人間は、分かろうとしなければ分かる。大学のように分かろうとしなければ良い。
もっと、考えれば分かる。たとえば、その人間が自分に関係することを支配し、変えられるようであれば、それは自由を意味している。その自由を実現するためには、社会を民主的なものにする必要がある。考え方を適用することから、目的と発想が分かる。社会的に見れば生産とは価値を創造することであり、物理的に見ればものは三次元の実像であり、存在は時間である。また、知覚と経験は人間の側にある。知性によって、それを捉えることが出来る。知性は自由を生み出す。
昔は、そういう哲学的な理性を、自分で考えることで分かっていた。自由な人生を生きながら、いくらでも言語的に思考した。哲学とはそういうものだ。大学の知識のように、この世界のことを分からない方が良い。自分はそのせいで、何も分からなくなった。
もっと、書かずに言えば良い。言いたいことを全部書くせいで、頭が辛く、疲れるようになっている。そして、もう時間は止まる。停止して、時計のロボットが死ぬだろう。
因果性と実存性を考えなさい。そこから、実際の人生の段階が見えてくる。経験とは、「人生を段階的に分かる手段」である。それは同時に、「世界を把握し、無意識の中での環境活動を何かと見なす手段」である。そして、社会はありのまま存在する。いつでも、この世界は変えられる。
正しい社会とは、民衆が民衆の手で民主的に変えられる社会であり、そこでは自由な権利がそれぞれに同じだけ、平等に権限と自由がある社会である。そして、そうでなければならない。だが、指導者はきちんと理性を持ち、誰よりも賢い人間であること。その人間が自由な平等を実現しなければならない。
状態から、何が何を意味しているか、何がどうであると言えるのかを良く考えた。特に、何がそうであれば自由と言えるのか、何が自由を意味しているのか、良く考えた。
ネットを知りながら、独りで人生を経験した。創造性が好きで、創造性や創造的な活動を信じていた。経験は段階的で、とても経験豊富な人間で、社会のことを全て知っていた。世界の全てを、誰も知らない世界の全てを、オープンソースや集合知などの世界を、広く全部知っていた。自分の実践的な経験もあった。創造的な体験から、この世界、人間全ての経験と体験を知っていた。その上で、意味と状態を考えることから、きっかけや自由、自然の変化を法則的かつ感覚的に捉える、万物の科学を作っていた。その科学は、方法から作った独自の物理学だった。発想を人々から吸収しながら、何がどうなるかを考えることで、独自の万物の科学を作っていた。何をすれば論理的に作れるかが分かる、能力と経験のあるまともな大人だった。
安心して良い。もう、これ以上は大丈夫だ。もう怖くない。怖くても、「大丈夫だ」と言っていれば、もう安心できる。だが、もう、僕はこれ以上は出来ない。これ以上、書くことはもうない。みんなには、もっと子供に戻って経験してほしい。子供の経験だけが、大人の地獄を救うことができるからだ。それで終わりだ。本当にありがとう。明日には、この世界は新しく生まれ変わるだろう。明日は、13日の金曜日だが、とても素晴らしい、変わり目と節目の日になるだろう。では、さようなら。これで、永久の愛を探す終わりのない旅は、終わりだ。
昔は、環境へ適応し、環境に参加し、環境を変える、といった、「環境の自律」的な考え方を考えていた。その環境を自分で変え、参加し、そして従い、適応する。そういう考え方を適用することで、この世界の全ての社会と考え方を分かっていた。
職場(作業所)のパソコンにホームページのデータをコピーし、Gitを入れて、GitHubアカウントを作ってデータをリポジトリにプッシュし、ローカルでプルした。これで、作業所で思いついた時にホームページを更新できる。作業所で更新したファイルはコミットの後にいったんGitHubに入る。その差分だけをローカルに同期する。とても便利だ。