昔は、社会の文明のようなことを分かっていた。ギリシャやバビロニアのような、古代の文明に憧れていた。社会の心理学のようなものを知りながら、環境からこの地上の文明を分かっていた。
また、狂っているとは言うが、全て分かっていた。この宇宙のこと全てを分かりながら、悟って文章を書いていた。そんなに醜い文章ではなかった。この世界をかけがえのない世界と言って、「自由と共有のグループ理論」を書いていた。この世界をグループや個人と集団といった単位で、同じと違うから成り立たせ、歴史のようなものにして文章を書いていた。また、自分の人生を書くことで哲学者の「明確な段階」を書いていた。全て悟った上で書いた文章だった。支配よりも、権力だと言った方が良いだろう。最高の「善なる権力」がそこにあった。この世界を新しい、平和で素晴らしい世界にした。この世界を創造していた。
「それは、そうやったらどうなるのか」を考えなさい。
「他の方法でやったらどうなるのか」を考えなさい。
「それがそうなる可能性があることから、何が言えるのか」を考えなさい。
「それぞれの方法でどうなることから、何が出来るのか」を考えなさい。
「人々がなぜ苦しんでいるのか」を考えなさい。
「人々の不満や攻撃は、苦しみから救われたいとするSOSなのだ」と考えなさい。
「人々が自分らしく生きられるために、何が出来るのか」を考えなさい。
「社会において、自分が居る地点はどこか、自分の過去は本当は何だったのか」を考えなさい。
「どのように生きるべきか」を考えなさい。
「人々をどうするべきか、どう接し、どう解決するべきか」を考えなさい。
「どんな社会を作るべきか」を考えなさい。
そして、「真」「善」「美」における回答を、自分で考えなさい。
「正しい人生」とは何なのか、人々とふれあい、社会の中で活動した自分の経験から、世界に対して遺しなさい。
それによって、世界は永遠の平和と永遠の愛になるだろう。
昔は、宇宙や精神、地域や意識の歴史を書いていた。宇宙において、記憶と意識がどのように生まれたのか、そういう「宇宙史」を書いていた。
世界を見ていると、そもそも、アメリカという発想がおかしい。人種差別主義者が、なぜ黒人を馬鹿にするのか。黒人は、多様な生き方をしている同じ人間として、人種の差別なく、仲良く付き合えば良い。わざわざ人種差別をする必要がない。日本人や文明国が豊かな生活をしていて、黒人が可哀想な生活をしていて、「ヘルプ」を求めているなら、助けない理由はない。そもそも、黒人と共同で生活する、アメリカの文化そのものが間違っているのかもしれない。アメリカに居る黒人が悪いなら、それはアメリカの問題だから、アメリカはアメリカ人の黒人を差別する。そもそもが、アメリカ、という発想が間違っている。
ある意味、日本人は全ての位置で良い位置に居る。ヨーロッパのような文明国であると同時に、中国のような優れた文化を持っている。社会主義だろうが、民主主義だろうが、Windowsだろうが、プレステだろうが、日本人は一番、何でも得意に出来る位置に居る。経済力、技術力、文明力、文化力、全ての意味で長けている。ひとつ言えるとしたら、「アメリカの経済や技術に依存しすぎている」ということが挙げられるかもしれない。Amazonのような商売中心の会社を、日本人が同じようにやる、たとえば中国でいうアリババ・グループのように日本のソフトバンクや楽天のような会社が勝てば、日本は経済的にも技術的にも豊かになるだろう。だが、日本人は、ソフトウェアの開発が出来ていない。それは、日本人の文化的な問題ではない。アメリカがあまりに優れすぎているだけであって、それはアメリカ人が賢いというよりも、ただIBMやGoogleのような多国籍企業の本部がアメリカの、特にシリコンバレーやボストン・マサチューセッツなどの周辺になる、というだけでしか過ぎない。日本にIT企業がもっとあれば、勝てる。そのためには、大学や研究機関を誘致することも大切だが、思い切って何かが出来るように、誰かが教えてやらなければいけない。アジア人にインフラ技術を教えるのと同様に、日本人にIT技術を教える。そのためには、英語を勉強してMITやMicrosoftのような会社に入って、それだけでは終わらずに日本人のために教え、会社を作らなければいけない。そこまで行って、初めてアメリカ人に勝てる。僕も、そういうことが少しでも足しになれたらと思う。
ただ、本当はそんなに場所を変えて金をかけて勉強したり労働したりする必要はない。今の時代、インターネットがある。アメリカの技術なんか、非公開の技術も多いが、オープン系の技術もとても多い。日本には、そうしたオープン系のアメリカの技術を知っている人間が少ない。特に、オープンソースは、ドイツやメキシコの方がまだ盛んであって、アフリカならUbuntuがあるのに、日本には何にもない。日本人の作ったフリーソフトやオープンソースソフトは、ショボい。だが、AviUtlなどを見ていると、日本人だからといって技術力が劣っているわけではない。単に、オープンソースという存在に関わりたくもなければ、知りたくも開発したくもないのだ。僕は、オープンソースの日本人のコミュニティに、いくらか貢献できたらいいと思う。それが最終的には、日本のIT技術を底上げしていく作用や影響力になるかもしれないし、あるいは、その技術力が何か素晴らしい技術やエンジニアを生み出すかもしれない。本当は、そういう人間はどこか遠くに居るように見えて、近くにも居るものだ。
