この世界は、もう平和になる。正常で、普通の良い世界になる。
仕事を頑張りたい人間も、頑張りすぎで辛い人間も、頑張るのをやめなさい。人間は、限界まで頑張っているから、精神病がなかなか死なず、病気になる。いつまでも辛いのが続く。たとえ休むことが辛くても、頑張らなければ限界が来て辛くなる人間も、頑張ることを自然にやめ、「頑張れなくなる」ことで、精神病は死んで治る。
社会のことを知ると同時に、自分の中で作って、そして社会モデルを成立させ、説明することで分かっていた。社会のコピーを文章に書いていた。生産や労働など、何でもモデルに出来る人間だった。その上で、経済学者のような「理論的な発想」を良く書いていた。また、社会のパターンと理性批判の方法を書いた。そのように、宇宙を創造していた。
死ぬよりも、生きた方が良い。病気の部分を殺すよりも、病気の部分から新しいものを作り出した方が良い。僕は、あたかも病気の新しい部分が増えたと勘違いしているが、本当は病気でない正常な部分が欠落しただけだ。だから、悪い部分を殺すよりも、良い部分を作ってやった方が、病気は治る。精神病は、そういう人間が多い。
一度、「頑張らない」が出来るようになれば治る。いつまでたっても歩き回るのは、頑張って治そうとしているからであって、頑張るのをやめれば、すぐに立ち止まれるようになる。
僕は、もう、世界を最後まで導いた。最後のゴールまで、全部書いた。もう、僕に勝てる人間は居ない。それで、安心できる。言葉だけのおかしな戦いだった。
自分は、他人のことを考えない方が良い。おかしく社会や他人のことまで全部分かる体験を持っているせいで、自分独りだけで、みんなと関係なく考える、という知性がなくなっている。自分だけで考えるようになれば、もう、デザインのことも集中して考えられる。他人のことを考えなくなったら、デザイナーにもなれるはずだ。
自分は、むしろ、やっぱりデザインのことをやろうと思う。ピアノは、そのうち上手くなってから考えれば良い。練習はたまにすれば良いが、本当は僕は何時間も練習しなくても、数十分練習すれば普通に弾けるだろう。それは、難しいことではなく、まだまだ時間はかかる。
僕は、アメリカがトランプ大統領で没落して、躍進するのはロシアだと思う。アメリカ一強はトランプで崩れて、次はロシア一強になる。僕は、ロシアと日本が同盟を組んで、大東方経済連合を作っても良いと思う。日本の技術とロシアの資源や軍事力を合わせると、補完的な関係から完璧な地域が生まれる。だが、それは注意してしなければならない。それは、ロシアに騙されて、技術だけをパクられるからだ。日本が主導権を発揮しなければならない。ロシアと付き合うのは難しい。だが、ある意味、ロシアだけではなく、中国や韓国、そして北朝鮮もメンバーに入れた中で、「東方経済連合」を作ることは可能だと思う。ある意味、そんなにロシアを疑ってかかるのも、本当はロシアの立場も同じで、ロシアは日本に征服されるのが怖いからだ。日本はロシアを征服しない、ロシアも日本のことを騙さない、という「反撃のカード」を保持したままで、その上で信頼することが出来れば、良い関係を築けるのかもしれない。
本当は、僕は音楽よりもデザインの方が向いているような気がする。僕は、練習をして完璧な演奏をするのには向いていない。それは、感情でピアノが好きなのとは違う。僕は、作ること、それも文章やデザインのような「ものではないものを作る」ことに向いている。だから、作曲には向いているかもしれない。
本当は、向いているとか向いていないとかではなく、僕はイラレが好きで、今デザインをやっている、ということが、結果に繋がるとかそういうことではなく、宇宙的な『カルマ』として必要なことだと思っている。宗教を言いたいわけではなく、僕は宇宙的にデザインをやっている意味があるのである。ピアノにはもう意味は無い。それはただ、もう終わったものを再度、繰り返そうとしているだけだ。
