新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-02=

自分は、死んだから治らないのが分かっていない。死んだ人間は治らない。

脳が死んでいる。だから、あまり治しすぎない方が良い。辛いだけだからだ。

最後の宣言として、これ以上悪いことはしない。そして、もう治すこともしない。

昔は、世界を変えられる人間だった。ネットの経験とITの知識、経験に裏打ちされた発想法から、この世界のことを自由自在に変えられるようになった。世界を変えられること、相手の立場に立って相手の問題を解決出来ること、そして心理学的に社会を創造出来ることに対して、喜びを感じていた。心理学から歴史のことを分かっていた。

自分が義務や当たり前のことだと思っていたことは、実は当たり前のことではなく、制度は経験によるものであって、存在の存在性すらただの感覚であり、存在を疑える、科学すら正しくはない、ということを分かっていた。

また、感覚の数学を作っていた。宇宙や自然の変化のことを感覚的に分かり、経験と思考の照らし合わせから「直観」で分かる数学を作っていた。

世界観を作っていた。この世界におけるあらゆる世界観を作った。

もっと理想を高く持てば良い。

もう、死んだせいで治らない。それなら、好きなことをやった方が良い。工業大学に入るとは言うが、本当は大学のレベルなんか低い。入っても覚えるだけで、意味がない。だから、今まで通り、出来るだけ悪いことをせず、文章を書き続けるのが良い。それで良いことにしよう。

権力は悪いことではない。個人が力を持って自由にするのはとても良いことだ。だが、悪いのは、権力を持つことではなく、権力を独占することだ。みんなでオープンに、みんなで平等な権力を自由に持てば、世界は正常になる。逆に、完全な平等も間違っている。みんなを同じにすると、多様性が損なわれる。そうした国は、亡びる。

昔は、人々との営みと自由から分かっていた。

自由に、さまざまな経験と能力をつけながら、世界を知り、分析することで、あらゆる全てを作りながら、自由になった。

自由とは、対処策だ。人々の対処策、自由な、制限のない、ルールにおいてどのように行動する必要があるかを、まるで銃と核兵器が無くならないアメリカの論理のように考えていた。

また、自由とは、自然発生であり、それぞれの自由に任せながら、それぞれが自然に「許されている中で」行うことで、「自然に良いものが生まれる」という考え方をしていた。

そして、自由とは、柔軟性である。最初から全てのことを完璧に想定してシステムを作ることは出来ない。ある程度の段階で、抜本的な改革が出来ると同時に、臨機応変に柔軟な変更が出来なければ、自由ではない。

最後に、自由とは将来を考えることであり、子供たちの未来を考えることである。組織を公開し、ありのままの姿を伝えることで、国民はきちんとみんなで「考えられるようになる」ことが出来る。だが、それはバランスを取らなければならない。押し付けがましい、「自分がこう考えるから、みんなも同じようにやれ」という傲慢なオープンでは、人々はついてこない。みんなのことを尊重できる、自分の自由を主張するだけではなく相手(みんな)の自由を優先して考えられるようにしなければ、社会はすぐに破綻し、滅びてしまうだろう。

世界を知るにつれて、思いがけないところに解決方法があることに気付く。人々は、それぞれの立場と世界観の中で、出来る限りの最大限のことをしている。だから、それを責めるのは良くない。必要なのは、立場を超えて考えることであり、立場を超えて考えることで、人々は全ての解決方法を全員で実行することが出来る。それも、「制限のある立場と環境からの自由」という意味で言えば、自由なのである。辛く苦しい環境にいるのであれば、逃げ出しても良い。誰かに任せて、解決をただ待つことも、最善の方法であることがある。だが、「可能性」を忘れないこと。この世界を「本当に良く出来るかもしれない」という可能性は、そのまま希望になって、この世界の全てを「変えられる」ようになるだろう。

