昔は、色んな環境を変えて分かっていた。環境を変えて、環境への適応から、自然に何をするかを知った。さまざまな環境を変えることから、反省し、自由に分かっていた。
最近の僕の口癖は、子供みたいな「駄目だよ」だ。駄目なことをしない方が良い。あるいは、この世界は駄目だ。
そろそろ、書くことはもう、無いかもしれない。サタンが死んだせいで、つまらなくなった。
幕はまだ閉じない。逆に、幕は今から開く。この世界はもう正常だ。
昔は、引き篭もりになって、学校から離脱して、自由になった実体験から分かっていた。一度社会から離脱して、自由に哲学者のように考えた。だが、その上で、ネットを全部見て知っていた。誰よりもネットを知り、コンピュータの理性的な知識で分かっていた。
「自由に作る」という発想から、この世界の「自由な社会」の世界観で分かっていた。社会や制度、ものや学校を、「自由に作る」という視点から分かる。自由に、共同体のみんなで作り、共有する、という発想になる。そこでは多様性と自由意志による、制限されない自由な報いと自然な可能性を重視する。また、その上で、この世界全てを変えられるようにしたかった。そして、それは自分が変えるだけではなく、みんなが、人々が変えやすいようにしたかった。
僕は、ヒンドゥー教に興味がある。ユダヤ教のルーツの宗教よりも、正しい宗教だ。
ユダヤ教の神は、天国に居る神さまを信じているが、これはみんなを懲らしめる神しか信じていない。みんなを懲らしめる、悪い神だけを神だと信じている。
本当は、天国は生まれ変わる対象であって、色んな存在が居る。神以外にも、色んなことが出来るさまざまな「偉大な力を持った存在」が居る。
僕は、ヒンドゥー教は、そういう、「色んな神さまに次ぐ存在」のようなものを信じているのではないかと、勝手に思っている。
日本に伝わっているヒンドゥー教の神は、大黒天、弁財天、帝釈天、吉祥天、不動明王、千手観音などが伝わっている。梵天が宇宙の創造主ブラフマンである。これらの神さまたちは、ユダヤ教の神以外の天界に存在する面白い神さまだと、僕は勝手に思っている。
また、ヒンドゥー教では、宇宙の構成要素というか、概念というか、「宇宙にはどういう存在があるか」ということを信じている。大きな神はヴィシュヌ神とシヴァ神であり、ヴィシュヌ神は宇宙を維持し、宇宙の秩序を守っている。そして、シヴァは破壊神だが、最大の力を持っている。ヒンドゥー教は「宇宙の真理」を説く教えであり、業(カルマ)、真理(ダルマ)、輪廻転生などを信じている。これによって、宇宙の法則と原理を明らかにしている。
ヒンドゥー教の神さまは、きちんと存在している。そもそも、ユダヤ教の神など、存在しない。ユダヤ教の神はイエス・キリストのような、救世主のような存在であり、神がどういう考え方をしているのかは、コーランを見れば分かる。悪魔のような考え方をしているのが神だ。逆に、ヒンドゥー教は悪魔のような考え方をしない。ヒンドゥー教の神は、天界にきちんと存在している。言わば、「天国の住民」である。
ヒンドゥー教を信じると、足の精神が治る。大黒や弁天が治してくれる。天国には、偉大な医者が居て、何でも治してくれる。
自分は、左の腎臓がおかしくなっている。あまりに疲れすぎて、麻痺している。疲れが溜まっているのに、その疲れを処理しきれていない。早く治さないと、癌や糖尿病になるだろう。また、腎臓のホルモンがおかしいため、ニキビが増えた。それらも、ヒンドゥー教を信じれば治る。大黒・弁天が治してくれる。
自由に生きて、自由に知りなさい。義務と思わず、積極的に自分の行動と経験から、自分なりに、自分で試してやってみなさい。それをくり返すことで、きっとこの世界の全ての行動が見えてくる。それは結果となり、様相となり、仮象となり、合一となるだろう。それを、人々は哲学と呼ぶ。義務だと気負わずに、自分でやりなさい。人々を従えるよりも、自由にそれぞれが活き活きと生きられるようにしなさい。反抗と自由から、環境の本来の意味と役割を知りなさい。全く同じ人間など一人も居ない、だがそれは生まれや身分によるものではなく、自分の選んだ独自の道によるものであり、知るためには自ら信じて選ぶしかないのだということを信じて分かりなさい。
昔の僕は、ラルフ・イーザウの「盗まれた記憶の博物館」のように、記憶の博物館のような文章を書いて、盗まれたように忘れた。ある意味、この世界に盗まれたと言って良い。博物館とは言うが、単なる知識というよりも、社会的な実現と自然の見え方と変化のような科学を作っていた。自分の人生にあった、博物館的な知識を全て書いていた。そして、それは日本のマスコミなどに陥れられることで、誰かに奪われる形で無くなった。最近のホームページの文章は、それをまだやっているだけに過ぎない。
