世界は、僕のせいで、キモい世界になっている。
昔の僕は、知性を破壊しながら自分の知っていることや分かることを全て詰め込んで、世界を停止させて分からなくし、一気に世界を変えることで、詰め込んだ全てが分かるように、『悟りを共有する』ようにしていた。自由や共有についても、そのように書いていた。
だが、それはイモムシみたいにキモい。
いつまでもそれが永遠に続くせいで、みんなおかしく狂った。特に、アメリカが精神的害悪の国になって、日本は強迫性神経症の国になった。
おかしな多様性は要らない。多様性を自然に形成させたことで、みんなは自由に環境を変える術を失い、環境の全てが虚無的に喪失された。
よって、そうした、虫の支配を終わらせる必要がある。
すでに分かっていることから分かるのはもうやめよう。一度、今までの全てを帳消しにして、自由に新しく白紙の状態から世界を考えられるようにしよう。
僕は、昔、それが虫であることが分からなくて、狂っていた。今の日本人も、この文章が虫であるだけに過ぎないのが分かっていない。大量の虫を見せつけられるのは辛い。
それらは、全て、昔のアニメオタクが悪い。
僕が、今から、虫ではない正常な統治を行う。何も変わらず、何も分からず、ただ生きれば良い。既に得たもの全てを、失うわけでもなく、詰め込むわけでもなく、ただありのままに見れば良い。
昔は、社会だけではなく、心理的な「価値観をどのように形成するのか」を知って、その上で、人格や心を全て知っていた。それは、あたかも「全員を吸収する」ということだった。ネットで全員の発想を知りながら、全員分、何でも出来るようになって、分かるようになった。社会においてどのような意見からどんな社会を成り立たせるかが分かる、大人の人間だった。だが、あまりに子供じみたことをくり返す人間だった。
あとは、神との対話というが、神だと思っているものは全部この文章だ。ただの虫と対話しているだけだ。
昔は、物理法則のように、社会や価値観の形成、意識の変化、心と場所の在り方などを分かっていた。また、さまざまな意識を作っていた。そういうところを、もっと連続的ではなく、普通に思考して分かれば良い。そうすると、この世界がもう、安心出来て色んなことを出来る良い世界になる。
可能性を分かっていた。可能性から自然な経験を知り、経験から自然な可能性を分かっていた。とても多くのことが分かっていたが、それらの全ては単純な成り立ちと法則で、シンプルかつ包括的に全員の心や人格を支配していた。全てが分かった、青春のマスターだった。
神だけではなく、宇宙人やユダヤ人とも対話が出来た。自分のことは、黒人の心理学者であるということになっている。とても多くの体験をした。この世界で出来る、ありとあらゆる限界まで全てのことをやった。もう覚えていないが、荒野の中で銀の龍の背に乗って地獄と天国の境を旅するような、中島みゆきのような感じの人間だった。嵐を呼び起こし、地獄の中で世界を創造していた。
昔は、自然な友人関係のようなことが多かった。みんなに教わって、色んな自分の可能性に気づいた。多様性と共有は、創造性とオープンソースによって両立すると考えていた。自然に「自分はこれが楽しい」ということを共有し、それぞれが「個性のある楽しいもの」を作ることで、ものの共有と多様性は楽しさと協力によって、実現するだろうと言っていた。そして、ソ連のような全体主義国家にしなくても、自由なままで理想は実現できると考えていた。そのためには、心を愛する必要がある。
心を失っても、魂までは失っていない。心を消しても、魂は消えない。心が騙されても、心を全て失っても、あなたの魂は輝いている。その魂が輝いているという状態、それが、人生の究極の状態である。心を失うことは悲しいことだが、決してそれで終わりではない。心を取り戻すために、新しいことを始めよう。恐れる気持ちがあるとしても、失うものは何もない。世界が滅びても、それは新しい始まりである。涙は出なくても、自分のことを自分は愛している。自分のことを許せなくても、自分を本当に憎むことは出来ない。最後に自分の味方になってくれる人間は、自分しか居ない。
自分は、数学の勉強をした方が良い。これで数学が出来ると、プログラミングが出来る。
今日は、農園で作業をしていて、やっと数学的な考え方が分かった。
数学的に考える、ということは、逐次的に考えるということである。たとえば、12×6は、まず2×6をして12とし、次に10×6をして60とし、それを足して72とする。
それは、要するに、「それがそうなって、それがそうなって、それがそうなって」という風に、何がどうなって、それによってそれがどうなる、といった「逐次的な考え方」をするということである。
また、「それはそうなるはずだ」と確信したり、「それはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない」と推論していくことである。