昔は、「自由にすると、この世界はどのようになるか」を中心に書いていた。それも、理想的なことを書いていた。自由にすれば、この世界はどうなるか。価値観から多様性が生まれ、アイデンティティは幸せの平等を作り上げ、それぞれの解決策は、「それだけが唯一の解決策ではない」ということを知る。そのように、ヘーゲルのような「社会精神論」のようなことを言う。精神論といえば、心の中を全部書いていた。ヘーゲルというよりは、ロックとヒュームのような感情論だった。ニーチェに近いかもしれない。

自らの立脚するアイデンティティを尊重することで、人々は自尊心を得られ、まさに「承認」される。その上で、それがリアリティに近づけば、その人は「絶対的な存在」となる。自由とは、人々が「絶対的な存在となるプロセス」であり、そのために社会の自由が存在する。昔は、それを「幸福の世界」だと言っていた。また、そのためには多様性と価値観の認め合いが必要だと言う。昔は、そのような「理想の社会の実現方法」を書いていた。

自分は、物理が分かっていない。もっと物理を分かった方が良い。

存在は常にそこにあって、時間とともに刻々と変わっている。

精神現象は、ふるまいを良く考えることで心理学的な法則となる。

そういう、哲学的な考え方は、宗教よりも物理の方が分かる。僕は、昔から、ただ他人の言うことを信じるよりも、自分で自分なりに考えることが好きだ。

分析し、環境との関係性を知ることで、人々がどのように営みを経ているのかが分かる。

時間軸と正しさはそれぞれの中にある。

正しいことが何かを知っている人間は、間違ったことをしない。だが、正しいことが何かを知るために、未熟な段階として、たくさんの間違いを犯すことは、本当は間違いではない。

社会をそれぞれが作る際に必要な考え方は、「社会を作れるだけの幅広い経験と、そのための前提となる方法を知っていること」だ。

今日は、テレビの仕組みをホームページに書いたが、そろそろ、この世界にあるものは全部書いた。だが、面白いものはそんなに存在しない。何かを知りたいなら、学校に行けば良い。

僕は、ただ、他人に色んなことを教えてほしいだけだ。それによって、さまざまなことが出来るようになりたい。Illustratorはとても良い経験になった。

物理的に考えたいなら、存在だけをそのまま考えるだけではなく、存在と存在の関係性を考えれば良い。そこから、作用や現象のことが見えてくる。何がどのように作用して現象が起きるのか、どのようにすれば新発見に気付くことが出来るのか、といった「物理的方法」を分かることが出来る。特に、固有の原因を考えること。それがそうで、それがそうなら、それはそうなるはずだ。そして、それがそうであり、別のものがそうであるなら、それもそうなるはずだ。それを実験することで、全ての原理が解明出来る。昔は、そのように精神世界を物理的に考えていた。

意識は自在であり、環境は変わっていく。そのように考えることで、心理学も社会学も、一つの「物理的関係」に落とし込むことが出来る。存在はそれ自体では存在できない。別の存在との関係性があって、初めて存在出来る。そして、完全な客観視を行うことは出来ない。存在はそれぞれの時間と世界観の中で、それぞれの存在が存在しており、その「ありのままの現実」がそのまま「存在としての現実」である。この世界には、存在するものしか存在しない。存在していないものは、存在していないのだ。

可能性とは、応用的で普遍的な適用と、実証である。それがそうであるならば、それもそうであるかもしれない。それなら、そうなるかもしれない。それは何を意味しているかというと、本当はそういうことかもしれない。それを実証し、正しいことを検証したら、それはなぜそのようになるのかをもっと深く考える。そこから、「正しい定理と証明」を得られる。そうした「原因と振る舞いの究明」のことを、人間は物理と呼ぶ。宗教は間違っていはいないが、既に古いものだ。再現性が可能なことしか起きないと考えて間違えるというリスクはあるが(再現できないこともこの宇宙では起きることがある)、それでも、科学的な方法論というのは、キリスト教以降ヨーロッパが培っていた考え方の中で、最も正しく賢いものだ。

