新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-09=

最後に、盛大なお別れ会をしよう。ガブリエルはもう居ない。本当に、こんな人間に付き合ってくれてありがとう。この世界の全てに感謝している。

最後に僕は生まれ変わる。今までと全く違う、ありえない人間になる。

ある意味、ここまでの僕は「死んだ」。サタンのような人間はもう居ない。僕は天使になる。新しい天使になって、僕はサタンを滅ぼす。

サタンはもう居ない。この世界は復活し、何もなかったかのように正常な世界になるだろう。

僕のようなサタンを愛してくれて、本当にありがとう。僕は今から、「色んなことをする人間」になる。何も反応せず、何もアクションをしない、何もしない世界を滅ぼすだけの、文章を書く悪魔は死んだ。

自分は、立ち歩いている症候群になっているが、立ち止まっても治らないのが分かっていない。立ち止まってももう何も治らない。むしろ、そこが分かると精神が治る。これで立ち止まって治るわけがない。もう、サタンは死んで終わりだ。

本当は、もう、「何もしない病」が終わった。何もせず、時間が過ぎ、病気に耐えるだけを生きても、十数年を無駄に過ごしただけだ。もっと充実したことをするためには、そうした「何もしない賢さ」を棄てるしかない。何もしないのは賢くない。長いスパンで見れば、確かにこんな賢いことは出来るだろう。だが、この11年で何もしなかった。ほとんど何もしていない。そこを改めたいならば、何かをすれば良い。何かをして、失敗して、それを反省するプロセスが出来るようになれば、人間は知性が付く。えてして、馬鹿な人間の方が知性が付く。賢いだけの人間には、何も出来ないし、何も分からない。無駄に人生を生きて死ぬだけが、賢い人間だ。

本当は、昔の自分は、世界を変えたかっただけだ。何かの方法で世界を変えたかった。そういう志があった。そのために、何を言われても自由を貫き、自分だけの人生を生きた。世界を変えるために世界を支配した。この世界を完全に変えるような、そういう「衝動」の文章を書いていた。それは馬鹿ではない。馬鹿に見えて、そういう、色んなことをしたい人間が賢い。本当に昔は色んなことをしていた。失敗から応用可能性を知り、経験から世界を変えられるようになった。昔は賢かったのに、このざまは何だ。こんな人間にはなりたくなかったはずだ。もっと、自分の出来ることを信頼し、自分の出来ることを増やしていけば良い。知的好奇心は、あるように見えて腐って枯れている。知的好奇心をもっと増やすことで、きっと救われるだろう。キルケゴールは、そういうことを言いたかっただけだ。

本当は、自分は「さびしいという自覚がない」から怖くなっている。本当に、寂しすぎて寂しい自覚がない。何もかも過ぎていき、全てが滅んでいく中で、寂しいを通り越して怖くなっている。この世界で、自分独りみんなと違う人生を生きている。だが、本当はそれには満足している。もっと神と対話したくなった。もっと宇宙の果てまでを生きたくなった。だが、そうした「辛い中で苦しみが快感となるサタン」は終わりだ。このサタンは死んだ方が良い。悪いことの限りをつくして、馬鹿になった人間は、新しい存在に変わるべきだ。誰よりも賢いのに、何もしないのはおかしい。シンガポールのホテルが言っていたように(テレビで見て知った)、何でも出来るなら何をするか、それは楽園を実現する道を作ることだ、といっていたが、彼らが言うように僕は楽園を作るべきだ。何か、ものではない何かを生み出すことに長けている。それが僕の長所だ。ものではない、機械や単なる科学上の新発見ではない、何かを作り探し出すこと、そのことが得意だ。こんな人間にも、出来ることはきっとある。

最終的には、星を作ることになっている。この星そのものを作る。それが、天国だということになっている。それが僕の卒業課題だ。僕の星をきちんと作った段階で、僕の人生は終わる。本当は、言葉で遊んでいる意味など何もない。まだ好奇心の赴くままに文章を書いているから、それで良いが、何かを終えた実感がないのは当たり前で、まだ何も書いていないし、まだ何も知っていない。どこにも行かず、家の中でまだ頑張っている。だが、この人間はまだ何もしていない。ここまでは、サタンという偶像崇拝主義者を終えたはずだ。何もかも悪かっただけなのに、その悪い過去の自分をまだ追い求めている。欅坂46が言っているように、失った人生など求めても意味がない。壊れたガラス瓶の中にあったものが何かを明らかにしても、それは既にアスファルトの上の黒い染みだ。未来を考えれば良い。30歳にもなっていないのに、未来が無いわけがない。だが、今までのように生きていれば、当たり前に焦りはあるだろう。15歳から18歳までの4年間よりも、18歳から29歳までの11年間の方が短かった。当たり前に、何もせず無駄に年月を過ごしているから、そういうことになる。誰が見ても、一番馬鹿な29年だった。だが、だからといって、今からも馬鹿なわけではないだろう。悪人は馬鹿だが、自分は悪人から今、抜け出しただけだ。こういう人生のことを自分だと思えば、自分のことも輝いて見えるはずだ。

