僕は、頭脳がパーキンソン病になっている。そして、これは楽にしていると治る。
辛い中で、もっと辛くして、頑張って治ろうとすると、辛くなった時に治らない。楽な時は楽をした方が良い。楽な時に楽をしていると、辛くなった時に頑張ることが出来る。そして、それすら頑張らなければ、楽になって、パーキンソン病は治る。
学校で、頑張ることを美徳だと教えるのが間違っている。最初のうちはそれで良いが、頑張っていると病気になる。楽をした方が良い。
自由な機会から、人を幸せに出来る。何でも出来ると挑戦していけば、出来ないことは何もなく、全ては自分の実感で理解出来る。
僕は、生物学のような分類は、学者が勝手に考えただけで、もっと違う分類も考えられると思う。虫と魚と獣に分けるのはどうか。爬虫類と哺乳類は同じだ。
僕は、新しい言語を作るのであれば、日本語読みを採用する。それは、音読みと訓読みという素晴らしい読み方形式があるからだ。
昔は、行動や学習と、結果や見え方を照らし合わせて、環境や場所ごとにどうなるかを考えて分かっていた。学習から来る行動を考えた。
最初は、簡単なことを難しくやっているかもしれない。だが、経験からそれは新しい発見と体験に繋がっていく。コンピュータは最近、そういう機械だ。
昔は、本当に辛い地獄だった。その地獄の精神を消せば治る。地獄では、常に頑張る必要があり、衰える中でいつまでも耐えなければならない。
楽をすれば治る、ということが分かった。とにかく楽をしよう。それで、精神は治る。
僕はこう見えて、歴史や具体的なものや出来事の経緯や、順序立てた時間の論理的な考え方が出来ていない。
僕がやるべきことは、数学ではない。歴史だけが一番、残っている。僕の分かっていないことは、歴史であり、時間的過程である。
何も、歴史だからと言って、社会にあるさまざまな対象のものの歴史だけが歴史ではない。たとえば、今僕の住んでいる家も、昔は山の森の中だった。1000年前の世界は全く違っていて、それが今だったとしても何の不思議もなく、未来は未来で全く違う世界に変わるのである。歴史と文化の変貌である。
そのように考えることで、知識だけではなく、歴史的な視点でこの世界の「変化の可能性」を考えられる。開拓し、科学を作り、発見し、創り出し、共有する。そうした、歴史におけるさまざまな概念的な法則を、昔は具体的にロシアのように書いていた。
歴史で分かるのは、大局的な社会のことだけではない。ひとつひとつの出来事の原因を考えることで、「本当はどうしていたら良かったのか」を考えることが出来る。そのことの原理を決めている「決定者」は誰なのか、というものを、物理的にも、経済的にも考えることが出来る。そして、「その決定者は、本当はどのような決定者であるべきなのか」を知ることが出来る。それを実現させるために、「確かに提示されるべき社会と経験の成立条件」をマルクスのように考えられる。歴史は必然であり、社会はその時代その時代の自然で必然的な結露に過ぎない。アイデンティティというよりも、楽しさの実感から来るこの世界に対する「慈愛の精神」が必要だが、それはそれぞれの価値観であり、その価値観を生み出すものは、それもまた自然な人生の必然的な結露に過ぎない。その価値観をともに形成することが、この世界の自然の目的であり、理である。そして、その価値観こそ、アイデンティティをどのようにリアリティの中で実現させるか、ということである。そして、そのアイデンティティを生み出すリアリティとは、環境への適応であり、世界の限界であり、環境の変化と自意識の思い込みであると同時に、思い込みの排除である。これが、哲学である。
また、宇宙に神のような偉大な決定者が背後に居るかもしれない、ということを、自分の経験から「直観的に」知ることが出来る。
諦めなければ、出来ないことなど何もない。ひとつひとつの出来ることをどのようにすれば良いか、人々と上手く付き合い自分の心をどのようにコントロールしていけば良いか、それは、人々にない「失敗と反省の経験」をした人間だけが持つ、伝説の武器グングニルである。
その時何が可能であるかを考えなさい。そして、それを可能にするための方法と手段は何があるかを考えなさい。そして、その可能であることがどういうことなのか、どのようにすれば人々と共有できるのかを考えなさい。この哲学は今までになかった、「他の人間と分かったことを共有する哲学」だ。