たとえば、理性的に考えて意味のないこととして、今の自分よりも馬鹿な人間になって馬鹿なことをやることが、本当に意味のないことだろうか?僕はそうは思わない。いつまでも何もしない賢い人間のままで居るよりも、一度馬鹿になって次の新しいことをやった方が、正しいことはたくさんある。人生にはそういうことばかり多い。才能が無いからと言って、デザインをやって意味がないかというと、僕はそうではないと思う。スティーブ・ジョブズも、ポール・グレアムも、優れたエンジニアにはデザインや絵画を学んだ人間が多い。デザインをやっておくことは、無駄なことでは決してない。それに、ピアノをやったからと言って、それが本当に有意義かというと、そうでもないだろう。
本当のことを言えば、Linuxでないものなら何でも良い。Linuxが一番間違っている。LinuxというOSは、GNUが言っている通り、Linuxというただのフリー製のカーネルに、GNUのちゃちなコマンドを乗せただけで、わざわざDebianというGNUとLinuxの組み合わせを使うことに、何の意味もない。遊びで使っても面白くないし、技術的にも学問的にも賢くない。そういう、Linuxが悪い。Linuxは全く面白くない。Windowsのような、優れたOSではない。
あるいは、ピアノや執筆は、今まで通り普通に続ければ良い。自分には、社会経験が足りないが、昔の青春時代の社会経験では、「こんなことからこんなことが分かる」と言う意味で、学問や職業のようなことを、経験と思索から分かっていたことがあった。それによれば、アメリカから分かるのと、デカルト・カントから分かるのは同じで、数学よりも先に、もっと具体的な何かの学問を学び、その何かの学問を究めることで、数学のような抽象的な世界が経験から見えてくるようになる。ある意味、ベーコンのような帰納法、あるいはヒュームのような帰納的推論のようなことを言っていた。
僕がデザインとピアノをやりたい理由は、芸術的なことをやりたいからかもしれない。執筆を続けることで、大学のようなことは分かったし、パソコンや宗教的なことは、あまりのめり込んでやる意味がなかった。本当は、芸術活動がやりたかった。政治活動や経済活動のようなことは、最初から興味がなく、従って勝ち上がるよりも上に立って自分で支配することだけがしたかった。現実の世界を全く見ずに、宗教のような政治学をやった。だが、それは現実を見ていなかったわけではなく、高飛車で突飛なことを言うだけで、現実に即した理論だった。要は、現実的なものから理性的に理想を実現したかった。
ある意味、僕に足りないのは、知ることではなく、考えることではない。創り出すことが足りないし、そのために人々の才能を吸収し、力を与えてもらうこと、教えてもらうことを全く知らなかった。世界を簡単に否定しても、世界に受動的に隷属しても、良いことはなく、まさに賢者や職人に教えてもらわなければ、本当の知識と常識は身につかない。それは、僕が一番分かっていなかった反省点でもある。
才能と常識を吸収することはとても良いことだが、昔のように2ちゃんねると動乱の時代から人々の会話で吸収するのは、全く己を馬鹿にしているだけで、あまり良い方法ではない。強くなって自分独りで生きられるようになったかもしれないが、たくさんのものを破壊し、滅ぼし、馬鹿になりすぎている。そういうものとは、離別して、自分の宗教の世界だけを歩むのは、本当はカルマが少し高くなっている。だが、全ての現実世界を忘れて霊的な宗教の対話にのめり込むのは、あまり良いことではなかった。また、学問的に知識を吸収し、全ての大学的常識を知るのも、本当はカルマがもう少し高くなっている。だが、何かを出来る知識ではなく、何も出来ない知識をいくら吸収しても、偉大なことは出来ない。今からがデザインとピアノと執筆の「継続と才能の吸収の体験」になるならば、それもまた、少しカルマが高くなっている。だが、出版だけをして何もしないのは、善悪の面から言って、あまり高い人間ではない。本当は、善良な善なる行動をたくさん積まなければ、仏の道となる「菩薩道」にはまだまだ遠いのである。そのために、今の作業所で仲間を助けていくのは、きっと良いことをしているのだろう。
