自分は、頭の中に虫が住み着いている。良く分からないが、神経を虫が浸食している。今の医学では説明できないが、神経が虫だらけになっている。この虫を殺せば、すぐに楽になる。
昔は、モデルを作って哲学のことを分かっていた。目的や原因と結果、仮定と成立を考えた。それだけで全てが説明出来た。モデルから、物理現象のように、相対的に感情や経験を考えて、「いつどのような感情になるか」と「それが何を意味しているのか」を分かっていた。本当は、子供だから分かっていただけで、そんなに賢くは無かった。
自分は、作るのは馬鹿なのが分かっていない。作るのは、ただ、単純に手順通りやれば作れる。原理も、発見自体はそんなに賢くない。使う方が賢い。使うのは、時と場合を考慮して、目的を持ってその道具を、使ったり、応用したり、あるいは考えたりサービスを提供したりする。人間が間違っているのは、どこでも作ることを教えるからだ。作る、ということはそんなに賢いことじゃない。使う方が賢いことの方が多い。
たとえば、Linuxを作るのは、手順を良く考えてアルゴリズムを関数(モジュールと言う)にしていけば、誰でも作れる。その作ったものをどのようにして使うのか、それが賢いのがLinuxだ。
昔は、自由な知性と経験の上で、数学的なことを言っていた。相対的な法則から、「何が何へと自然になっていくか」とか、「収束していくか」とか、「そこから何を考え出せるか」とか、「そこに何の可能性があるか」とかを考えていた。決まりが自然に生まれ、決まりがどこから生まれているのかを考えていた。
もっと、使うことを応用することを、目的と発想から考えていこう。現実の実際にあるものから、何をどうしたらそう出来るかを考えていこう。ダムでも、輸送でも、オフィスの仕事でも、あるいは道路工事でも良い。作ったり仕事として実現していくこと自体は、賢いことじゃない。そうではなく、もっと現実にあるものを「何の目的であるのか」とか、「どのような体制で実現すべきなのか」とか、可能性を応用的に考えていけば、人間の住んでいるこの世界のことが、少しは頭で考えられる。全ての知識を知っていても、全ての原理と方法が分かっていても、それは賢い人間じゃない。賢いのは、何かをするための前提となる「考え方」が分かる人間だ。
ある意味、ものはどうでも良い。ものはただあればそれで良い。大事なのは社会と人々の意識だ。社会におけるさまざまなこと、人々が関わり、社会を作り、秩序を作り、協力し、豊かな経済を高め、人々をそれぞれが苦しまないように、救済していけるようにしていくこと、そうしたことが賢いのであって、生産や労働それ自体は全く賢くない。どんな社会を作るのかが目的であって、どのように作るのかは大切ではない。この世界の全てを記憶と想像力で考えれば、おのずと、大切な部分は見えてくる。それは、人間がみな同じで、一緒になって生きている、ということだ。世界をたくさん作るのは良いが、一緒に生きていることを忘れてはならない。健常者だけが世界ではなく、障害者の世界もあるだろう。
要するに、方法だけじゃなく、目的を考えれば良い。セカオワが既に言っている。だが、目的をただ挙げるだけでは意味がない。その目的がどこからどのように決められたのか、デザイナーのように考えなければならない。その目的は一体何を意図して生まれたのか?昔の自分は、そこを考えていた。もっと別の考え方をするためには、目的を「偶然」ではなく、「必然」で作っていかなければならない。そして、さまざまな「目的の前提となる前提条件」を見出していかなければならない。もちろん、それを実現させるための能力があるのは良いことだ。だが、何も考えずただ出来るだけでは、良いものは生まれないだろう。
要は、「どのようにして作るのか」という「How」は問題じゃない。「なぜ作るのか」という「Why」もあまり問題じゃない。問題なのは「何を作るのか」という「What」であり、「何のために作るのか」という「For」である。それを何のために作るのか、何を作っていくのか。そこから、「何をすべきなのか」という「Must」と、「何が作れるのか」という「Can」が生まれていく。そして、「それはそうであるかもしれない」という「Maybe」が生まれる。大事なのはそういうことであって、作ることである「Make」はそんなに重要じゃない。あるいは、それを「どんな形にするのか」という「Model」が重要になるだろう。