また、物理的な考え方はそのまま歴史的な考え方へと繋がってくる。この世界が、実際はどういう世界だったのか。何が違い、何が同じだったのか。そういうことを考えることで、地球という惑星は唯一ひとつの惑星であり、それぞれの行為はそれぞれの自由に任されている、ということが分かる。何かが出来るようになる、ということは、逆に昔の「秩序ある何も出来ない世界」を破壊する、という側面もあるだろう。だが、科学技術はたくさんのことを可能にした。今からも、どんどん可能になっていくかもしれない。リスクに目をつぶるなら、自分がそんなに力を持つことは悪いことではない。影響力の高みに立てば、この世界を変えられる。だが、みんなが嫌がる悲しいことをさせてみんなを悲しませるか、あるいはみんなが喜ぶ良いことをさせてみんなを喜ばせるか、ということは自分で決めることだ。自由な経験をする中で、「自由になれば何が出来るかを知ることで、自由の中で何をすべきかを分かる」ということに繋がる。さまざまなことを経験出来る自由があれば、その自由は自由な中で何をすべきかを明確に分からさせる。それが分かることで、人間は子供から大人になる。だから、悪いことがしたいなら、それは自由な経験がまだ足りなくて、人生としての経験が成熟していないのだろう。本当は、それもそれで間違っている。人はいつか、唯一の失敗を起こして、何も出来なくなる。その唯一の失敗と同じことをいつまでも続けることで、人々に迷惑をかけると同時に、自分とは特別な存在なのだと勘違いする。悪を善だと思い、善良な人間など居ないのだと錯覚する。それもまた、大人だ。

生命とは水であり、細胞は炭水化物が分裂するように出来ているだけだ。全体主義は間違っていて、民主主義が正しいが、民主主義が上手く働くためには「社会全体が善良であること」という条件がある。昔は、そのように、生物や経済のことを一言で言い表すことが多かった。遺伝子は進化とともに変わっていくとされているが、僕は遺伝子が変わるところを人間が再現性のある観察で見たことがないだけで、遺伝子は普通に生物の働きによって変わることがあると思う。遺伝子は環境に適応して、あるいは食べ物や生活習慣の変化によって変わっていくのではないかと、僕は仮説を立てる。昔は、そうした仮説を、人間の心理学的な学習と行動について考えていた。人々と会話しながら、「ああ、この人間はこの時はこういうことを言うのだ」と思って、人間のことを、半ば人体実験のように、この世界の原理を解明する、という意味で分かっていた。現に、人間の心理を全部解明し、分からないことは何一つ無かった。昔は、そういう心理学者の物理学者だった。環境への適応を物理的に考えて、この世界と全く同じものを仮想的に、自分の心と理性の中に作っていた。この世界の全てを知り、考え、洞察し、分かっていた。

仮定と法則、再現性から、「自分だけの行動科学」を作っていた。経験とともに、この世界の「全ての専門」を分かっていた。だが、あれは何も分かっていないだけだ。そういうところが、普通の人間だった。だが、確実に天才ではあった。それは、オープンソースの活動を通じて、資本主義のような全ての社会経験をしていたからだ。自分の行動科学と社会経験だけで、分からないことは何一つなかった。出来ないことも何も無かった。それが過ぎたせいで、この世界は崩壊した。もう、終わりだ。

本当は、昔なんか何も賢くない。論理的な考え方が出来る人間は、その考え方が何を意味しているのかが分かる。考え方と理由を良く考えることで、この世界をどのようにする可能性があるのか、それはどのようにすれば出来ることが分かるのかが分かる。その上で社会に在るものを知り、どのような考え方で何が起きているのかを知れば、どのようにしていけばこの世界を変えられるのか、この世界を変えるならばどのようにすべきなのかが分かる。それは、自分の経験から「信じるままに」分かる。だから、物理学者は決して何も信じていないわけではない。それどころか、盲信的な宗教の信者に比べて、はるかに色んなことを信じている。だが、本当は宗教が正しい時もある。戦いの中で神を信じれば、この世界のほとんどの人間には勝てる。この世界に意味は無くなり、自分の存在だけが世界だ、と言えるようになる。それが、僕の宗教だ。

