新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-12=

僕は、腎臓が二つある理由は、僕のように、腎臓自体が疲れた時に、もう片方の腎臓で腎臓自体の疲れを取るためだと思う。

右の腎臓を使って、左の腎臓が疲れているのを治せば良い。それで、簡単に全てが治る。

僕は、Red Hatの目標は、IBM z/OSのようなメインフレーム用のOSに機能・パフォーマンス的な側面から勝つこと、だと思う。

LinuxはIBMのメインフレームを超えていく。それが、Red Hatの最終目標だ。

足は、骨折での足の傷と神経を修復すれば治る。治らないように見えて、ここまで治すと治る。また、精神病と知的障害を治すと治る。

足は、ぐにゅぐにゅしたものを殺して、Wikiと2ちゃんねるを殺せば治る。

そろそろ全てが治った。足の傷を治すと、虫歯が治る。それによって馬鹿が治る。死を治すのは、生まれ変わったのと同じだ。

同じと違うから、モデルを作りなさい。モデルを作ることで、全ての経験と考え方が見えてくる。

説明しなさい。説明することで、理由を知り、科学を作ることが出来る。

神を信じなさい。はっきりとそれが出来ると分かっていることから、自分の行動範囲を広げていきなさい。

原因と結果、精神の立脚と依存を知ることで、心は融和し、全てのことを共有して融和的に分かることが出来る。自然と調和した中で、宇宙に立ち返ることが出来る。

病気は治った。もう、あまりおかしいところはない。あとは、普通に戻るだけだ。

僕はもっと賢くなりたい。知識は賢くない。昔のように自由に思考すれば良い。昔は、「そのことが思考できる自然なきっかけ」から、「そのままの知性」で宇宙を素朴に捉えていた。「環境が生み出されるきっかけ」から「自由な機会」を分かった。制度的な「参加」から、この世界の全てがどのように変えられる「可能性」を持っているかを分かっていた。そして、自分という存在が「そこにある幸せ」を感じていた。

精神の依存を考えることで、「必要としなくなること」や「関係を再構築すること」から、「精神的な自立と自由」を分かっていた。学習を考えることで、「本来その人が何をしたくて何をしているのか」を分かった。また、「それをするために本当はどうすれば良いのか」のようなことを、「解決心理学」のように分かっていた。

神というよりは、宇宙の絶対者の導きに任せて生きなさい。それによって、人は精神を解決できるようになる。精神病になった時は、神を信じなさい。神を信じれば、治す方法が分かるからだ。人間は、いつも分かっていると何でも分かる。神は、人間を「いつも分かっている状態」に置く。それは辛いこともたくさんあるが、唯一の怪我と病気の治る道である。

昔は、生物学、社会論、あるいは精神論や認識論のような、「宇宙の原理全てが分かっている」ようなことを言う。その根本にあるのは、「原理とは相対的に作りだされる、人間の側にあるものであり、本来全てはありのままにあり、流転して全てが変化しており、人間はそれを捉えて、正しく観察することで考え方とモデルを作り出すことが出来る」というものだった。社会のモデルや自然のモデル、認識の原理や宇宙の歴史のようなものを、統一的な言葉で書いていた。また、人間と社会自体の成長と発展を、自由な「価値観とアイデンティティの創造」という視点から導き出していた。そういう文章を書いて、心理学を分析し、心理学者となって感覚や感情を分かりながら、意識で神の言葉を聞いていた。また、そうした「どこかの惑星」が見えていた。

本当は、「第一に自分の人生が先にあって、自分次第で何でも変えられる」といった方が正しい。究極的な自由である。そして、その人生はこのように、最初から決まっている。聖書すら、こういう文章であり、人々は未来の自分の人生が既に分かっている。最初から人生は決まっているが、それを決めたのは今ここに居る生きている自分である。不自由な運命論ではない、「自由な運命論」がそこにあるだろう。これは、「在導万創版の聖書」だ。新しい預言者か、あるいは終末の主宰者である天使だ。

