にも、明確な区分はない。夢の中の現象も含めて現実の現象である。ネットや漫画・アニメの世界も同じだ。ネットやアニメ世界も含めて現実世界である。そして、善や悪、美や醜、正や負についても、明確な区分はない。たとえば、世界を滅ぼすことは悪であるか?それは悪ではない。まったく善である。むしろ、発展や進歩の方が悪である。全て、何かしらの「絶対的に正しいこと」というのは存在しない。存在すると言えば存在するし、存在しないと言えば存在しない。仏教は、そもそも、そういう思想である。この世界を正しく理解しようとすればするほど、絶対に理解できない境地に陥る。だが、西洋哲学はこれを「異次元の考え方をすること」で克服しようとしている。正でも、負でもない、もっと違った別の観点から、正しい概念と考え方で考えれば、この世界は理解し、説明できる。思想というものはそういうものである。この世界を「僕はこのように理解するのだ」という風に考えること、それを哲学と言い、思想と言い、宗教と言うのである。

おかしな精神病を治すために必要なことは、「これが明確に私であると言える、そんなあなたになること」だ。自分のことを自分であると主張できない人間が精神病になる。これも私ではない、だがこれも私ではない、それを繰り返していると、人格が分裂し、統合失調症になって、人格を統合できなくなる。だから、「これは自分である」と一度宣言しなさい。そこから、精神病を治していけば、精神病は三日で治るだろう。

「こんな人間になりたい」とか、「自分のできることを増やしたい」とか、そういう風に考えることは良いことだ。だが、「自分を増やしたい」とか、「全員全部になりたい」とか、「全員分かりたい」とか、そういう風に思い出すと、狂った人間になる。そこが間違っていたのが、昔の自分だ。もっと自分を減らして、「明確にこうなりたい」と思えば良い。そうすると、精神病が治る。今の自分を自分だと思えなくなると、ぼけて認知症になる。そうした病気を、人間は最初から抱えている。成長するにしたがって、誰でも、人間は増えていくが、それが減ることは絶対にない。だから、良く考えて生きないと、狂った自分から逃れられなくなる。「自分から逃げ出す」ということは、「宇宙にとって最も不可能なことのひとつ」である。

王になりたいなら、この世の全てを自分の眼で見て、知って、なすべきことをなして、この世界を変えなさい。

革命家になりたいなら、誰にも理解出来なくても、自分だけは理解しているようになりなさい。

宗教家になりたいなら、自らの理論に従って生きなさい。

科学者になりたいなら、誰よりも賢いことを言いなさい。

誰よりも賢くなりたいなら、「どのようにすれば関係性を捉えることが出来るのか」を考えなさい。それは、大人には出来ない。科学者が終わったら、子供に戻りなさい。生まれ変わりなさい。死ななくても、すべてに満足して忘れることで、人は誰でも子供に戻れる。子供に戻ったら、「こんな人間になる」ということを決めて生きなさい。それによって、狂った心も正常になる。

自分は、本当は分かっている。こんな馬鹿が、デザイナーになれるわけがない。良く考えると、天才的才能が必要な仕事ばかりを目指している。プログラマも、ピアニストも、作家も、哲学者も、学者も、全部天才的な才能が必要な仕事ばかりだ。だが、諦めるのはまだ早い。自分の経験から言って、作家には意外と簡単に誰でもなれる。だから、きっと、決めてしまえば、そういう難しい職業になれる道はどこかにひとつある。その道を自分が歩んでいると信じることで、きっと夢は叶う。

本当のことを言えば、プログラマやバイリンガルなんか、目指すに値しない。頑張ってストイックに勉強しても、誰も評価しない。難しいことは確かにやっているし、天才的才能の職業ではあるが、頑張ってなっても賢くない。それなら、デザイナーの方が良い。デザイナーはそんなに難しい仕事ではない。誰にも出来ない美しい仕事をすれば良いだけであって、作家も同じだ。誰も書けないぐらい賢いものを書けば良い。だから、哲学者や歴史学者は忘れた方が良い。そんなものを目指しても何にもならない。オープンソースは、早々に終わるのが良い。誰も作っていないから優れたものにならない。オープンソースだからそれが当たり前だ。Windowsのフリーソフトユーザーが勘違いをしているだけで、フリーソフトの開発はそんなに簡単ではない。フロントエンドを開発するのも難しいが、オープンソースは主にバックエンドを開発している。フロントエンドの逆に、適当にみんなで集まって作ることはできない。分かっている人間が一人、慎重に設計する必要がある。バザール開発とは言うが、リーナスが天才だっただけに過ぎない。

バイリンガルを意味がないと言ったが、僕は今日、英会話学校でやっているレッスンの復習として、教科書の最初の6レッスンをノートに書く練習をした。こういうものは、少しずつコツコツやっていくしかない。少しずつコツコツやっていく勉強を中学校以来あまりやったことのない自分にとっては、出来るかどうかは分からない。だが、続けたい。

今日は植松氏が事件を起こして2年ということだが、障害者福祉施設に通っている人間として、障害者とはたくさん接することがある。そこで言えるのは、「職員の方が素晴らしい」ということ。職員の方は、頑張って障害者を少しでも辛くないように、優しく接してくれる。僕の通っている就労支援施設では、障害者の障害の度合いも経度で、みんな就職のために頑張っている、特にデザインや牧場のような「きちんと人並みに出来ることがある」というところが植松氏の障害者施設とは違う。だが、彼は障害者のことだけを見ていて、職員のことを考えていない。彼もそうだったように、職員の方は頑張って支えてくれている。そうした福祉施設の目的を貶しめるようなことをしたということを自覚してほしい。彼はきっと、「自分は意味のないことをしている」と思い込んでいる。そうではない。障害者の方を支援する施設の職員というのは、素晴らしい仕事をしている。事件をするよりも、そのことを誇りに思ってほしかった。

障害者にも、さまざまな程度はあるだろう。だが、僕の通っている障害者施設では、みんな頑張って自分に出来ることをしている。そもそも、「仕事をするための施設である」というところが、彼の施設と違う。そして、僕が思うに、「生きるに価値のない命など居ない」ということを知ってほしい。なぜなら、普通の野菜よりも不出来な野菜が育つことを、僕は市民農園の農業で知っている。そして、僕がやるよりも、はるかに上手いデザインを、僕よりも障害の度合いが高い人たちが、頑張って作っていることを僕は知っている。そうした人々や生き物さえ、「生きる価値がない」と決めつけるのであれば、「あなたのような価値のない人に、価値がないと言われても、説得力がない」と言いたい。そして、「生きる価値は誰かが決めるものではなく、自分が決めるものである」ということを、引き篭もりであったが詩集を出版して作家になった僕は言いたい。生きる価値とは、自分の決めるものである。人々や世間、大衆の雰囲気で決まるものではない。言葉の喋れない、意志の疎通が出来ない人でさえ、心臓は動いている。その心臓を止める権利は、あなたにはない。

障害者のことをほとんど何も知らないようなあなたには殺されたくないと思う。

僕は、日本語と英語の違いというのは、単純な順番の違いだと思う。「I play piano.」が「piano that I play」になるのと逆で、「私が弾いているピアノ」が「ピアノを私は弾いている」になる、その二つの順番が逆になっている。そこが分かると、英語は難しくない。順番を入れ替えただけだ。そこを分からなくして、英語を拒むのが日本の古代人だ。