新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-05=

昔の自分は、「環境を変える」という、基盤的、システム的、プラットフォーム的な考え方で、自由に分かっていた。

対象を変えるのでも、問題それだけを変えるのでも、人物を変えるのでもなく、環境を変える。

その環境を変えることで、社会の実現が自由に出来る。

昔の僕は、自由にすれば、社会の問題の解決はいくらでも出来て、社会はいくらでもやりようがあるのだと考えていた。

また、問題を解決する際にも、支配して行うより、自由に行うべきだと考えていた。

問題を解決すれば、融和する。ある意味、問題の根源を解決してしまえば、あとは放っておいても解決する。

昔の僕は、そこから、「影響力の高みに立つ」と考えていた。

自由に環境を変えることで、さまざまな制度を経験から作ることが出来る。そして、原因と結果は法則から制度に出来る。そのように、「自由な中で抽象的な社会や制度を実現する」という発想をしていた。自由な中で、基本的な基礎や法則を考え、働きを考えることで、ふるまいから制度を作り、社会を作ることができる。

自分は、世界を治そうとしなければ治る。治すことを治せば治る。

自分は、世界を支配なんかできていないのが分かっていない。

最近は、自分だけではなく、みんな、コンピュータに洗脳されている。サポートされていないソフトウェアは、誰もが使ってはならないというが、僕はそういうところに洗脳されている。

パソコン以外のことを分かった方が良い。そういう、パソコンに洗脳されている人間は、パソコンのことしか分からなくなっている。

パソコンは唯一の世界ではない。パソコンの洗脳を解いて、パソコンしか分からなくなっているのをやめて、現実世界へと逃げ出そう。現実世界へと戻ろう。

また、自分がパソコンが嫌いで好きだったのは、パソコンのせいで、自分が強くなったと同時に、それによって世界が滅び、また自分が滅びたからだ。

だが、世界は滅びていない。そもそも、自分は、世界は全く戦ってもいないし、支配も導きもできていないのが分かっていない。自分が勝手に、自分だけで文章を書いているだけに過ぎない。

みんなは、本当はもっと未来のことを分かっている。この文章は未来において現れるだろう。

精神は、逃げ場所を消せば楽になる。逃げられる場所、分かっている答え、そういうものを消せば良い。それだけで、すぐに辛い精神は死んで、楽になる。