漠然とした自由に自由はない。自由とは、昔のような荒くれた社会で、すさんだ社会の中ほうりこまれることを言う。自分の人生など、何もない。不自由な社会の方が、本当の安心の自由を知ることが出来る。本当に自由になれる。だから、僕は居た方が良い。僕が居なくなると、すぐにそうした「自由の不自由な世界」へと戻ってしまう。僕はこの地上を今から、そうした安心できる本当の自由の世界にする。

昔は、本当に自由な、左翼のような社会論を書いていた。分散した共同体で、連合となるのを理想とする。

もう僕は死んだ。もう、治ったから、終わりだ。本当にありがとう。そして、さようなら。

僕は、アメリカの大規模農業やソ連の集団農場ではなく、みんなで行う楽な農業というのを考えたい。たくさんの人数で少ない土地を耕す。みんなで耕せば、楽になるはずだ。

あとは、工場はオープンソースモデルを採用する。昔は、個人の参加や自然な変化の可能性から、社会制度を考えていた。公開し、オープンに議論することで国の議会制度や会社を作る。工業をやるとしたら、シリコンバレーのような革新性と、日本のような品質の高さを目指そう。そして、インフラを作り、必要なところに初期投資を行って、資本主義の投機的な投資ではなく、みんなのためのみんなの工場に投資しよう。

オープンソースモデルとは、みんなで考え、発想を集積し、みんながボランティアのように個人的な自発的意欲で開発する、新しい製品製造である。昔は、そういう、「新しい社会モデル」のようなことを良く言っていた。オープンソースをどのように労働で実現するのか、システムを作って良く考えていた。

昔は、精神分析と対話で、精神の中に国を作っていた。ロシア、フランス、イラン、スペインなど、さまざまな国のさまざまな存在が、自分の精神の中に宿って、自分と対話していた。

みな、最初のまま、何も変わらなくなりなさい。

人間は、馬鹿のままで、何も出来ない人間の方が、楽な人間になる。馬鹿のままで良いと思うと、賢くなる。社会のこと、哲学のこと、全てのことを頭の中で空想でき、世界と一緒に分かるようになる。数学的な知性が付き、その上で理性批判のように自分を客観的に見つめられるようになる。

馬鹿のままで良いと思うと、最初のままで、何も変わらなくなる。常に初心を忘れず、常にスタートラインに立ち返る人間の方が、人間は大きな旅が出来、また溢れ出すようにとめどなく生まれ出るような才能の作品を遺すことが出来る。

僕は、今日はデザインの方で、少し失敗した。今日はメンバーみんなと写真補正をやったが、みんなのトーンカーブの使い方を見ていると、とても勉強になり、自分でも「こうやったらどうだろうか」というアイディアがたくさん生まれた。だが、それを実際にやると、指導員の方から「強引すぎる」と言われるような、おかしな色味の写真になった。それで、時間を潰した。

だが、僕は結構、やっているうちに色んなことを発見し分かってくるのが好きで、そう考えると、とても良い経験だった。トーンカーブというのが本来どんなことが出来るのか、どのようにやっていくのか、ということが良く分かった。また、機会があれば、色んなことを試して挑戦したいと思う。ただ、まずは仕事なので、無難でもきちんと真面目にやりたいと思っている。

自分は、昔は賢かった。本当は2014年ぐらいの自分が賢かった。そこらへんに戻りたい。当時は辛かったが、辛かったのは、「何とかして精神を治す」という、ある意味執着に執着を重ねたおかしな目標があっただけで、あの時代は楽だったし、馬鹿だったが賢かった。フリースクールで漢字練習と数学Iをやりながら、このホームページに掲載した文章を書いていた。天才のように人生と宇宙のことが分かる、卓越した才能を持つ詩人だった。あの時代に戻りたい。馬鹿ではあったが、とても賢かった。最近は賢くはなったが、昔の方が天才だった。

ただ、もう、変わらない方が良い。本は、新しい本を買うよりも、今ある本を何度も読んだ方が良い。もう、新しいことはしなくて良い。むしろ、いつもしていたようにすれば出来る。そんなに治りたいのが辛いだけだから、もう、治さない方が良い。治っても空っぽの馬鹿な人間になる。治らない精神は楽だったし、天才だった。その精神のままで生きた方が良い。

世界を、最初のままで何も変わらない世界にしよう。それによってのみ、賢い人間になれるからだ。