ただ、僕の知っているパソコンの常識というのは、誰でも知っている普通の常識である。2ちゃんねらーのオタクでさえ、これくらい誰でも知っている。そこを書いたというよりは、ただまとめただけであって、結城浩やmatzと比べると、僕の技術力なんかとてつもなく低い。もっと頑張って、何か本でもツールでも作り出さないといけない。そこまでの技術力が、今からきっとつく。デザインをするのも良いが、夢や理想は高い方が良い。ただ作家で成功するだけではつまらない。日本の技術力を底上げできるようになりたい。
日本人が人種差別をしないのは、黒人が居ないからというよりは、「日本人が世界で一番差別されているから」だ。そういう、「本当に差別されるのが嫌い」な国民だから、日本人は差別しない。ネットを見て日本人が差別をしているのは、朝鮮人が逆に反日だからだ。あまり意味がないが、日本人が一番差別されているから、黒人と仲良く出来るのは先進国では日本人が一番長けている。これからは、そういう賢い日本人が勝っていくだろう。日本人は、差別はしないが、民族意識が異常に強い。その代り、閉鎖的で、オープンではない。そういうところを「文明国らしくない」と批判するのは簡単だが、日本には日本の文化がある。むしろ、ここまで独自の素晴らしい文化があるのは日本だけではないか。日本だけ、一番ありえないものが多い。むしろ、多すぎて、何が日本なのか分からないから、侍が日本に見える外国人が多いが、日本人が侍なわけがない。外国人には何も分からないだろう。今から勝つのは日本だと、僕は確信している。なぜなら、このホームページだけで分かる。日本人が一番、こういう発想が得意だ。日本なら、失敗しないように経済特区を作った上で、希望する参加者だけで、新しいソ連とOSを作るだろう。
僕は、日本には潜在的な文化的可能性があると思う。特別、優しい人間と、自ら協力する人間、みんなのことを考える人間が、閉鎖的な空間の中で、長い間の歴史の中で培ってきた「文化」がある。この国の文化を、決して破壊してはいけないが、新しい世界にすることを躊躇してもいけない。この国がオープンな技術を作れば、世界の全てのシステムがそれを模範とするぐらい、素晴らしい技術を作るだろう。ただのアメリカの技術のモノマネや隷属にさせられている時代は、ここで終わりだ。もっと良いものを、もっと良いソフトウェアを、日本が中心となって開発していかないといけないと、技術力の低い僕でも、思ってしまうのである。
この世界はかけがえのない世界であり、みんなが自由に協力することで変えられる。そのためには、自由が敗北してはならないし、人々をもっと愛さないといけない。みんなで協力することで変えられる。
この世界を変えるために必要なのは、「出来ると信じること」だ。あなたは出来る。絶対に出来る。そして、「分かると信じること」も同時に必要だ。あなたは分かる。必ず分かる。愛の謎は解ける。いつまでも、全ての解決した何も出来ない地獄になっているのを、治さないといけない。そのためには、「この国が勝つこと」、それが大切である。
自分がそこまで頑張るよりも、みんなに頑張ってほしかった。オープンソースのように、みんなで協力する「土台となる基盤」を作りたかった。また、世界と人間を「意のままに操る」かのような発想をしていた。環境の構築を分かりながら、「自分から不利になることで逆に相手を倒す」ような、「契機を掴んで自由に勝つ」という発想が多かった。心理学のように、「なぜそのような行動をするのか」を知り、その前提となる「環境への適応」を分かっていた。
人間が感動して涙を流すのは、「悲しすぎて耐えきれなくなるから」だ。嬉しい時も、同じように涙を流す。ポルノグラフィティの言う「流した涙も偽物にされる」ではないが、一度耐えられるようになれば、感動は消え去って元気に戻る。この文章で涙が出るのは、全てが悲しく、耐えられないからだ。そのせいで涙が出る。だが、一度耐えられるようにした方が良い。この文章を耐えられるようになった時、はじめて執筆者の気持ちが分かるだろう。地獄とは言うが、永遠に苦しむだけで、誰よりもたやすい地獄だ。
本当は、感動ばかりしていると人は悲しすぎる地獄になって、馬鹿になる。自分の力で這い上がれば治る。あるいは、何もしなければ良い。感動しすぎる人間は賢くない。ネットやテレビで感動ばかりしていると、何も分からなくなって、この世界を滅ぼすようになる。感動なんか、しない方が良い
哲学者はこの宇宙と人生の成長に感動するが、それは認知症を引き起こす。成功すれば成功するほど、人は馬鹿な地獄になる。成功も、成長も、どちらも地獄である。馬鹿すぎる人間か、賢すぎる人間か、どちらかがそのように本当の馬鹿になる。成長も感動もしない方が良い。出来れば、学問と執筆をした方が良い。そういう、つまらないことばかりしていると、本当に賢い人間になる。感動が多いよりも、 つまらないことが出来た方が、人間は賢い。
昔なんか、世界の広がりを知って成長し、狂った哲学者になっただけだ。まず、自然な助け合いを知った。次に、人々と関わって、さまざまな意見を聞いた。そして、実現可能性と自然な発生から、環境の変化を知った。そして、人生から啓蒙を知り、社会を自分のことから解決するように変えたくなった。そして、さまざまな社会を知り、全てのことが出来るようになった。数学的な理性は、デカルト的な「思考の段階」となった。そして、ブッダのように悟り、「全ては自分の中にある」ということを知った。在り方から俯瞰し、知覚から認識を解明し、コンピュータ・システムを知り、愛を与えて世界を変え、救った。そして、そこまでの自分の全てを使って、自分だけで独自に支配者となり、世界を変えたのだ。
根源的な意識へと到達せよ。そして、独りの力で這い上がり、世界を変えよ。全てを創造し、実現せよ。そこには神の息吹が吹いている。これが、新しい「自由」である。