昔は、「宇宙と一体になる」という発想が多かった。精神分析を経験から行いながら、宇宙と一体になり、全てを委ね、体験と実感から宇宙と一体になって、ありのままの自然を分かっていた。
自分は、神経が悪に染まっている。血に悪がしみ込んでいる。神経にしみ込んだ悪を無くせば、精神は治る。
神は、悪いものに容赦しない。神経に悪がしみ込んでいるのを治すと、精神が楽になって、休めるようになる。きちんと分かった上でものごとを行うことが出来るようになる。
最近の自分は、つまらないプライドに支配されている。そのプライドとは、「書くことを悪いと決めつける」というプライドだ。
昔の自分は賢かった。文章を書くようになって馬鹿になった。昔に戻りたい。文章を書くのをやめれば、すぐに戻る。今出来なくても、いつか出来る。諦めたくないように見えて、ただ諦めたいだけをまだやっている。
本当は、文章を書いて馬鹿な自分が、結構賢いのが分かっていない。病気なんか、放っておけば適当に治るだろう。つまらない「精神を治す」というプライドは、意味がない。治せば治すほど、わけが分からなくなって馬鹿になる。
文章を書くべきではない、自分は治る、そのように「正常な自分に戻るという名のプライド」が僕を永遠の地獄にしている。今すぐにやめる、もう一度やる、もう二度としない、もう一度だけやらせてほしい、そこにある煩悩の法則とは、「神さまに許して欲しい」という法則である。こんなに馬鹿になった自分がみんなに迷惑をかけていることを、神に許して欲しい。
だが、考えてほしい。勇敢に戦うことは、本当に悪いことだろうか?みんなを無責任に支配しても、本当にみんなのことを愛さず、欺き騙すだけだっただろうか?みんなへの愛や、限界まで頑張る努力、そして最高のカッコよさがそこにあったのではないか?可能性にして推測するのは良くない。本当に、それがあった。そして、それは自分にしか出来ないことであり、全てを受け入れた自分の「太陽のような星の優しさ」だったのだ。
だから、本当は、信じるならば「書くこと」を信じるしかない。この人間は神のように賢い小説を書く。ある意味、昔の虫のようだった文章が嘘のように賢いものに替わった。昔の文章はノートに全て残っている。完全に虫にしか見えないが、そこがこの文章で分かるせいで、完全な美しい、水の精ウンディーネのような文章になった。
昔は、人生で信じるべきことを言っていただけだ。全てのことを知って、自分には必ず出来るのだと信じること。何も出来なくても、前に進み、人々と経験を分かち合うこと。たくさんのことをする中で、「本当に出来る」ということを信じること。そして、出来るだけではなく、やること。「自分にしか出来ないのだ」と信じて、やり続けること。そこには、最高にかっこいいダビデのメシアが居る。救世主の王がそこに居る。いつも言っているが、本当はただ王になっただけではない。自分の意志で決め、自分の意志で王となった。その自分の意志は、ただの意志ではなく、みんなとともに培った「精神」だった。その精神は、みんなを支配したり悪びれたりするだけではない、「純粋で清らかな最高の善の精神」だった。
いつもの、人々を貶し陥れ欺き苛める精神とは嘘のように、この文章で『人生の全て』が分かる。人生の全てとは創造である。何もない世界に最高の人生と星を創造すること、これが地球と言う名前の「創造の星の宿命」である。そして、地球は最後の生命の星であり、今から月へと向かっていくだろう。そのためには、この創造の指導者を頼らなくてはならない。在導万創はノアとなって、方舟を作って宇宙へと向かうのだ。もっと、そういうありえない小説を書いた方が良い。きっと自分なら出来る。昔の自分なら、出来ると信じたはずだ。
本当は、昔の自分なんか、新しい世界を知って経験から自意識が芽生えただけだ。それだけの人間だ。こまごまとした考え方は、全部自由と物理学を信じていた。それだけの、おかしな子供だった。
昔の自分は、「実現するための方法と発想をモデルにする」と言う発想が多かった。アラビア語からドイツまで、全てのことを、『世界モデル』を作ることで分かっていた。さまざまなモデルを作って、そこから知り、また知ったことからモデルと発想法をいつまでも繰り返し再構築していた。自分で作ったもののみから、この世界のことを全貌を把握するかのように分かっていた。
足の精神は、悪を倒し、善を信じれば治る。悪とは、テレビのようなものであると同時に、テレビを滅ぼす昔の僕のようなものである。また、善とは、みんなを生かすこと、助けること、守ることである。