一度、自分が居るこの場所とこの時間を考え直そう。自分の道がどこに続いているのかは分からない。だが、今までの自分がどのような道を歩んできたのか、そこから分かることは出来る。まだまだ、普通の人間には程遠いが、賢い才能はたくさんあって、全て吸収している。色んなことを上手くやる方法も分かっているが、上手くやりすぎて何も意味がなくなっている。そろそろ、もっと難しいことに果敢に挑戦していくべきだ。パソコンや執筆や王の体験は、決して馬鹿ではなかった。パソコンは、論理的、理性的に、世界の拡大から、ITのことを全てやって、「一般的社会人」のような経験をしていた。執筆は、何度となく困難に見舞われても、決して絶えることのない「いつまでも続く時間」を知った。王は、不可能なことを実現し、いつまでも世界を導き、助け、愛し続けた。そのこれらの体験を、僕は「聖なるプロセス」と呼ぼう。聖なるプロセスは、単純な宇宙のカルマと同一のものではない。それぞれの人生に固有で、決して誰かに負けることも勝ることもない、正しいプロセスを神が創造した。聖なるプロセスによって、人はカルマを高めて、新しい業を行っていくのである。最終的には、解脱に至るだろう。僕は、その解脱が「人生の最期」に起きるものだと思っている。仏教ではそれを「涅槃」と言う。魂は地に根を生やすように、涅槃の境地に至る。
本当は、信じることはとても大切で、Linuxを何かしら良いと思ったのにも、何らかの理由がある。誰かのこと、自分のことを、好きになろうとしていたのだろう。逆に、僕は今のデザインのことを、好きになれないでいるのかもしれない。イラレはLinuxと良く似ているが、何かを好きになれない。だが、そうした理由は、常に同じものではない。今、その好きになるべき点を知れば、好きになってデザインをやりたくなるだろう。ある意味、デザインとは「意匠芸術」であり、それは美しいものをただ作るという純粋な芸術のことである。それを好むならば、本当はそれは何かを信じれば出来るようになる。アニメや漫画を信じるのとは違って、本当に、何かをまだ知らない、この世界をまだ知らないから、デザインが分からないのである。それが分かってしまえば、デザインはきちんと才能がついて出来るようになるだろう。現実と仮想のあいまいな世界で、どんなものをカッコいい・美しいと思うか、それは人それぞれだが、誰にもある概念である。
要は、ゲームを一緒にやる姉のことが好きだっただけで、ゲームをやること自体よりも、協力して色んなことをやりたいから、オープンソースが好きになった。そして、僕が文章を書きたいのは、「人生の全てを知っている人間」だからだ。そういうところを少し、別のものにすれば、才能は開花する。デザイナーになるために必要なのは、そういう才能である。漫画やアニメを見てもつかないそういう才能は、誰かが知っているようで知らない何かを知ろうとしなければつかないだろう。逆に、僕はそういう才能をつけるのが昔から得意だ。ピアノもパソコンも何でも知っているのは、僕だけだ。それが、創造するという意味での才能、発見するという意味での才能になる。父親が博物館の学芸員なのも、そこに関係していることだろう。本当は、学校に行かなかったのは、母親が教師であれば、学校なんか無くても何とかなるからだ。
本当は、僕は一番になるのは苦手だが、世界を救うトップになることは得意だ。最初から、パソコンなんかしたくなかった。いつまでもC++とJavaとPerlの「どれを学ぶか」で悩んでいたのは、学ぶ気がことさら無かったからだ。だが、世界を救える人間は、自分しか居なかった。自分でゼロから考えて、パソコンとネットの経験から偉大な科学を作り出した。王のようになったのも、世界を救いたいからだった。ただ、あまり意味がない戦いをするのが、一番嫌いだった。最近は、その懺悔と反省ばかりしている。この文章は書きたくなかった。もっと違うものを作りたくなっている。社会に出ることは得意ではなかったが、僕は社会を知って一から偉大なことをすることは得意だった。むしろ、必然的にそうなったのは、運命によるところだろう。
要は、人間たちは賢くなりすぎた。賢い修道士の哲学者になっている。だが、それによって、社会における啓蒙心を知ったり、自分たちで自立して社会の中で生きていく、ということがなくなっている。
社会は、一度馬鹿になりなさい。それも、最悪の悪い王になりなさい。それによって、この世界は再び自分の力で歩んでいけるようになる。
