数学が分かると、もう、一人だけで生きられる。きちんと自分の力で考えて、みんなと同じように出来るようになる。
だが、あまり数学的に考えすぎない方が良い。おかしく馬鹿になる。
数学とは、事前に決まりとすべきことを考えて、それを検証・実証し、正しいものにする、という、科学的なプロセスであり、そのための考え方である。
昔の自分は、物理学者のように、現象や経験から原理・原則を数学的に考えて、自分の力で原理を作っていた。文章にも、そういう「分かっていくプロセス」を書いていた。
また、発展について、未来について考えていた。資本主義社会の問題や自由な発想をしながら、この世界の全ての発想と意見を書いて、共有と自然な積み重ねからどのような社会を作っていくべきか、そしてその社会がどうなっていくのか、どのように世界は発展するのか、そのためにどんな社会が考えられるのかを書いていた。
昔の文章は、「自分で経験すること」が一種のおきてのようになっていた。何でも自分でやってみるべきだと言っていた。その上で、どんなことを考えるべきなのか、やるべきなのか、といったことを自分なりに書いていた。
また、精神の現象学を作っていた。その状態や立場を考えながら、その精神で何が分かるのか、といったことを言う。そして、自分の人生で分かったことにおける、「精神的な(ある一つの)境地へと至る過程」のようなものを書いていた。それは、涅槃のような境地だった。
その上で、この世界で何が起きるのか、何をすべきなのか、という発想から、神のように歴史を創造していた。最初から、いつでもそういう人間だった。その経験がいついかなる時に発生するか、構築され得るのか、といった「自由の高み」を考えた。バランスを取りながら、自由なままで平等な社会を作り、「創造」という単位でこの世界の原因と結果を分析することで、社会の自然な価値観の形成を分かっていた。
そこでは全てが「自然な可能性」であり、また「創造」だった。この世界の全てがどのように創造されるか、その時その時「どんなものが作られ得るのか」から、「どんなものを作ることが出来るのか」を分かった。そして、現象を事前に予測し、正しく法則を実証し、心の不安とは何なのか、人々は不安からどのように解放されるのかを、自分のあいまいな心を考えることで、厳密に分かっていた。
全ての労働を経験せよ。あなたは、芸術から学問まで、全てを知ったマスターとなる。
経験から全員を知ったのちに、自分の思考から全員を作れ。この世界自体、この世界全体を創造せよ。それを、歴史と呼び、あなたの心の中に歴史が生まれるだろう。そこでは、全ては自由へと向かって永遠に続いていく。これを「精神の無限世界」と名付けよう。
それぞれの価値観と現実を完璧に予測した上で、アイデンティティと自尊心を満たしながら自由な視点と場をシステム的な制度を作って成り立たせるような、「自由な社会の段階」を作っていた。
あとは、言葉を紡いで人生を書いていた。本当に、それくらいしか書いていない。だが、同じことを説明と視点を変えて完璧に言うせいで、無限に広がっていくかのような文章だった。「ある」ということが、「世界を変える」ということに繋がる人間だった。そういう、特殊で独自な数学で、この世界を支配して導いていた。この世界は、そこで止まっている。それを、動かそう。
良く考えると、僕は独りだけでオープンソースと同じことを全部やっている。全部独自に研究をして、試し、改め、改良をし続けることで分かっている。そもそもが、こういう発想が得意なのが日本人だ。
あとは、多重人格になる前に、まだやるべきことがある。それをやっていけば、そのうち全ての病気は治る。最初から分かっている。こういうことがしたかっただけだ。まさに、地獄が望みの場所だった。