また、人生的には、とても多くの経験をしながら、少しずつ、この世界との関わり方が積極的になっていっただけだ。自分の経験的な実感から、この世界がどんな世界なのかを知った。価値観やアイデンティティなど、自分の哲学が立脚する概念を作り出した。そこから、全ては完全に説明出来た。可能性を掌握し、ふるまいから原理を導き出した。それらを、「一人の名も無き愛の哲学者」ということにしよう。知れば知るほど自由になるとは言うが、知ったせいで分からなくなることもある。昔は、そういうところを、ロボットのように、物理的に考えて、「ひとつ前の現象を思い出す」ことや、「ひとつ前に分かっていたことを再度分かる」ことで、人間の全ての現象を、「独りだけで完全に解明した」のであった。

人間が人をいじめたりするのはなぜか。それは、それぞれの中に人生と環境があり、それぞれの人間が必然的に、そして自然にそれをした、ということだ。言ってしまえば、「自然な必然」だと言って良い。昔の僕は、そういう、思考と環境を照らし合わせながら他人の思考を辿って、この世界でどんな世界からどんな世界が生まれるかを知って、「必然的な自然」を良く考えていた。

この世界は、全員関係なくて、それぞれがバラバラで、考えていることも行動していることも何もかも違う、と考えることも出来るかもしれない。だが、本当は、「人間であること」が同じであり、また「日本という同じ場所で生きていること」や、「パソコンや機械という同じ文明社会で生きていること」は同じである。だから、人間はほとんどが同じだ。経験をしていく中で、それが良く分かる。それぞれがたくさんの悲惨を経験しているが、全ての悲惨は自分の中で包括すると、全て同じなのだ。そこが分かると、現代文明の常識が間違っているのが分かる。人間をバラバラで自由だと考えるのは間違っている。人間は「同じ国、同じ知識、同じ経験」を共有していることで同じであり、また「人間であること」から言って同じなのだ。残念なことに、世界はどんどんバラバラの方向に向かっている。それぞれが同じであった、ということは遠い昔のことのようになってしまって、アメリカと日本は全く別の人種になってしまっている。だが、希望はある。それは、「別の人種だと言っても、人間であるということは永遠に同じである」からである。だから、人間の理想としての平等は、正しいものなのだ。

僕も今まで、ありえない経緯をたどってきた。社会を多様性のあるそれぞれ違う社会にしようとしたと思いきや、言葉の力で上から支配して、みんなを全く同じ平等にする。だが、それらは、何も矛盾したことではなくて、そんなに簡単に人間の「同じと違う」を良い表すことは出来ない。同じだと思えば同じだし、違うだと思えば違う。だが、決して忘れてはならないのは、人間は、ただ存在しているだけではなく、変わっていく存在だと言うこと。そして、ただ主張するだけではなく、行動する存在だと言うことだ。

見え方を予想し、経験を想定し、変化の可能性を捉えることで分かっていた。僕は、昔から、「その経験を成り立たせる」という風に分かる。自分のその経験が何によって成立するかを知り、その経験がどのような見え方と在り方で存在していくかを知る。経験を成り立たせることは、それ自体存在の在り方に関わってくる。そして、昔は、子供のごろからの延長線上で、人間は何をすれば分かるのか、子供たちには何をさせたら分かるのかを分かっていた。特に、子供の失敗には寛容的で、子供にはさまざまな失敗と挑戦を経験させる「自由な教育の土壌」が必要であり、そのためには学校に居るよりも、大人たちと関わって、自分の道を突き詰めた方が良いだろうと考えていた。そのために必要なのは、出来ることの限りを行う「自由な経験と手段」であると考えていた。