昔は、「作用を捉えること」で分かっていた。感情から環境まで、この世界の全ての事象を捉えて分かりながら、成り立つ条件を考える、そういう「心理学的物理学」から感情と環境のことを分かっていた。哲学は、全て「事象を捉えること」から生まれていた。考え方から、人生のことを分かっていた。そして、全ての経験を持っていた。本当のマスターになっていた。考え方のモデルから、同じ現象を違う捉え方で多角的・多面的に考えていた。子供たちの経験の全てを自分だけで分かり、子供を変えるためにはどんな自由な経験が必要なのかを考えて、ネットで大人の世界を知り尽くす、そういう子供だった。
僕は、「音声入力でブログが書けるシステム」というのを作ると面白いと思う。使うのは簡単で、「OK、ブログ。こんな記事を書いて。『今日はカレーライスを食べたよ。』」と言えば、それをブログに投稿してくれる。ブログだけではなく、SNSやツイッターで実現しても良いだろう。あるいは、キーボードを使わなくても、喋るだけでワードやエクセルにデータが入力できると、良いかもしれない。
音声入力したデータを掲示板のような繋がった場所に投稿し、他の投稿は音声にして出力することで、まるで「音声2ちゃんねる」を作ることも出来る。
昔は、第一原因や第一法則を考えて分かっていた。影響力の高みに立ち、環境を作り出し、インフラを作り、人々を自由にし、自由の一番上に立って分かる。作った科学は、何かからいつ何が生まれるか、それはどのように決まるか、という、「決定と第一原因の科学」だった。そこから、マルクス経済学で言えるような、決定者と労働者の支配構造や、アイデンティティを考えていた。それらは、実際にこの世界を見て、自分の経験を無数の思考で分析して分かったものだった。
おそらく、ここで一度終わったのが僕だ。もう、やることも知ることもない。だが、この30年、とても良い人生だった。人々が望んだり羨んだりすることは無かったが、その代り、自分だけの、自分しか持っていない宝のような力を手に入れた。
僕はここまでのことは全て忘れようと思う。また、一から出発したい。もう一度全てをやり直したいし、小説やデザインも、むしろ今までの方が出来ていない。今から、ゼロからやり直したい。デザイン、ピアノ、執筆、英会話などは、今までは全てHow、つまり「どのようにやるか」という方法だった。それを、「何をやるか」という目的に変えたいと思う。
僕だけではない。この世界は生まれ変わる。この世界は、今までの築いてきたものを失ったことと、自由で行動する意味がなくなったことが問題であり、それは上から全てを否定する僕のせいであって、もっと肯定して、褒めてやれば良い。そうすると、みんな喜ぶからだ。この世界は良い世界だ。日本人は死んだ方よりも生きた方が良い。生まれ変わることがもし出来たなら、戻れないことの幸せと米津玄師が言っているとおりの、一度解決してもうこれまでの経過には戻れない、「新しい世界」が待っているだろう。キリストの言う、向こう見ずな終末は、この偽キリストが勝手にでっちあげたものだ。
最後に、宣言しておこう。僕は神とサタンだ。神なわけでも、サタンなわけでもない。僕の中には、神の精神とサタンの精神がある。その2つが僕だ。本当は、「何をするのも怖くなっている」のは、「間違えて失敗することが怖い」からであって、そのせいで試したり比較したりすることが無くなっている。臆病は知性を奪う。勇敢な人間の方が知性が付く。怖いかもしれないが、本当に勇敢になりなさい。
そして、この世界を変えよう。僕と同じ人生や、僕の言っているような社会にはならなくて良い。もっと違う、最高の人生を歩むために、一度全てを終わらせなさい。それで、世界は治るだろう。ある意味、世界は「死」を越えていくだろう。