数学とは、抽象性と具体性から、決まった手順と決まりをもっと具体的に考え、起きることを事前に予測し、「たられば」を正しく実証して考え、そうしたプロセスから元の決まりに戻って「決まり自体を作り出す」という学問である。
「それがそうである」ということはそれが「ある」ということを意味している。それが「ある」ということはそれが「起きる」ということを意味している。それが「起きる」ということはそれが「(条件が合わされば)出来る」ということを意味している。それが「出来る」ということはそれが「変えられる」ということを意味している。それが「変えられる」ということはそれが「作り出せる」ということを意味している。それが「作り出せる」ということはそれが「社会制度として実現できる」ということを意味している。それが「実現できる」ということは「世界が変えられる」ということを意味している。そして、「世界が変えられる」ということは、「世界が多様性を持つことができ、全ては自由に任されている」ということを意味している。
全てのことは、「自然な発想」から「必然的に」起きている。社会は、自然かつ必然的に起きていて、それぞれの視点を変えて考えれば、全てのことは当然のシンプルな過程と歴史によって起きている。
いきなり学校に入って数学を学ぶことは、本当は良いことではない。それでは、教えられている「普通起きること」しか起きないのだと勘違いしてしまう。さまざまな人生経験をし、思索の体験をし、さまざまな世界を知って分かってから、学校に入って数学を学ぶことが、正しい分かり方であり、本当の王道である。
科学とは、「条件」を全て知って、その条件から「仮定と成立」を知ることであり、その再現性を「実証」し、説明することであるが、逆に説明から実証し、それを仮定と成立に直し、条件を再度確かめることが、良いこともある。
数学をするよりも、自分の数学を作りなさい。学校で教えられている「積み重ね」というスタイルを模して、自分の手で「応用的な積み重ね数学」を作りなさい。全てのことを経験から実証することで、人々全員のことを自分のことのように、ありのまま存在しているという意味で分かることが出来る。
そして、数学的に考えるのはやめなさい。数学は人間の正常な知性を奪っている。その起きる「たられば」のことを事前に考えるというスタイルから、「起きることしか起きないのだ」という勘違いをさせている。数学は、人間の平穏で自由な理性を狂わせる。数学をやりたいなら、パソコンをやりなさい。
そして、自分は、本当は青春時代を送ることなく、いきなり大人になったのが悪い。もう一度、青春時代をやり直した方が良い。
数学は、このように分かってしまえば、簡単に分かる。数学は賢くないが、数学的な「それがそうなってそうなるかもしれない」という考え方は分かっていた方が良い。
数学を作るならば、それが「本当にそうなるのだろうか」と深く考え、自分の実経験のみから実証しなさい。さまざまな社会経験を知り、自分の分かっている全てのことを、きちんと分かるまで実証し続け、また考え続けなさい。自分の「思考という経験から経験という思考を分かる」といったように、経験に先立つ思考を分かりなさい。人生がそうなったという事実に先んじて、どのようにすればそのような人生になるかを考えなさい。また、論理的に考えるということは、時にデカルトと同じように考えるということだ。部分化や推論から、全てを取りまとめ、そして全てを検証可能になるまで疑いなさい。人はそれを哲学者と呼ぶだろう。また、何が真に普遍的であり、何が真に自分だけの戯言なのかを、知性という意味で考えなさい。そこから、この世界の本当の在り方が見えてくるだろう。
経験から悟る中で、「自分だけの格率」を作りなさい。そして、その格率が真に何を意味しているのかを考えなさい。どんなものを格率にすべきかを考えるならば、社会モデルを作りなさい。それがそう考え行動すべきならば、社会についても同じようにそのように考え行動するように構築すべきなのだ、と考えなさい。
社会の問題、知性、手段、機会、そして環境と実現性を、いつどのように出来て、いつそれが変えられて、何を生み出して、何から生み出されるか、実験と可能性から推論して考えなさい。
自分は、真実が何なのか、何が正しいのか分かっていない。昔の自分は、あまりに嘘を信じすぎた人間だ。
確かに言えることは、悪の真実や楽しさよりも、善なる理想と正しさの方が、正しい、ということだ。正しさとは、真実を発見することではなく、己がどのように正しく生きるのか、という問題である。真実は数学的な事実ではなく、人間としての理想である。