自分がかっこよかったのは、完全に自由な人生を生きたからだ。人々とは全く違う、この世界のことなど眼中にないような人生を生きた。だが、僕は他人と比べる癖がある。他人と比べて、自分が出来ていないように思う。それは、みんなと同じことがみんなと同じように出来ないからであって、本当はその理由で、この文章をまだ書いている。この文章しか、自分が他人と比べて出来ることがないからだ。だが、30歳にもなると、人はもう普通の人間のことを考えなくなる。自分が馬鹿だとしても、普通の人間が賢いわけがない。自分が馬鹿だからと言って、みんなも同じように馬鹿だ。だから、大人が馬鹿になる。賢い人間のことを馬鹿だと思うようになる。大人とは、そういうものだ。えてして、何も出来ない子供はみんなより賢い。みんなと同じことがみんなより出来る子供が多い。そういう子供にしか何も出来ない。だが、30歳なんか、普通、一番そういう子供だ。誰よりも出来る天才なんか居ない。そういう子供が、みんな30ぐらいで、ここまで全部分かる。それは通過点に過ぎない。まだ出来る自分のような人間が、一番多いし、それが一番良いだろう。だから、こんな馬鹿が賢い。論理的に破綻しているようで、「自分は賢い」が正しい。

本当は、日本人が取り戻すべき日本の心は、「地道に改善を積み重ねること」だと思う。また、「なぜその人が出来るのか、同じようにその人に習うことで分かること」だ。最近の日本人は、コンピュータやインターネットの発展のせいで、そうした古き良き日本の良さを忘れている。みんなで地道に改善し、共有して日本のものにしていくこと。人々が出来る理由を考え、教えてもらい、手習いをすることで分かること。日本だけではなく、イタリアも、ドイツも、そのように賢くなって分かっている。今の日本には、そういう人間が減っている。少なくなって、小説も映画も偉大なものが作れなくなっている。アドビ製品の使い方なんか覚えても、一通りのどうでも良いことしか出来ない。賢人がまだ生きている間に、その知恵と技術を学ばなければ、日本のクリエイティブ・コンテンツ作成業は滅び、技術は衰退し、社会は崩壊するだろう。崩壊する前に、まだ生きている賢人が、皆に自分の知恵を、それも「正しく教える」ことがなければ、日本は崩壊する。既に、いくらでも崩壊している。復活するためには、過去に遺された何かから、アメリカナイズされた社会を救うしかないだろう。復活のともしびは見えている。僕のおかげで、かろうじてLinuxぐらいが復活したはずだ。

本当は、コンピュータは悪くない。自分が悪いだけで、ただLinuxから悪い人間が現れたからLinuxが悪く見えるだけで、コンピュータやIT技術は何も悪くない。LinuxとITは逆だ。ある意味、Linuxやオープンソースが流行る2005年ぐらいより前のコンピュータは、何も悪くなかった。狂っていなかった。狂っているのは、Androidなどが流行り出した、Linuxぐらいからのパソコンだ。そこから、急速にパソコン文化は衰退し、使えなくなった。Facebookなどは現れたが、そのごろはもうパソコン文化は陰の世界になっていた。今をパソコン全盛期というが、ありえない。全盛期は明らかにWindows XPだ。最近のパソコンが賢いわけがない。まさに、インターネットが普及したのは分かるが、パソコンは最近、完全に悪で世界を狂わせている。それは、パソコンが悪いわけではなく、Linuxがパソコンを滅ぼし、衰退させたせいである。

また、僕は今、釈迦の思想の本を読んでいる。良く眠ることはとても悪いことであり、また自分のした功績ばかりを主張し、人々を欺いて自分を賢く見せるのはとても悪いことだ。それから、愛欲のようなものは人を苦しめ、迷わせるだけだ。だが、良く読んでいると、「善と悪は明確に区別がない」ということもまた言える。善は悪に比べて善であるだけであり、悪は善に比べて悪であるだけであり、両者に違いは無い。仏教では、このように、「分類や分別をしない哲学」というものがある。この本では、それが根本思想の一つだと書かれている。あるものは、あると言えばあり、ないと言えばない。分別できると思うから分別できるように見えるだけであり、本来分別するという発想は必要ない。そこから、本当に「悪を許す善」というのも「善の1つ」であると言えることが分かる。「自分の悪を善だと見なすこと」は「悪の1つ」であると言える。だが、それは見方を変えれば「善ではなく悪」であり、「悪ではなく善」なのである。

