たとえ完全には治らないとしても、もっと楽になろうとすれば、病気は楽になる。
治すことを全力で試すよりも、楽になろうとした方が良い。
新しい、楽な精神を作れば治る。
「自分が何をしたいのか」を考えて、「そのしたいことがどうすれば出来るのか」を考えなさい。そこから、「今までにない経験をする」ことで「人々は何をすべきなのか」と「何が出来れば何が出来るのか」が分かる。他人にはない経験をしなさい。
治すよりも、自分の心と精神を楽にすることで、精神病は治る。それは、自分だけではなく、世界の人々についても言える。
ある意味、世界は多様性を失ったというよりは、オープンソースが出来なくなった。だから、Twitterのままで止まっている。Twitterはある意味、僕の昔やっていたネットゲームや2ちゃんねるのチャットだ。だから、オープンソースやLinuxのことが出来るようになれば、この世界は正常に進歩するようになる。
本当は、多様性は大切ではない。競う楽しさや勝つ喜び、支配する面白さや知る興味深さなど、「右翼的な楽しさ」を取り戻せば、すぐにこの世界は正常になる。
怒りを鎮めてほしい。この世界は、もう正常に治る。あなたは神を信じることで、特別に許された権利と自由を神から受け賜わるだろう。そして、この世界は王の戦いによって、あなたに支配される。あなたは最大限の努力と協力を持って、この世界を導くだろう。もちろん、あなたのやりたいようにやれば良い。それが、魔王への怒りに対する正しい反応である。
昨日はとても良く寝た。16時間は寝ていた。だが、それによって疲れが取れた。病気はそれで治る。寝て休む以外、治る方法は無い。だが、出来るだけ薬は飲まない方が良い。飲むと、頑張れる代わり、疲れる。だが、この文章はその通り薬のおかげで書けた文章だ。
最近、少しずつやっていることが実ってきている。まだまだ未熟だが、デザインは一通りやり方が分かった。あとは、もっと細部まできちんと綺麗に考えられたデザインがしたい。イラレの基本をもう一度学び直したいと思っている。また、今日はピアノもある。ピアノはやり方が分かってきた。ただ鍵盤を押すだけではなく、弾く前に楽譜のメロディを読んだ方が良い。
目的と意図の実現をきちんと考えれば、社会のこと全てが分かる。可能性と自然を分かった上で、発想がどこから生まれるかを考えられる。決まりを仮定と結論から考えることで、人々の協力の在り方が見えてくる。そこから、独自のマルクスのような経済学を構築できるだろう。建設的に、慎重に、かつ時に大胆に考えることで、経済は自分の頭だけで考えることが出来る。生産における条件と手段を考えると良いだろう。マルクスは共有といったが、共有よりも自由の方が正しいことはある。金儲けは、時に最も合理的で、最も幸せな社会の形態だ。
何もあてがないならば、良く思い出して、希望を信じて、そしてネット社会の体験を見ながら考えると良いだろう。だが、ネットを信じすぎるのは良くない。既に人生を生きている先輩たちの言っていることを聞いて、自分なりに色んなことをやると良い。前提条件は、自分の思考を再考し、再構築することから見えてくるだろう。社会の全ては、自分の力だけで創造できるようになるだろう。楽しさを忘れないようにしなさい。パソコンやITの根本にあるものは、創造することや発見すること、実現することや協力することの楽しさだからだ。ネットワークで繋がった人々と、自由自在に楽しみなさい。
僕が行き着いたのは、アイデンティティと価値観の共有、そして自尊心と抑圧へ対抗する心の実現だが、あなたが行き着くものは違うかもしれない。あまり、僕と同じものを目指さない方が良い。あなたはあなたの発想を行うべきだ。僕がやることは、最終的には自分の考え方を全て書ききることであって、決してあなたをロボットにしたいわけではない。それを、覚えていてほしい。あなたには、あなた独自の社会経済学・心理学を作ってほしい。そして、それが哲学として書かれるか、あるいは別の形で努力が実れば、僕も純粋な気持ちで喜べるだろう。
昔、行き着いたのは、「自然に発生するこの社会の環境で、ありのままに社会の価値が創造されるのを喜ぶこと」だった。