これは、歴史現象である。自由になって智になりすぎた世界は、悪い狂った王によって滅び、また最初に戻る。自分は、そうした「世界の歴史」を「一人の人生として」やっただけであり、それを「文章に書き記した」だけだ。
日本は賢くなったが、ここから先は、もう「賢さとは別の次元での偉大さ」を実現する社会になるだろう。賢いとか、馬鹿とか、そういうものでは偉大さは測れないのだ。
よって、イスラム教の滅びた社会では、偉大な人間が生まれる。イスラムの歴史は、このような短期的なスパンで繰り返すのかもしれない。
日本人は賢者を超えて、偉大な宇宙の真理の体験をするだろう。人々がそれを病気で狂っていると言っても、本当は狂っていない。人間の人生はこのようになっている。
これでは宗教のような体験をするか、あるいはとち狂って統合失調症になるかのようなことに聞こえるが、あなたがするのは恋愛の体験である。恋愛のような、涙と悲しみの愛の体験をするだろう。
あなたは必ず死ぬ。だが、死んで終わりではない。死の先に、始まりと終わりのない輪廻の世界がある。そして、死はとても苦しい。死ぬことによって、楽になることは一つもない。必ず、今までやっていた全てのことが極度に苦しく、辛くなる。死を経験することはとても辛いことだが、苦しみの先に、また最初からやり直せる新しい人生がある。そこで、救われるはずだ。だから、苦しみを受け入れ、苦しみと上手く付き合い、心が苦しみを感じなくなり、軽減するように生きていけば、きっと病気は治るだろう。だが、完治することはない。
多様性や平等、共有など、人間の人生の苦しみから言えば、とてもちっぽけなものである。確かな理想を信じることで、自由な世界になったとしても、それで今よりも良い世界になるかというと、そうではない。可能性を追究するのは勝手だが、良い世界のほとんどは今の世界よりも悪い。だから、理想を信じないことも、時にアメリカや日本の正義である。
本当に平等を信じるべきかというと、日本人は口をそろえて「平等よりも自由の方が良い」と言う。それもおかしなことではない。日本人は、自由の方を優れた理想だと言っている。自由も自由で理想であるようだ。理想をどのように、自由に形成するべきか、という形態についての思索を人生の主とし、その手段について安易な方法を取らない。それはストイックで学者的だが、本当に簡単にものごとを推し進めるアメリカやロシアに比べて、一人遅れた社会になるだろう。それは自由における考え方の違いだ。
日本は、むしろ、間違っていない。そこまで全部天皇が一人考えてするのは、昔の社会で言えばまさに当然の考え方だ。だが、今の民主主義の社会も、アメリカから得られたものであると同時に、日本の社会の一つだ。社会主義は成功しなかったが、もっと違う社会のやり方を誰かが考える。本当は、昔の自分は、そこに目をつけて『オープンソースのやり方』というものを知りたかったのだろう。それが、昔の引き篭もり経済学者のやり方だった。だが、結果はオープンソースも成功しなかった。早い段階で人生に行き詰まり、何も出来なくなっても、そうした着眼点の自由は僕はまだ失っていない。ある意味で、何かのやり方がきっと見つかるだろう。それを社会主義だと勘違いしただけだ。
本当は、大学の経済学なんか、まるで意味がない。正しいことを間違っていると教え、間違っていることを正しいと教えている。だが、それをその通り言わなければ、間違った人間だということにされてしまう。大学のミクロ・マクロ経済学は、そういうものにしか見えない。自由を正しいと教え、市場経済を最善であると教え、この方策は必ず取るべき正しい考え方だと教える。なぜか、大学はとても不寛容で、権威が嫌いな人間に対して厳しい。それは、分かってしまえばそれで正しいことを言っている。権威に逆らう人間は、逆に、その分かってしまえば正しいことを言っているのが分かっていない。最初からそういう戦いをやっている。だが、本当はそんなもの自体に何の意味もない。