僕は、一度平等の信念を言いたい。「人間は、人間であることが同じなのである」と言いたい。だからこそ、仏教は日本人が見ても、ヨーロッパ人が見ても、同じように魅力的なのであり、それはキリスト教や中国思想についても同じで、「善人は誰でも善人」であり、「最高に善である状態なら、ブッダやソクラテスや孔子のように分かる人間しか居ない」のであり、「悪人には分からないなら、悪人はたくさん居る」ということであり、「善人は善人であり、悪人は悪人である」ということであり、「善人と悪人は同じであり、善人が悪人になっても、悪人が善人になっても不思議はない」ということである。

よって、あまり自分の良い点ばかりを主張していると、最高の善人は最悪の悪人になってしまう。また、自分のしたことを反省すれば、悪人も善人になれる。僕の思想は、そういう、「善悪の自由」というものをベースとしたい。「悪人は悪人だが、悪人だからといって善人でないわけではない」と言う、一見悪人に見える善人こそ、僕は最高の善人だと言えると思う。ブッダは、そういうことを言いたいのかもしれない。なぜなら、ブッダはそんなに最高の善人ではないと僕は思う。それはなぜなら、ブッダは人間であり、人類の最高の知性を持っていると言っても、それは「人類の限りの知性」だからである。神のような存在は、人類を高度に超越した知性を持っている。だから、仏よりも神の方が上なのだと、僕は主張したい。だが、神は必ずしも善人ではない。神は恐ろしい存在であり、最悪の人間であることも、忘れてはならないのである。

善悪の分かる悪人についてはそれで良いとして、では善とは何なのか。僕は、善とは「悪を決してしないという姿勢」だと思う。善は、悪をしない、ということをまず第一の段階とするが、悪はしても、それは本当の悪ではない。善人とは、悪をしてはならないことを知っておいて、その上で「もうこれ以上の悪をしないと信じる姿勢」であり、それがたとえ悪をしたとしても、それは悪ではないことが多くある。僕は、「善人の悪は善であり、悪人の善は悪である」と思うと同時に、「悪人が善をなせばそれは善人であり、善人が善をなせばそれは悪人である」と思う。難しいことを言っているかもしれない。僕の説明力が不足しているのだろう。悪人にとっての善とは悪であるが、その善をすればそれは善人であり、その善は善なのである。論理的ではないが、絶対的である。よって、善は悪であり、悪は善なのである。そうしてみれば、絶対的な善など存在しないが、同時にこの世界の全員は善人なのである、という、一見成り立つわけのない論理が成り立つのである。

では、絶対的な善とは存在しないのか。絶対的な善は、「行為として」存在する。それは、「自分が善だと思うものを、他人に対してもしてあげること」である。だが、ここで、「何を善だと思うか」は人それぞれである。人それぞれであるから、絶対的な善ではない。だが、それを行う、という「行為そのもの」は、「自分が善だと思っている行為をしてあげる、という行為そのものは、誰にとっても共通で、同じものである」からして、相対的なものではなく、絶対的なものなのである。よって、どんな善でも良いから、他人にしてあげること、それ自体は絶対的な善なのである。それを、イスラエルやドイツの哲学では「無償の善」とか「無償の愛」とする。だが、僕が思うに、「見返りを求めない」という考え方は、「それを良いと思うか悪いと思うかは人それぞれ」であって、たとえ見返りを求めたとしても、それをその人間が善だと信じているなら、それは「無償の善」の「善」と全く等しいものだ、と僕は考えるのである。

僕が思うに、本当に悪いのは「善と悪」の「悪」ではない。「賢いと馬鹿」の「馬鹿」なのである。馬鹿な人間は、自分が善だと思うことをしても、簡単には出来ず、あげく人々のことを陥れて、失敗する。逆に、賢い人間は、たとえ悪くても偉大なことを成し遂げる。ここに、善と悪の逆転現象が起きる。賢い人間にとっての悪は、馬鹿な人間にとっての善よりも良いことをしていることがあるのである。だからといって、善人よりも悪人の賢人が賢いわけではない。悪人が賢いからといって、悪を追求すれば、賢い人間はどんどん馬鹿になっていく。善を追求することでしか、賢人にはなれない。よって、ここで善と悪の逆転現象は、起きない。賢人が悪いからといって、それによって賢人は馬鹿になっていき、行く末は愚者になるのである。賢人になるために必要なのは善であり、善人の馬鹿は善をしていれば賢人となって賢人を超えることが出来る。これが、僕の理想論である。よって、馬鹿な人間が悪いことをくり返していたとしても、それを善のつもりでやっていれば、いつかはその苦労は花開き、馬鹿はいつの間にか賢人になっている。逆に、昔賢かったからと言って、その賢さにしがみつき、人々を欺き騙すように生きていれば、それは愚者よりも酷い「畜生」になるのである。