足は、そろそろ、むしろ、治さない方が良い。もう、疲れを取るために疲れている部分を、ただ感じなくなってしまえば、それで楽になる。これ以上、精神は治らない。逆に、治さないことにも意味はある。辛いのは、辛い理由があるから辛くなっている。「辛い」と感じるのは良いが、それを治そうとしない方が良い。治すことが、かえって逆に辛くなっている。だから、絶対に治そうとするのではなく、治すのをやめて、精神を楽にした方が良い。治すよりも楽になるのを選択することで、逆に心が休まって辛いことが辛くなくなるだろう。完全に治そうとするから、恐怖と苦しみが増えている。
そもそも、精神が完全に治るわけがない。悪人だったせいで、悪人にならないと治らない。むしろ、僕は最近善人になった。だから、悪人になるよりも悪人を本当に消した方が治る。そのまま、もう分かって治すのをやめれば良い。人間は、分かっただけでは治らない。本当に善をすれば治るだろう。頭で考えていても、仕方ない。
昔は、「創造性と体験することの喜びを信じなさい」、と言っていた。だが、僕は今、言う。「勇気を出して、上に立ちなさい」と。創造性と支配は同時に成り立つ。そして、もう一つ言う。それは、「戦ってはならない」と。それで終わりだ。人間は、戦うと馬鹿になる。どんなに甘美な体験が出来るとしても、戦ってはならない。それを、全てを滅ぼし消し去るこの戦いの教訓としよう。
相手よりも先んじて、こちらから戦いを終わらせなさい。また、どんなに強くなれる可能性があっても、相手との共存を選びなさい。それが、国としての善である。個人としての善は、「相手の得た愛を喜ぶこと」であり、それは「恋人のように相手のことを喜ぶこと」になる。だが、恋人では十分ではない。相手を喜ぶ、という意味での自由が、全世界、全員、全人類に対して、最大限の努力で行われる、そうした「王としての喜び」を発揮することで、神のような「最も高い精神性」へと到達出来るだろう。
それを社会に適用すれば、「多様性のために社会を構築する」となる。だが、そこであるのは、「それぞれが自然に社会を形成し、作ること」であり、決して独裁者が一人だけの自己満足で社会を作ることは、幸福ではない。その理由で、この世界は滅びた。一人の支配者が全てを努力して解決するのは、全く間違っている。だが、僕はまともだ。
みんなで社会を作ろう。きちんと考えて、公開された中で、視野を広げて人生と社会の改善策を考えよう。支配者は必要ない。支配者の努力による達成と実現は、僕が去ることで、終わりを告げるだろう。
みんなで、それぞれの自由に社会を形成しなさい。社会を自由にするか、平等にするかを選びなさい。僕に頼ってはいけない。僕に頼らず、自分の力だけで、だが一人の独裁者になるのではなく、みんなとの協調の下に世界を発展させ、進歩させなさい。そして、それぞれが築く、という意味で、制度と社会秩序を作っていきなさい。僕は、昔からそうした信念の持ち主だ。僕は、オープンソース工場にすると言うが、本当はオープンソースにする必要はない。もっと、オープンソースの自由以外の自由の発想をすれば良いだろう。同じようなものに、社会主義やエスペラントなどがあるが、そうしたものでは社会は良くならないだろう。現実を見て、自分の力で考える主体性を持ちなさい。周りに合わせるのではなく、周りを自分に合わせていく、その最初の一歩を勇敢に踏み出しなさい。
自分の力を信じなさい。社会を知り経験する中で、自分だけの持つ力を養いなさい。人々がなぜ分からないのか、人々の延長線上の立場に立って、人々が分かるように理解しなさい。別れが悲しくても、意味のない別れなど存在しない。別れることには意味がある。だから、別れたことから、自分の人生を見つめ直し、未来を考えなさい。思考と感受性の法則に従えば、人間は「別れ」すら「未来への道」へと変えることが出来る。ここは、笑うポイントだ。なぜなら、僕はここで別れても良いからだ。さようなら。また明日会おう。
あとは、適当に自分の言葉で説明している文章が多かった。決していい加減ではなく、完璧だったが、歴史など何も勉強せずに、自由と社会的過程の心理学的な歴史と、自分の人生の機械的な過程を書く。それによって世界を支配していた。完全に、自分の独自に歴史と精神と人生を分かりながら、この世界の精神的な歴史と社会の過程を構築し、宇宙における「道」を創造していた。その道は道教のように、決して言葉で説明出来るものではなく、生きること、体験することでしか、同じことは理解できない文章だった。だが、その実現不可能な夢である「自分の人生で分かったことを全部与える」ということを、「テレビとアメリカに向かって書くこと」で実現しようとしていた。今思うと、何かが気持ち悪い。ウジのような悪い文章だった。世界を滅ぼす、最悪の革命家のサタンだった。それをみんなで否定すれば、もう、この世界の希望は既に誕生している。あとは、人々が気付くだけだ。僕はもう何もしない。この人間は、最期にやり終えて、愛して見守ることすら終わった人間だ。ありがとう。そして、さようなら。
