新・日記2に戻る | 2018年7月の日記に戻る

=2018-07-06=

昔の自分は、自由を良いと思っていた。相手の自由を尊重し、相手を自由にし、社会を「本当の自由が感じられる社会にすること」、それ自体が僕の目的だった。それぞれが自由に生き、自由に行い、自由に作り、自由に与え、自由に解決し、自由に教えること、そして自由の意味を分からせることが、僕の経験の目的だった。全て、自由でなければ、行動する意味は無く、自由な上で生活に最低限必要なものを役割分担して作ることが最低限必要で、結果的にそれがそれぞれの権利と能力になって、社会を高度に進歩させると考えていた。本当に成熟した世界では、自由にして悪くなることはなく、反抗や破壊活動をすることもなく、逆に自由にした方がそうした戦いや争いはなくなると考えていた。

相手を、本当の意味で自由にしなさい。相手が許されていることだけを、自分に許しなさい。子供に自由な経験をさせなさい。自由な経験から、科学と同じものを自分で作りなさい。自分だけの人生、自分だけの考え方、自分だけの思想、自分だけの知識、自分だけの経験を自分自身の中に生み出し、そこからこの世界を正しく捉えなさい。

「その人が自由であり、みんなが自由である」ということの意味を、良く考えて分かっていた。それぞれが自由であること、それが関係することから、視野の広がりや世界の限界、あるいは成り立たせることでの、たとえばGPLのような「許可の関係性」と「そこでの自由の成立と実現性」を考えられる。GPLは全員に自由を許すライセンスであり、そこでは個人の勝手な独占は許されない。それがたとえ、改善の全てを強制的に公開するものであったとしても、その権利は著作者に存在し、著作者が権利を行使するなと言えば、それも著作者の権利の行使である。矛盾したような考え方を、GPLは矛盾なく実現する。最初の著作者の権限を持って、このライセンスの下で誰も権利を行使してはならない。それが、全員の可能性の限界という「自由」を生み出す。それは自由であると同時に、自由を誰も行使しないという正しい自由の行使であり、全員の自由の実現である。コピーし放題と言って批判はするが、ソフトウェアを自由にコピーしたい、誰もが持っているギーク(アメリカのオタク)の欲求を叶えるライセンスだ。現実的な結果ではあるが、それによってフリーソフトウェアはオープンソースのままになり、永遠に無料のまま提供され続ける。だが、フリーとはその無料を意味していないため、Red Hatはメインフレーム向けにLinuxシステムを売っている。これは、「Red Hatにしかシステムを構築・提供することが(技術的・生産的に)出来ない」とすることで、有料のサポートを付属して売っている。Red Hatは許されるが、そうした有料版Linuxというものを作っても構わないだけではなく、それはオープンソースによって提供されるため、RHELを他の会社がサポートすることも十分に考えられる。どのようなビジネスモデルを生み出せばLinuxが儲かるのかは、永遠の課題である。いつまでも善意のボランティアによって開発され続けることは、いつか変わって何かのビジネスモデルを作り出すだろう。