新・日記2に戻る | 2018年7月の日記に戻る

=2018-07-14=

なんだかんだ言って、この文章はまだ書いている。この文章を書くのをやめると、生きる楽しみがない。最近、この文章を書かないと、生きている実感がない。

死ねば良いとは言うが、ゲーテが言うように、悟性と学問という、人間の最高の賜物をさげすみ、悪魔に身をゆだねるのは、もうやめた方が良い。

自分はとても大切なものを手にした。そして、自分は賢い。

昔は、今まで分かっていることを、対象と関連付けて、「その対象が何から生まれるのか」とか、「何に関連してその対象があるのか」という、世界観全てのような文章を書いていた。

社会の段階とレベルを書いていた。自由な中で、活動し、人生を生き、また自然な発想で社会を作ることで、「環境のレベル」のようなものを書いていた。

科学を作っていた。狂気のような科学だった。あらゆる全ての科学を、創造し、何がその科学なのかという本質を考えて、全てが分かっていた。全てを作ることで分かった。

精神の高みに立って分かっていた。ヘーゲルの言うように、成長と啓蒙のような思想から、道徳性や良心のようなものを知り、決まりのために自分があるのではなく、自分のために決まりがあるのであり、決まりは従うものではなく、変えていくものなのだと考えていた。契機のようなものから、精神の無限性を分かった。また、最終的には全てはきっかけであり、きっかけから社会が生まれ、きっかけから感覚的な関係として歴史は考えられると考えていた。

昔の科学は、厳密に考えただけだ。厳密に、実際の場面を見ながら、実像的な科学を作っていた。この世界の全ての様相を網羅して、自然に何が生まれるか、そこで何を考えるべきか、それが何になるか、その条件とは何かを考えた。

人間は、分からない人間が分かっていると賢い。逆に、分かった人間が分からなくなると馬鹿になる。一度、分かったことを忘れるためには、分かる、ということを馬鹿だと思う必要がある。分かるのは賢くない。分からない人間がいくらか分かっていると、そういう人間に賢い人間が多い。分かってしまえば、馬鹿になる。

それが何を意味するのかを良く分かっていた。法則性と原理を考えていた。自分の体験から、この世界とは何なのか、誰が何を考えているのか、人々は何を自分と同じように考えているのか、自分は何を分かり得るのか、それを分かっているということが何を意味しているのか、道徳や認識や人間活動上の原理とは何か、良く考えていた。全てを捉えて、いつ何が成り立つのかを物理的に考えた。社会のことは、世界モデルから、環境をどのようにすれば良いか、何がいつ出来るのかを考えていた。心理学は、心が「何のために何に根差しているのか」を良く考え、また「自分は本当は何を考えているのか」から、「なぜそのことをするのか」を良く分かっていた。そして、この世界の全てが「なぜそのように起きるのか」、考えていた。そして、社会や環境が「何を原因とし、たとえば価値観から社会が生まれるように、何から何が生まれるのか」を良く考えていた。そして、それぞれの人間が何を考えているのか、世界観の限界とネットから分かっていた。社会について、道理と理屈から、世界をどのように変えられるのか、考えていた。世界が経験的に人々が分かるようになるために、どうすれば良いか考えていた。

出来るようになることから、人々が何をどのように出来ているのか、子供なりに良く考えていた。全てのことが出来るようになった上で、世界を俯瞰的に見た。また、芸術や科学など、さまざまなことに興味を持ち、創造的な経験と発想からこの世界の全ての「考え方」を吸収した。世界を自分なりに見て、全てのことを知と経験と想像力から知った。いつも、そうした経験のことを文章に書いていた。また、世界の人々の関わり合いと行動から、「自分がこの世界に何を働きかけることが出来るか」を、「契機」のように、きっかけとして考えていた。

まず、人々と関わり合う。そして、次に出来るようになる。そして、次に人々の声を聞いて成長する。次に、行動し、経験し、挑戦していく。次に、世界を広く知り、王となる。そして、世界がどのように変えられるのかを知り、「自由に自発的な善をする」ようになる。そこから、世界に働きかけるきっかけを手にする。世界が自分でも変えられるのであり、ありのままこの世界は任されている、という、「契機」の考え方を知る。最終的には、全てを自分のことのように理解でき、また全てのことを何でも自由に出来るようになる。そのために、世界モデルと発想法を作り、経験を吸収し、世界全てを客観的に見る。ひとつのシステムを知り尽くすことで、世界全てのことを知る。そして、世界を愛し、この世界を救う。最後に、誰の責任でもないと言い、僕の責任であると同時に、僕の権利であると言う。それが、僕の人生だった。

人々の意見と声を聞くことで、方向性を自分の手で掴める。自分独りでも生きられるようになる。誰も何も居なくても、自分で自由自在にこの世界と関わることが出来る。

賢かったのは、15歳のごろだった。ひとり、自由に生きることを決意した。そして、そのまま永遠の道を作った。それが、今のここまで、途切れることなくまっすぐに続いている。