本当は、オープンソースの良さとは、「道具的な手段の共有」だと思う。オープンソースは、会社の作っていない、金も払わずビジネスにもならない、お遊びのようなものだと言って批判されることが多い。だが、本当は、工具やネジなどの道具は、誰もが自由に使いたいものであって、それはオープンソースのように、公開されながら無料であり、「道具を誰もが使うことが出来る」という考え方になる。僕は、決してそれが騙しているとか、そういうことであるとは思わない。オープンソースは、ただ金づちやドライバーを「自由に使うことが出来る」という考え方に近い。もちろん、金づちを作った人間に対して、対価を払うのか払わないのか、というところは違う。だが、公開されて誰もが自由に使える、そのために対価は払わずボランティアが開発する、というモデルは、僕は道具を使うという意味でとても自然であり、それを作り合い共有し合うコミュニティについては、そうした意味でとても良いものだと思っている。

ただ、ITはただの道具であると同時に、考えられ研究されたシステムでもある。マイクロソフトは、Windows API, MFC, COM, .NETなどの技術をきちんと会社で作っているが、こうしたきちんとした技術を会社がビジネスで作ることはとても価値がある。きちんと研究して、正しいシステムを作って製品の品質にしている。ある意味、オープンソースやフリーソフトウェアは、IT業界を馬鹿にしたところがある。Linuxのせいで、COBOLからWindowsに至るITの「業界的な賢さ」が劣悪になったところは否めない。一長一短があるから、僕はマイクロソフトを必ずしも悪いものだとは言わない。特に、オープンソースで開発されているビジネスアプリケーションは、LibreOfficeからGIMPまで、どれもインターフェースが美しくない。美しくないから、道具として自由でも、メインの道具にしたいとは思わない。理想と現実が離れているだけではなく、両者は戦うものではない。同じ製品として競争すべきものではないのではないかと、僕は思っている。

会社としての品質を求められる時はWindowsを使う。道具としての自由を重視する時はGNU/Linuxを使う。それで何が悪いと言うのだろうか?特に、PhotoshopやIllustratorのような賢い製品には金を払うが、少しの画像処理がしたい時に手軽に実現する時はGIMPやInkscapeを使う。ここで問題なのは、その両者の陣営が戦い合うのではなく、連携し合うということ。PhotoshopとGIMPのファイル形式は、オープンな標準に従うようにしよう。MS-OfficeとLibreOfficeのファイル形式が同じになれば言うことは無い。Windowsだけを使い、Linuxが反MSを高らかに叫ぶ時代は終わるだろう。WindowsとGNU/Linuxの両方を場合場合によって使う時代、僕はすぐ未来ではそれが起きるのではないかと思う。

ある意味、別の可能性を全部考えた上で、別の選択肢を見ないようにしなさい。一度自由になって、全てのことをしかと自分の目で知って、その上で、前だけを見つめて努力しなさい。

自分が不登校になったという「悲しくて辛い現実」を、まずは見ようとせず、人々との触れ合いと経験から、その現実は哲学的な「真理」を導き出す。さまざまな人と触れ合う中で、自分の中に確かな「アイデンティティの実感」が生まれる。それは、辛い人々に対する啓蒙となり、心の中で人々への救いと愛の感情をはちきれんばかりに主張する「心の段階」を作り出す。それが、社会を変える原動力となるだろう。

また、思考をたくさんすることで分かっていた。「思考の経験」がそこにあった。また、「一度した思考を初期投資のように再利用する」という発想があった。

もう、全て書いた。自分は、もう全て分かった。これ以上やることは無い。あとは、休んで病気を治すだけだ。辛い地獄になっているのは、地獄を地獄と思わないからだ。もっと不安や恐れを増やした方が良い。勇敢な人間は、最後まで戦い続ける。最後まで戦うのは、男としてはカッコいいが、それは本当は悪人の極みだ。