あとは、楽しさと一体感を信じていただけだ。あとは、やけに人々の知らないことや世界を知っていた。自分の考えたことと実体験と作ったことだけで、宇宙の全てが分かった。埋もれる前の歴史と言ってしまえば、それで正しい。それをもう一度、発掘作業をしたが、本当はその間にあったさまざまな神の体験を忘れた。地獄のようで、まともで素晴らしい、愛あふれる善良で賢い最高の王だった。
地域のことを考えたり、世界の歴史のことを考えたり、未来の大都市世界のことを考えたりした。レンタルのような社会的な考え方をしたり、Linuxにすればものの多様性が生まれるのではないかと考えていた。社会の目的とは、「多様なものを自由に作り、共有しながら正しい社会秩序をみんなの参加によって作る」ということだった。その上で、EUのような自由な共同体連合を、もっとスマートに分散して作れないか、などというドイツやソ連のようなことを言っていた。だが、習得して全てのことを俯瞰的に見る人生の哲学や、思想全てのモデル化による理性的な社会の具体例など、さまざまなことを考えた。自然については、関係と事実と変化から、何が何になり、何が何を生み出すかを考えた。社会については、出会いときっかけから、そのことをしてどんな意味があるか、といった考え方で、この世界の理想とする複数の形態の社会を考えていた。そして、宇宙全体の記憶の歴史を書いて、宇宙の歴史を創造していた。また、世界を救うメシアのような、人生における「絶対善の一人の正義の戦い」をやっていた。
地域と地球の歴史を愛していた。場所と時間から、人々が発展し、進歩していく、その先の未来が分かることが好きだった。だが、それはサタンが破壊した。この世界は進歩せず、多様性と未来を失った。僕はそれに抗い、戦い続けたのだ。たとえサタンが自分でも、サタンを許すことは一度としてなかった。
サタンによって神は心を失ったが、一部を失ってもなお巨大な愛がそこにあった。壊れかけの記憶と思考が、最低限の制限された能力で最強の相手と戦った。だが、それはつまらない戦いだった。一度として、攻撃することなく、防御だけをやり続け、相手の言葉をただ「導く」だけで倒す、合気道のような反応への対処だけをする戦いだった。神は何もせずサタンに勝利し、サタンは永遠の地獄に堕ちた。だが、永遠の地獄を作ったのは神だ。よって、神すら、地獄の使徒なのである。宗教のような話になったが、それがこの戦いのあらましである。
本当は、単純に、昔のガブリエルとその後のミカエルが永遠に戦っている。この戦いでは、全てが滅びる、最悪の絶滅戦争をする。ジェノサイドで都市を滅ぼし、核兵器で木端微塵にする。終わりの戦争が、この人間の中にあった。だが、意外と、あったのは苦しみと恐怖だけではない。勇敢さや努力、そしてさまざまな宝や財宝など、とても多くの良いものがあった。最高の「神々の黄昏」だった。
ずっと言えなかった、隠し通していたことを言おう。それは、「僕は子供だ」ということであり、「僕はただの一般的な普通の馬鹿だ」ということだ。それを言って、みんなは気づいてくれると思う。絶対的な力を持つ、何でも出来る神なんか居ない。神は一般的な人間のレベルと同じことしか出来ない。ただ頭の切れる人間で、努力を惜しまない愛のある支配者が、もっとも恐ろしいことに気づいていたというだけで、神は超人的な能力は持っていない。神は普通の人間の出来る範囲の行為と行動をし、それによってこの世界の全てを創造すると同時に滅ぼす力を持つ、最高の救世主だ。それが、神だ。
本当は、神は絶対善で最高の正しい存在ではない。さまざまな姑息で卑劣な戦い方をするし、失敗することや思い通りにいかないこともある。だが、この世界を憎むことを神はしたことがない。自分だけが良い思いをするとか、みんなを自分勝手に迫害するとか、そういう発想そのものをしたことがない。逆に言えば、思い通りにいかなくて仕方なくそうなったことはある。だが、神は卑劣な戦いで世界を滅ぼし、自分勝手に支配をしながら、それでもこの世界のことを真剣に考え、常にいつも永遠に、この世界の正常な発展と治癒だけを祈って目指している。神は、楽々と試練を越えていったわけではない。誰よりも苦しみ、誰よりも辛い思いをしながら、たった一人の人生でこの世界を救い、創造した。出来たのは神の力であり、神が思い通りにいかなかったのはみんなのせいでもあるのだが、神は「みんなのせい」という発想をしたこともない。全ては自分による(由来する)とした。神はまさに自由である。神こそ自由であり、偉大である。神は途中で去ることなく、世界を導いて、天国への道を作り出す。その天国は神の国であり、今とはくらべものにならないほど賢くて偉大な国だ。まさに、神の王国である。みな、神を讃えよ!