昔は、学習で分かっていた。想像力と環境、言葉と知性がどこから生まれるのか、どのように生まれるのかを自然に分かっていた。世界を「認識が生み出されるもの」であるとしていた。
自由な同じで分かっていた。
考え方の違いとは、解釈の違い、認識の違い、環境の捉え方の違いであり、それらは自然かつ必然的に生まれている。
善とは、その人間が自分の自由に出来るように自由な意志と行動と生き方を許して、その人間が自分の力で出来るように情報と手段を与えることである。
また、善行がなされ続けるように、環境自体を変えて、自由自在に導き、教え、相手の立場に立って相手を助けることである。
たとえ間違っていたとしても、相手の望むように相手を助けてあげなさい。相手の望みを叶えなさい。そして、相手が間違っている望みを持っている時は、それに気づくチャンスを与え、アドバイスと助言を与えなさい。
全てをきちんと分かった人間は、総合して全てのことを正しく知った、真理が分かった「覚者」となる。覚者は、戦いや言い争いで負けることが無い。また、人々を導いて、人々を自分と同じにすることが出来る。自分と同じように、人々を分からせ、人々に知を分かりやすく教えることが出来る。
最近は、学習が最後まで到達したことで、知性のない馬鹿になっている。それで神との対話をしているせいで、知性がないままで何も分からず混乱している。
それは、学習を単純な学習に直せば治る。単純なことを思考し、単純に行動すれば、学習によって狂いは治る。ただ、認識し、その認識を別の認識に変える、それだけをやれば良い。それで認識の学習は正常になる。
分かろうとしない方が良い。分かろうとすると分からなくなる。分かろうとしなければ、普通のことが分かる。分かろうとすればするほど、馬鹿になって、常識の分からない人間になる。
本当は、僕のような支配者が存在すること自体が悪い。
僕は、宣言する。もう、これ以上、この世界を変えない。これ以上、みんなを馬鹿にしない。これ以上、みんなを自分にしない。これ以上、みんなを同じにしない。
この宣言によって、安心できる世界になるだろう。要は、自分が居ることにおける他者への害を無くせば良い。自分が居ても居なくても、そんなに世界に対して影響力を持たなければ良い。だから、世界を助け、積極的に教えることは、世界を滅ぼしていることに等しい。もう、世界に対して、支配や導きをしない方が良い。
会社の考え方と構造のようなものを書いていた。この世界を自由に分かる、その考え方を書いて、自由な社会を作っていた。
会社は資本のあり方である。金を使う資本の独占であり、金儲けをし、労働者に対価を支払う。
会社は法律に従いながら、自由にやることを決める。法律によって同じになる部分と、それぞれの会社が自由にやる部分がある。
会社は生産手段の共有である。それぞれの会社が、それぞれの生産手段を独占している。
会社は自由な参加と雇用である。会社はそれぞれの環境と手段を持っており、「自分のやりたい仕事」をやることが出来る。
会社は規模と階級である。大企業、中小企業、ベンチャーで、給与の多さや労働者の人数、自由の度合いが変わってくる。労働者として頑張れば、上役になり、社長にさえなれる。
会社は生きるための手段であり、自分の生活と人生の中で行う「時間的な過ごし方」の多くを決める環境である。
会社はそれぞれの会社の違いと、業界ごとの違いであり、さまざまな会社が金儲けをする中で、協力し合い、競争し合う。
会社は国の社会を成り立たせるものであり、同時に、金儲けという国の経済を成り立たせ、経済規模を拡大し、社会を発展させるものである。
会社は努力に対する対価であり、その人の努力と才能を「認め、報いを与える」ものである。
また、人生や思考における「知」のあり方を考えていた。
知った上で考えることと知らない上で考えることがある。何も知らない人間のことを前提に考えることは無益なことではない。知らない人間の方が知っていることはたくさんある。
さまざまな実感から、「概念的なアイデンティティ」を考えられる。創造性のある会社や人の役に立つ仕事というものは、それ自体が創造的であり、アイデンティティである。その実現としての会社の形成というものも考えられる。
足の精神は、一度学習を全部消して、分からなくなれば治る。分かって学習で治すのが間違っている。何も分からなくなれば、精神はすぐに治る。
会社は創造性とアイデンティティだが、人生とともにやりたい仕事は変わってくる。最初は、楽しい会社が良いと思う。次に、世界を変えられるような会社を良いと思う。そして、自分のやりたいことが出来る会社を良いと思い始める。そこから、哲学的思索や文学、啓蒙的自由や創造性へと興味は変わっていく。最終的には、この世界から離脱して、宗教へと至るかもしれない。作家や芸術家になるかもしれないし、学者になるかもしれない。だが、そこまではまだまだ、そんなにはじまってから数歩も歩いていない。もっと先はいくらでもある。それを経験できる人間は少ない。