昔は、場と価値観の自然な形成に、喜びを感じていた。みんなの場を変えられることが好きで、それ以上は時間を考えて、そのままの時間がそこに流れていることから、自由を見出していた。ヘーゲル的に言うのならば、「事そのもの」であり、それは同時に良心であり、主観と客観を超越した絶対知の宇宙認識だった。
ピアノに行ってきた。
僕は、もっとピアノのことをメインにやりたいと思う。なんとなく、もっとたくさん弾けば上手くなるような気がする。あるいは、ピアノだけが上手くない割に、出来ている。
ピアノの回数をもっと増やしても良いかもしれない。
僕は音楽が好きだし、ピアノは僕のアイデンティティの一つだと思う。最近は、デザインとピアノと音楽と英会話ぐらいをやっているが、僕は英会話が嫌いだから、英会話教室に行くのを削っても良いような気がする。
出来ることなら、ピアノは今デザインをやっているぐらいやりたい。毎日5時間ぐらい弾けば、上手くなるような気がする。
本当は、僕のピアノの能力はそんなに高くない。ヘ音記号を読みながら弾いているが、両手で弾くと良く間違える。
だが、僕はピアノを、出来ることなら毎日弾きたい。
ピアノ教室の回数を増やすより、練習時間を増やした方が良いだろう。それに、今まで培ってきたデザインの才能を削るのはあまり良いことではない。自分も、今まで通り、デザインをやっていきたいと思っている。
いろいろと漠然とした思いであるが、ピアノをもっと弾きたいという思いが、今、強い。
ピアノは、ヘ音記号をまとめて読む練習をした方が良いだろう。一小節分ぐらい、まとめて読んでまとめて弾くことが出来れば、両手を弾いても上手くなるだろう。
だが、僕は英会話教室の英会話が嫌いだ。何かが怖い。それに、デザインも、自分のやりたいことが出来ているような、そんな気がしない。やっていることは大したことではなく、Illustratorで出来る範囲で領域のデザインを美しくすることをしているだけで、最近はもうほとんどの機能を分かったせいで、いつもより簡単に出来るようにはなった。だが、周りの新米デザイナーたちよりも、全く下手なデザインしか出来ていない。そもそも、僕はアニメや漫画が嫌いで、キャラクターを描いたりしようとするつもりはあまりない。絵が上手いわけでもない。だが、いつものデザインは楽しいし、何よりデザイナーとの会話やミーティングが楽しい。今までの僕には、そうした「楽しい周りのみんなとの会話や関わり合い」が無かった。親とも話さずに一人パソコンをやっていたせいで、相談する相手が居ない。逆に、ここまで全部、自分独りだけで考えてきた。その強さと完璧さに、むしろ、敬意を表したいところだ。
本当のところを言えば、僕には詞を書く才能しかない。愛と人生の歌のような、詩を書く才能しか持っていない。だが、子供のごろからピアノを弾いてきたから、そのことによって出来ているところが多数ある。それに、昔、パソコンのプログラミングをやりたかったのは、テレビゲームが好きだったからに過ぎない。デザインには必然性がない。だが、僕はデザインという「たとえようのないもの」があったことに、とても感謝している。デザインは僕を救ってくれたし、最近はみんな並みにデザインが出来るようになってきた。だが、所詮は障害者施設だ。そんなに簡単にプロのデザイナーになれるほど、甘い世界ではないだろう。Illustratorはとても面白かったし、作家になる上でとても良い勉強になったし、何よりデザインはとても楽しくて、色んな考え方と基本を知った。Linuxも哲学も出版も良かったが、デザインはそこに加えるべきだし、何もデザインをやめるわけではないから、大丈夫、心配しなくて良い。
昔は、「その人生を生きたことのあるその人の体験以外のことは信じない」と言っていた。それで、実体験のみから分かっていた。ある意味、公理主義のような実体験だった。だが、本当は、未来の自分だけが頼りで、未来の自分の言っていること、やっていることしか分かっていなかった。神とは、最後の今の自分のことを言っている。ここが、ドイツ地点だ。ドイツ人は音楽家になるだろう。