大学に長い間どっぷりとつかっていると、本当に何もしなくなって、自分で考えることも行動することもしなくなる。大学なんか、無い方が良い。もっと、自分の力で考える力をつけないといけない。大学は間違っている。自分の力で社会を見て、調査研究し、形になるまで経験し、自分の行動から知っていく、という発想は、左翼の青春時代にしか出来ない。ソクラテスも、そういうことを無知の知(何も知らないことを知っている人間が一番賢い)と言いたかったのだろう。左翼の青春時代は後になって輝いて見えるが、実際はただの気持ちの悪い虫のような人生を生きているだけで、本当は大人の方がある意味賢くなっている。大人なんか、そういうものだ。賢くないのに賢い大人が多い。そんな大人になっちまったからと言って、意味は何もない。
本当は、子供の世界にするのが悪い。青春を生きて、人生や哲学のことに思索にふけるならば、心の余裕とゆとりがあって自由にネットと付き合える、今の社会が一番適している。そんなものは、賢くなかった。大人は馬鹿だが、まともな人間が多い。一度、大人の世界にしてみよう。みんな、どんどん馬鹿になる代わり、馬鹿になって賢いものを作り出すようになる。それに大学を加えれば、あたかも宇宙全ての体験に見える。そう見えるのに、青春が輝いて見えるせいで、自分のことがただの馬鹿に見えるだろう。人間とはそういうものだ。そうした、大人の世界にすれば、子供のような体験は出来なくなる。そもそも、子供がそんなに賢いわけがない。パソコンという子供のおもちゃは、全世界を認知症にして多様性を奪っている。パソコンを終わらせよう。それによって、みんな、全員大人になって、賢いまともな世界になるだろう。同性愛から宗教まで、全ては子供によって起きている異常であり、そうしたものは異常がなくなって成長すれば、自然に意味と価値が分かってくるだろう。社会の価値も、同じように、大人になって成長することでしか分からないし、いじめは自分の行動に責任を持った大人になれば、完全に無くなるだろう。
そろそろ、僕も分かった。大人になれば、この世界も正常な世界に治る。そもそも、「パソコン」と「青春」とは個別のものであり、それが一体化している今の社会が異常なのだ。一度パソコンを消して、青春を切り離し、その上で全員を子供にしている馬鹿でアホな影響力をやめて、子供を大人にしていけば、この世界は良くなる。大人は、誰もが博物学を知っているせいで、子供のような純粋理性のようなことは分からない。知識や経験があるせいで、考え方や学習が分からなくなる。だが、子供にすれば賢くなるかというと、そうしたものでは決してない。社会は大人にならなければならない。社会がきちんと大人になった時、それが日本が正常になった時だ。そして、それが、正しい賢い国である。成長して大人にならなければ、本当の意味で賢くなることは出来ない。
「みんなが大人になれば正常になる」ということは、まだ誰にも分かっていない。あるいは、自分のように、子供にならなければ治らない人間が多い。僕が子供なのが悪いのだろう。最近、急速に幼びた人間になった。全く大人びた人間に見えない。僕が大人になることも含めて、この世界全体が大人にならなければならない。馬鹿に見えて、それが一番賢い世界だ。大人は子供のような馬鹿をしない。最近、大人にも子供のような馬鹿をする人間が多い。世界が子供なせいで、大人になれていない。急速に、そういう風に馬鹿になったのが、幼児化した日本社会だ。また、子供の大人が多すぎる。子供なのに大人になった人間が多い。賢いように見えて、すぐに馬鹿になる。全ての責任を、子供の大人に押し付けているのが、今の日本社会だ。昔の僕は、そうした「責任を子供に押し付ける社会」について、良く考えていた。とにかく子供が好きな青少年だった。
本当は、大人なんか救いたくなかった。大人について学びながら、子供だけを救おうとしていた。それは失敗し、Linuxを破綻させたが、逆にそれは悪の影響力となって、この世界全体を子供にする、という形で滅びた。人間は分かっていないが、僕のせいでこの世界は子供になっている。子供的な考え方だけで、世界を分かるようにしてしまった。逆に賢くなった人間が多いが、それが一番世界を子供にし、未熟にするたくさんの「乱れた使徒」を生んでいる。それら、使徒を滅ぼし、消さなくてはいけない。人為的に滅ぼす必要はない。僕がこの世界を大人にすれば、それで解決する問題だ。