人生を生きる上で、さまざまな愛と発見を知るだろう。発見は、それが作り出される原因、生み出される機会や動機から、社会全体の義務と権利を自由へと書き変えていく。自分の思考は、自分を飛び出して人々となり、グループとなり、システムとなり、社会全体となり、価値観から生み出される宇宙と人生の集団となるだろう。
社会の実現性と手段を考えていた。それが実現する、ということは何を意味していて、どのようにすれば実現できるのかを考えていた。自分で出来ることを増やしていった。
子供は、自分でしなければ分からない子供が多い。昔は、子供でも出来るように、どうすれば出来るのかを突き詰めて考えていた。子供の立場に立って、子供にどのようにさせるのか、どうした環境なら子供たちは出来て分かるのか、社会から教育へと還元的に自由と経験と可能性を考えて、そこから豊かな発想をしていた。手段だけではなく、生産性のようなことまで、色んな発想を自由自在にする人間だった。環境を変えるとか、社会や場所的なものだけではなく、その環境をどのようにすれば作り出せるか、どのような自然な価値観が形成され、人々はどのように行動するかなど、現象や創造的な理屈を論理的に考えて分かっていた。
数学的、物理的に正しいということは、正しいことを意味しない。まず、数学が成り立つのは、この宇宙が数学的な法則が成立する環境であるからであって、数の法則が成り立たない世界では、数学は正しくない。また、物理的に観測され説明されるからといって、それはその現象が正しいことを意味していない。その現象が何か間違った結果から生まれたものかもしれないし、いつか物理法則が変わる可能性もある。何より、「その現象が起きた」ことは証明できても、「その現象が起きなかった」ことは証明できない。過去におきた全てのことを、何も起きていないと証明することは出来ない。起きるものしか分からなくなり、普通起きなくても「特別な場合に起きること」を全く無視して考えている。だから、証明や実証が正しくても、「何をどれくらいの範囲で証明するのか」という具体性から、「完全な想定」が出来ない。その時点で、物理も数学も、何も正しくない。
そうなったらどうなるか、そうでなければどうなるかから、可能性を考え、予測し、部分化し、疑い、証明し、また実験し、仮説を考え、検査して、最終的には自分の作った理論のみから推論し、全てのことを「自分が分かっていると確かに証明できる前提から、正しい方法で推論すること」で分かりなさい。それを人生において成立させれば、それがデカルトの言いたかったことだ。
まず、論理を作りなさい。次に、その論理がどこから生まれるのかを考えなさい。次に、その論理がいつ成立するのかを考えなさい。そして、全ての成立事項をその論理へと置き換えなさい。社会、哲学、知性、経験、全てのことを論理の適用から考えなさい。そして、応用と基礎の可能性から、仮説がいつ成立するかを考え、その仮説を実証することで、この世界を解明しなさい。環境、心、原理、認識、自由、平等、全てのことを解明しなさい。その上で、理想の目指すべきカタチを知りなさい。多様性、創造性、共有、それぞれの意志に委ねることを知りなさい。最終的に、経験から高みに立って、この世界のあらゆる実現可能性を理解しなさい。理想と良心から、啓蒙、改革、自由、破壊、そして再生の考え方を知りなさい。最後に、愛を唱えることで世界を変えなさい。あなたは、ここで苦しみから世界を指導する、メシアを経験した。
人々と苦しみを分かち合いなさい。もう十分経験したと思ったなら、自分なりに行動しなさい。行動をたくさん経験することで、社会環境を解決し、変えられるようになる。変えられるようになったら、積極的に善をするようになりなさい。だが、それは上手くいくように見えて、上手くいかないだろう。破壊を猛省したら、全てが再生するまでそれを続けなさい。最終的に、苦しみと経験から、あなたはキリストになって理想の世界を創造するだろう。それは決してたやすいことではなく、そして簡単に王が実現するようなものでもなく、「あなたが自分だけの力で、自由に一人で実現する未来」である。
そろそろ、きちんと書けたはずだ。ここで、ひと段落だ。コーヒーブレークに入ろう。
簡単に問題は解決しないが、失敗しても成功するまで続けるならば、失敗も含めて成功である。自分が世界を滅ぼし、思い通り上手くいくようでいかなくても、それを永遠に続けて楽園と再生の世界を創れば、それも含めて楽園への道である。この世界は滅びるかもしれない。だが、そこに張本人の誰かが居て、その誰かが頑張っている。それが最後の希望であり、人々の望んだ再生の世界である。それは王かもしれないし、イエスかもしれない。天皇かもしれないし、ダビデかもしれないだろう。