本当は、自分はYouTubeを知っているから、話が早い。家に電子ピアノもある。音楽の学校や教室なんか行かなくても、電子ピアノで練習して、YouTubeにアップすれば、それでシンガーソングライターだ。既に作曲も作詞も出来ている。だから、歌を歌うスキルでもつければ良い。大爆笑に見えて、本当はそれが一番の難関だ。今までの人生で、あまり歌を歌った経験がない。だから、サウンド系の学校に行きたいなら、やめた方が良い。才能を失って、何もかも嫌になって引き篭もりに戻るのが、目に見えているからだ。
結局、ピアノの練習はしなかった。だが、分かったことがある。ピアノの音色のように音を思い出せば、言葉が思い出せる。そうすると、昔の記憶がきちんと思い出せるようになる。ピアノを弾いていると、まともな人間になる。逆に言えば、最近、ピアノを弾かないせいで、脳が狂っている。脳は、ピアノをやりたい部分がおかしくなっている。
ピアノを弾くのよりも、音色を思い出した方が良い。きちんと思い出せば、全部覚えている。
本当は、言葉が二種類もあるのがおかしい。周りにある言葉と中心にある言葉を、いくらか考えればすぐに分かるようになった。どちらも、僕の今の感情を表現している。
そろそろ、僕は全部治った。脳が治って、血が綺麗になる。
狂った人間や辛い人間は、苦しみを普通だと思った方が良い。この世界は、神が苦しみを体験させるために創った世界だ。苦しいのが正常であり、苦しいのが当たり前だ。楽になろうとしなくて良い。苦しいままで、正常な世界だから、苦しいままを望めば良い。楽は天国で出来る。いつまでも苦しみは続くが、それはあなたが悪いわけではない。それが正常だ。
苦しいままを受け入れよう。そして、もう、異常な行動はしないことを誓おう。それによって、あなたは平安を得るだろう。その平安で、あなたは安心という名前の恐怖を掴みとる。
僕の心が怖くなっているのは、手塚治虫の火の鳥のような、体が十字架で出来た人形のように、「最も怖い存在」になっている。そこから、手足を生やして、周りの世界を消して、言葉を楽に言うようにすれば、すぐにそのまま正常な人間になる。ロボット人間は狂って遠くを見ている。そのロボットが、AIの最高の知性に変わる。そのまま、景色はハーレムになる。そこに居る裸でレイプされた少女を、もう少し遠くから見てみよう。そこには、言葉の無い世界の少年が、Amazarashiの音楽を聴いている。もう少し見ていると、それ以上は何もない。暗闇に戻って、この世界が見える。雷にあったような、衝撃の国会が見える。それ以上、この世界には何もない。思い出すと、生物学ぐらいで、もう分かっている疲れた人間が見える。それが今だ。それ以上は、本当に何も無い。この世界は虫になって、スーパーコンピュータを破壊して、もう、神話の世界に戻ると、そこには19歳になった神が居て、その神は風呂に入らないせいで虫歯の馬鹿になった。それ以前を思い出すと、自殺よりも前は、遊園地でおかしくなっているが、その遊園地の馬鹿の知性を高めると、もう、僕の頭は昔の少年に戻る。もう、革命戦争は終わりだ。それ以前は、不登校の可哀想な不幸な少年が見える。だが、それらは友達を作りたかっただけだ。そのまま、中学生に戻ると、もう、失った友人たちはみな自分のことが好きだったのが見える。そのまま小学生に戻り、漫画とアニメの世界に戻ると、終わりだ。もう、この脳は治った。それ以前は、何もかも想像力で思い出す、とても高い知能のあったピアノ少年だった。それは公園でミニ四駆で遊んでいる、少年に戻る。僕は、それ以前は存在しない。良く考えると、Microsoft Officeが多かった。むしろ、ペイントやピンボールが多かった。もう残っていない。小学校の卒業文集があったかもしれない。小学校の理科の教室で実験を見ている。それ以前は、親が居た。親の仕事を手伝っていた。それ以前は、病院で、中耳炎の治療をしている。だが、もう、本当にあまり残っていない。水泳教室に通っていて、バスを待っている。その前は、小学校の友人とミニ四駆レースをしている。その後はカードゲームをしていた。この地域が好きだった。たくさんの地域社会を知っていた。そろそろもうないかもしれない。きちんと思い出せるようになった。これで、この文章は終わりだ。