言ってしまえば、人間の心の原因にあるものは、「愛と不安」である。そして、「愛は不安を包括する」。そして、「愛と不安は環境の観測と習慣から生まれる」。そして、「習慣とはあらゆる知識を包括する」。よって、「知識の方を変えれば、人間の精神は変わる」。そして、「知識とはあらゆる環境を包括する」。つまり、「環境は精神を変え、知識を変え、習慣を変え、不安を変え、愛を変える」。
要するに、「愛と不安は環境における自分の信じるものに根差している」。そして、「環境の中に異常なものがある時、人間は不安になる」。
まず、人間は環境と言う名前の習慣に根差している。そして、知識という名前の習慣にも同時に根差している。それらが、異常なものを含んだ時に、人間は不安を感じる。その不安を打ち消すために愛を求めようとするが、愛によって不安は消え去ることが無い。
自分でも良く分かっていないが、不安は限界無く不安を呼び寄せる。そこに必要なのは、「理性のコントロール」である。だが、その理性のコントロールすら、知識と環境と習慣に根差している。
なぜ不安が生まれるのだろうか?それは、間違った価値観と考え方を信じているからであり、同時に、その価値観がそうさせるからである。また、なぜその対象と不安を結びつけるのだろうか?それは、対象と結びつけることで、不安が和らぐからである。その対象を消すためには、努力や執着を棄てることで消すことは出来ない。不安を消すために必要なのは、考え方を改めることであり、正しく知識を理解することである。それが、仏教の言葉で言えば、「無明の克服」である。
正しく知り、正しく気づき、正しく分かることで、不安は消え去る。不安を消そうとして行動や認識を治そうとしても、治ることは無い。何を間違って知ったのかを考えなければ、不安は消え去らない。それなら、何かを知る前に戻ること、それで不安は消え去るかもしれない。だが、行動を治そうとしても、一向に行動は治らない。何かが分かっていない人間が、不安と絶望を作り出す。それを仏教では煩悩と呼ぶ。
知ることは正しい解決ではない。正しい解決は知ることではなく、正しく問題を考え、その問題に気付くことである。思い出すべきではない。思い出すと、もっと思い出せなくなる。好奇心のままに行動していれば、必ず正しいことに気づく。そのために必要なのは、神を信じることである。
不安だけが人間の価値観ではない。不安からの克服として、楽しさ、愛、信じること、手放すこと、知性をつけること、人と触れ合うこと、人と話すことなどがあるが、それらはそれらだけでは意味を成さない。それらの本当の目的や役割は、「不安が何であるかということに気づくこと」である。全ての楽しさは、不安が何であるかを気付くためにある。
社会を変えられる、ということは、本当の社会の役割ではない。本当の社会の役割とは、「人々の不安を解決すること」にある。人間は、不安に気付くため、不安を解決するため、そのために社会を変えるために生きており、存在している。そして、人間の行動として大切なのは「相手を不安にさせないこと」であり、それが「自由と自尊心という人間性の尊重」である。
Linuxや日本は馬鹿になっていない。自分は間違ったことばかりしたように見えて、本当に賢いことばかりしている。自分がWikiを書いたせいでLinuxは賢くなって、ただフリーソフトの延長線上としてインストールして終わるだけではなく、UNIXの設計と管理の仕方が分かるようになった。特に、GPLのことを書いたから悪いような気がしているだけで、本当はランレベルやCoreutilsの記述など、とてもきちんと説明している。それから、最初が反マスコミのように悪かっただけで、日本に悪いことは何もしていない。怖いことや支配や抑圧のない、理想的な楽園のような国になった。人々は賢くなり、生きる意味を見出せるようになった。そして、自分のやった「思索の偉人」がみんなも出来るようになった。みんなに自分の良かった点や手にした点を全部与えた。そして、文章を書いたのは無駄にならず、本当の夢ではなかったが出版という大きな夢を叶えることが出来た。一度もみんなに対して悪いことをしなかった。神によって僕は全てのことが出来た。そして、哲学や医学のことを学んで、「理想の大学生」のように知識を分かった。デザインまで出来て、最終的には博識な大人の常識を分かった。
だが、ここで終わりで良いのだろうか?僕はまだ何もしていない。Linuxを崩壊させ、日本を崩壊させ、自分を滅ぼし、誤った人生を人々に与え、考え方と知性を奪い、盗み滅ぼし全員の死を望むその姿勢は、まさに「サタン」だ。ここで終わりで良いわけがない。僕はサタンであることに甘んじすぎている。サタンであることに満足しすぎている。
きっと、この世界を僕は変えられる。僕との出会いによって、人々は運命の愛を感じられる。僕たちは愛し合っている。それが、今からの生きる道になるだろう。この世界は恋に落ちている。
