新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-29=

その環境ではそうなることが、別の環境ではどうなるかを考えていた。特に、今の自分が体験していることが、過去の自分ならどうだったかを考えた。その行動がその環境ではどういう風になるのかを考えて、人々の学習や行動、認識や記憶を心理学的な環境から考えていた。

自分は、キリストが悪いだけなのが分かっていない。キリストが悪いなら、それで良いだろう。神の洗礼を受け入れて、自分の罪を懺悔すれば、キリストは赦してくれる。

最近、インターネットはSNSなどによって大衆向けになりすぎた。そのことによって、面白味が全く無くなった。SNSは友達同士のネットをやっているが、そんなネットならリアル世界でやれば良い。本当は、昔のオタク向けのインターネットは、面白くて楽しいものが多かった。オタク向けインターネット、「オタネット」を作るしかない。標準OSは、Windows 2000とFedora/Gentoo Linuxにしよう。

神との対話をするのは良いが、なぜ辛いのかが良く分からない。そんなに、会話の内容を覚える意味がないのだろう。話の内容を覚えずに聞き流せば、きちんと日本語を理解する能力がつく

自分は、はなし家の善人に見えて、本当はそれは仮の姿だ。本当は、世界を狂わせ、崩壊へと導いたが、その上で最高の支配をやった人間だ。その人間の生きた人生と世界を、誰も知らないが、理性と経験の全てがあった、寡黙な男だった。

僕は最近、「二つの自由」で分かっている。まず、自由な決まりを作っていた。そして、それを破壊する前の記憶がある。その2つだけをいつまでもおかしくして分かっている。その二つの自由をどちらも消してしまえば、目が治る。僕の目はおかしい。何も見なくても分かるようになって、文字が見えるようになった。もう、それで治る。

自由な決まりは、制度から社会まで、全部書き表すものだった。構造を作って、その上で全てを書く文章だった。