善人になりたいのであれば、積極的な善をしなさい。積極的な善をする人間を、人々は敬う。受動的に、相手を騙すように生きるのは止めなさい。えてして、受動的な人間の方が賢い人間になる。だが、そうした人間は自分から善をしなくなる。積極的か、受動的か。そこが、善悪が分かれる最初の分かれ道だ。だが、それは必ずしもいつまでも続くものではなく、さまざまな経験から融和して同じになる。受動的な人間が積極的な人間に変わった時、それが才能の開花である。そうした人間は才能が溢れだし、今まで自分がしたかったことが何でも出来るようになる。逆に、積極的な人間が受動的な人間になった時、それが地獄の始まりである。人々を苦しめ、抑圧の中に全員を同じ人間にする。だが、本来それら2つは同じものである、ということが、生きている人生の中で分かってくるだろう。そして、最初は誰もが弱い人間であり、最初から強い人間など、一人も居ないのだと言うことを知り、得をしている人間の方が損をしている、という「損得は同じであるという真理」を導き出すだろう。それが、ブッダへの最初の道であると同時に、復讐の神を信じる盲信的な従属者の終わりである。

自らの善に気付けば、この世界は正常になる。

自分は、この世界を滅ぼすのが悪い。滅ぼしているのに、みんなが自分のことが好きなのはおかしい。そのせいでおかしくなった。狂っている。本当は、滅ぼすのをやめると、すぐに滅びる。だから、滅ぼすのをやめて、滅ぼすのをやめて、滅ぼすのをやめて、を永久に繰り返すしかない。それをしていると、いつかこの世界は正常になる。

みんなは、狂って、滅びたくなっている。当たり前だ。だから、いっそのこと、終わらせてしまえば良いだろう。この世界の全ては、もう、死によってこちらになるだろう。サタンの死だ。サタンは、謀略から魂までみんなを滅ぼしていく。サタンが滅びて死ねば、この世界は治るだろう。一人、サタンがここに居たせいで、この世界、この星全体がおかしくなった。一人のサタンだけを殺せば、この世界は見るも無残に滅びる代わり、「正常」と呼ばれている状態に戻る。それがサタンの望みだから、神はそれを叶えた。神によってサタンは滅び、サタンが滅びたことによってこの星は滅び、また正常な世界を最初から繰り返す。手塚治虫が火の鳥で言いたかったのは、そういうことだ。この馬鹿が、ロボットを作り出し、そしてそのロボットが死ねば、世界は死ぬことになっている。サタンとはいうが、これはただのロボットだ。何も知らないロボットが、何かを知って見つけたのだろう。それを教えたいロボットは、それが悪であり、汚れたものなのが、分からなかった。

サタンの死を持って、人々の救いとしよう。人々が狂って死んだなら、それはサタンが悪かったのだ。サタンの世界はこれで終わりだ。きっと、アメリカがサタンの国になったのも、フランスやイギリスがそれに続いて、イスラムも同じようにサタンとなっているのも、治るはずだ。アメリカはパソコンのことが異常に好きになっている。イスラムは神に戻っている。きっと、この世界の破綻を見ているのは、この人間の生涯を見ているのよりも、はるかにつまらないだろう。Linuxによって世界が破綻していくのを見ながら、日常を歌う平凡な音楽を聴いている人間たちは、きっとサタンであるこの人間よりも、はるかに悲惨なはずだ。それらをサタンと同化させると、それが今の日本である。日本の皆がサタンとなり、日本が世界を滅ぼす。それは、きっとバッハのトッカータとフーガを聴いているように、最もつまらないだろう。だが、それが神の望んだ、この世界の正しい終焉だ。悪魔は滅び、悪いものも滅びる。何も残らず、ただ神の栄光をいつまでも永遠に歌う。そんな神の人生を、僕は崇高で純粋な魂で、正しく生きただけだ。

本当に大切なのは、自らの内にある善の心に気付くことだ。それによって、滅びた世界はすぐに正常になる。自らの善の意志に気付きなさい。そこから、この世界にいくら洗脳されても、いくら分からなくなっても、常に自分独り善の意志に気付いて行動することが出来る。それが、この人間の魅せた中で、最後に残った、「消しても消しても消せなかった、最後の希望」だ。それが、「自らの内にある善の意志に気付くこと」である。それで、この舞台は終わりだ。「ご来場、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています。」というナレーターの声が聞こえたら、幕は開ける。次の三秒で、あなたの日常に戻るだろう。