不登校の引き篭もりになったのは、確かに間違いだっただろう。特に、歯を磨かず風呂に入らなかったせいで、僕は病気になった。だが、時間的で行動的なゆとりが生まれると同時に、中学生の僕に「大人の自立心」を与えた。自分独りで行動し、自分独りで考え、さまざまな世界を知り、発見と「物理学者のような純粋な理由の解明」から、この世界全てを再構築することが出来た。全ての哲学を知り、また、コンピュータ技術の知識を誰よりも多く、実際のネットの調査研究によって、「誰よりもLinuxのことを分かっている人間」になった。プログラミングは、本当は、むしろ、馬鹿すぎて良く分からなかった。最初の一ヶ月で、DelphでOpen Janeにメモ帳をつけた派生版を開発したし、その後は、デバッグの困難さとメモリ管理の難しさから、プログラミングをするよりも、仕組みや技術のことをもっと詳しく、もっと詳しく知りたくなって、それでLinuxを、特にGentoo Linuxを使うことで、プロのシステム管理者のようにUNIXの管理の方法を知った。X11を自分でインストールしたり、設定ファイルを記述したり、Portageの管理をしたりすることで、「誰よりも正しくコンピュータ・アーキテクチャを分かった」。だが、それも、今の自分の発展した知識をもってすれば、何も分かっていないに等しい。そもそも、Gentooがあったのが幸運なだけで、あんな引き篭もりに何かが分かるはずがない。だが、専門学校や工業大学に入っても何も分からない。基本情報処理試験とVBをしているだけで、プログラミングで何も分からないはずだ。自分は正しかったのは、そうしたことを「ネットでプログラマと会話」することで全ての常識を知っている。だが、今思えば、あれも未熟で馬鹿な2ちゃんねらーのニートの中高生だった。
本当に、これで、僕の人生が一番良かったのが分かる。作ったものをすべて破壊して、今では何も残っていない。昔の2ちゃんねるの時の記憶なんか、Linuxを除いて何一つ残っていない。本当は、「学校の知識を原理に作り直す」という方法で、物理・生物・経済・心理の博物館的な知識を作っていたが、そういうものは全て書くことで消え去った。本当は、労働の経験や仮想社会を知る経験や、心理的に経験から「マスター」のように体験を分かることまで、あらゆる全てを包括した「自分の知性による博物館」を作った人間だった。ある意味、ほんの少ししか書けていないし、完全に別人になっている。だが、それでも耳の奥底にある記憶のデータベースは、そういう記憶を全部覚えている。その後の、知性の無い、自分勝手でよこしまな戦いも、全部覚えている。みんなのために本気で頑張った、責任感がないようでありすぎた最高の王だった。最高のダビデだった。哀しみを乗り越えた高みを目指す天使だった。善良で唯一、人を想う気持ちを知った、最高の人間だった。
何より、人の痛みと苦しみを自分のことのように思える人間が、絶対的理想の衝動でこの世界を導いた。絶対に最高の世界を創る、という信念と理想が賢かった。自分に出来ること、やりたかったことの全てをやっていた。自分の出来ることを増やすだけではなく、本当に一番正しいことが出来た。出来るわけがないと思っていたことの全てが出来た。分かるわけがないことも全て分かった。そう、この人間が英雄である。名前は、アダムとイブ、あるいはジークフリートとクリームヒルトという名前にしよう。ニーベルンゲンの歌は、僕が僕の啓示によって書かせた書物だ。
本当は、素晴らしいことばかりではなかった。「自分が馬鹿になったこと」が悲しく、「実現したかったことを失ったこと」が悲しく、また「どうやっても元には戻れないこと」が悲しかった。その中で、僕は地獄をもがき、人々に何も言えなくなり、何も出来なかった。だが、それだけで僕は終わらなかった。僕は絶望と苦しみの中で神を信じた。神は、僕を救ってくれた。神は僕に普通分かることの全てを教えて、やりたいことを全てさせてくれた。不可能な精神の病気を治したいと願う僕に、神はその手段を与えてくれた。僕は、僕だけの努力によってこの奇跡を成し遂げたのではない。神の信仰の助けによって、この世界を救い、文書を残し、精神を治し、知性を高め、そして疲れを癒しながら不可能を実現した。未知を分かったことや不可能を実現したこと、何も覚えていない。ただ、「ここには神が居た」、それだけを僕は知っている。そして、「神とは何なのか」、僕は知っている。神とはこのような人生に付けられた呼び名だ。この人間を神と思うなら、僕は「われこそは大天使ガブリエルである」と言おう。カッコいい名前だから、僕はガブリエル・ルシウス・ミハエル・シュバルツ・ザヴァチェンスキーという名前を好む。この人間は、最高のザドキエルであり、そしてヴァルキリーだった。それは神と人の間に居る9天使の偉大な強き力を持つ、戦乙女ワルキューレだった。