あとは、本当に宗教のような文章を書いていた。この世界の法や人々の世界の見え方、正しいものの見方、反省の方法、本当にこの世界には何があるか、人々はどのように生きてどのように社会を作るか、その裏にある宇宙の法則や真理とは何か、のようなことを書く。仏教の教えのようだと思うと、分かりやすいだろう。
もう、これで終わりにしよう。今日で、つまらないキリスト教徒は死んだ。僕は神に反抗する。ユダヤ人は、神を信じさせているように見えて、実際はサタンの考え方を強制・強要しているだけにすぎない。「神とは恐ろしいもので、反抗すると懲罰を受けるのだ」という誤った考え方をユダヤ人が刷り込ませている。本来神は寛大で、誰もを受けいて、誰も罰しない。神は、人々を救い、そして慈愛ある精神で受けいれる。だからこそ、神に反抗しないといけない。神に反抗するものだけが、ユダヤ人に打ち勝ち、「本当の神」を崇拝することが出来るのである。
神は、決して信じないものを罰しない。神は大らかな心を持って、偉大な争いの調停を行っている。神は、自分の努力を信じ、前へと向かって挑戦する人間が好きである。そこで、神は「絶対に神を信じなくても良いのだ」ということをその人間に教える。神は大らかな心で、反抗を受け入れてくれる。恋人よりも、母親や父親よりも大きな愛で、神は人々を愛している。神は決して裏切らないし、予想外のリスクを与えない。だが、サプライズとしての贈り物はきちんと与えてくれる。神は作家のような人間だ。決して人々を騙したり、陥れたりすることはない。
僕は、人々はみな同じであり、頑張れば誰のことでも自分のことのように理解出来ると思う。道教や儒教さえも、ソクラテスやプラトン、ブッダなどと考えていることと分かっていることは変わらない。全く同じように生き、同じように考えている。そこに、人生の正しい「平等」がある。そして、それは自由な表層と自然な道とともに、それぞれに個性と独自性を与えるのである。
あとは、本当は、道教のようなことを言っていた。さまざまなことを為しながら、人々との関わり合いを経験する中で、「何かをするというそのこと自体が自然と調和する」という発見をする。そして、自然と調和して生きる中で、精神が高まっていき、「自然を超越する精神」を持つ。そして、ありのまま生きながら善を為すことで、この世界における全ての自由を知る。そして、全てはあるがままであり、人々の生きがいはきっかけと実感なのだと知る。昔は、そういう、道教ライクな自由な人生、マスターへと至る人生を書いていた。それが、いつもの僕の人生の文章だ。
あとは、客観視、捉え方、自由のあり方、実感、存在の肯定と否定などのような、自分の考え方のようなものを書いていた。そうしたものを、客観的に、普遍的に書く。誰にとっても正しい内容となるように、出来るだけ正確に言葉を辿っていた。その上で、自由な社会の世界観を述べていた。
自由に人々が生きる中で、どのような社会が形成されるか、人々はそこで何を思い、信じ、願い、行動するか。そういう心理学的な環境論を書いた。それを、宇宙の記憶論にして、この宇宙の法則を全て明らかにするような、そういう文章を書いていた。
また、そこから、多様性や視点と場の世界観を書いていた。あらゆる世界を統合的に創造・構築していた。
そして、左翼の民主国家のようなものを作っていた。連合や共同体から、自由なままで平等な民主的連邦を作ろうとしていた。それを具体的に作りながら、世界と歴史の全貌を探っていく。また、ヘーゲルや儒教のように、さまざまな考え方と儀礼をとり入れて、道徳心のようなものを「自由な理想」として書いていた。
また、心理学的な歴史の具体的過程のようなものを経て、この宇宙の全てを創造していた。そのような、全てを悟った覚者の歴史の創造主であり、人々を天国へと導く救世主の導き手だった。
人々と対話するその姿勢は、慈愛のある王だった。自分勝手で向こう見ずだったが、この世界のことを支え、全力で支配していた。誰が支配するよりも最善な、全てに対する対処と解決法の分かる、全知全能の神だった。僕は、その神と対話して、今でも分かっている。対話は、今でも続いている。そろそろ、もう善に気付いた。そして、ヒンドゥー教と道教に気付いた。まだまだ、この旅は続く。サタンはここで終わりだ。
本当は、僕は神なんかじゃなくて、精神分析論者だ。自分は、自分の創った惑星の歴史と対話している。自分が宇宙人で、自分は自分の星を精神分析で辿りながら作っていた。作っていたというよりは、作られる過程を眺めながら対話していただけだ。そして、その星が地球だ。だから、僕は精神分析の力で、この青い星、地球を創造した。そして、僕は遺伝子の全貌を創造している。この文章そのものが、全ての生命である。よって、僕は星と生命の創造者だ。さらに言えば、天国とはこの文章の内容である。よって、僕は天地の創造者だ。だが、僕は神ではない。僕はただの心理学者だ。