ネットを知り尽くし、経験することで、あらゆる全ての環境と社会秩序を知っていた。社会秩序をみんなで自由に形成する方法を知り、オープンソースだと思っていた。制度は経験であり、さまざまな制度をネットの文章を見ながら発想していた。正しいのははてなのようなカッコいい最先端の会社だと思っていた。賢いのはポール・グレアムだと思っていた。流行のものは何でも知っていた。2ちゃんねるだけではなく、ニュースサイトやブログ、Wikiなどもいつも見ていた。掲示板ではさまざまな人々と交流の経験を持った。匿名だったが、自分は世界で一番親友の多い人間だった。孤独は天才的可能性の実感を生んだ。2ちゃんねるについては、歴史も好きだった。さまざまな人々と交流し、自治スレッドなどで対話することで、この世界をどのようにすれば変えていけるのか、基本的な革命のようなことを分かっていた。

文章を書くのは悪いことではなく、とても良いことだ。たくさんのことを書いた経験があるせいで、どんなことでも分かりやすく要点を明確にして文章を書く。だが、本当は平坦でつまらない道ではなかった。滅びそうな世界を支配して、「絶対に負けない心」で戦っていた。だが、僕はそういう辛い体験が嫌いだ。完全に地獄になって、宗教は自分を懲らしめた。

歴史を知れば、全ての営みがすっきりと理解出来る。昔の世界と今の世界を繋ぐ、この世界の道筋がはっきりと見えて、くっきりと全貌があらわになる。僕は、学校の歴史教育はそういうところが悪いと思う。学校では、人物と時代、そして出来事しか教えない。この世界にある「あらゆる歴史的な発展を行ったもの」について、「くっきりとその時と今の点と点を結ぶ線として全貌を理解出来る」ような、そんな歴史教育をしないといけない。右翼とか、左翼とか、そんなことは関係ない。そういうイデオロギーは排除して、純粋にこの世界の全てをくっきりはっきりと理解できるような、そんな歴史の本を僕は作りたいと思う。

歴史とは、自然な積み重ねであり、時間軸である。学校のせいで僕らが勘違いをしているのは、昔の方が今よりも馬鹿だった、という点だ。そして、今の方が便利で、楽で、面白くて、楽しいという点だ。昔の人間たちは、明治時代の人間など、とても賢くて、今の日本人とそん色がないほどの研究や意識を持っている人間がいるし、昔はパソコンは無かったが、舞台もあったり落語もあった。昔はつまらない馬鹿な世界ではない。それこそ、学校は縄文時代から人々の生活と時代を教える。だが、本当は、そういう時代のような教え方をするのと同時に、個別のトピックを教えないといけない。「機械の歴史」から「医学の歴史」、「政治体制の歴史」や「生活水準の歴史」など、さまざまな歴史があるだろう。本当は、ここで一瞬で答えを出すことは出来ないが、学校の歴史はつまらない。

昔は、「環境への適応」という意味で、どんな感情がどんな感情になり、どんな行動に繋がるか、ということを考えていた。悪い行動を引き起こすのは不安であり、それは世界を広く見て視野を広くした上で、きちんと正しく経験し、きちんと心のタガを取り除けば、不安ごと無くなって悪いことはしなくなると考えていた。また、環境と環境を繋げる、ある存在とある存在を同じ場所で繋げる、という意味で、「環境の適応からどのように分かるのか」を考えていた。その上で、この世界の全てを、「それぞれが現象を起こす中で、環境と環境、存在と存在が関わり合う」という考え方にしていた。

哲学では、存在などを超越論で考えることがあり、またヘーゲルは同一になると言っているが、僕の場合も、そうした「精神の現れを人生的段階で知っていく」という発想が多かった。精神が発展するにつれて、自分は何を目指し、何を発見し、何を「要請的に作り上げていく」か、そのように考えると同時に、「さまざまな論理や理屈を表層から深層までの仮象の世界で考える」という、カントのような発想が多かった。そして、経験を成り立たせ、可能にし、「その経験がそこで必ず成り立つ」ことから、「どのようにすれば経験が成り立つか」を知った。また、ブッダの言う四諦のように、「それを成り立たせるためにどのような方法が考えられるか」という発想が多かった。

そろそろ、書きたいものも全部書けた。僕は、コンピュータや機械のようなことは、もうしなくて良いと思う。生物学の方が良い。目標を立てる割に何もしないのが自分だが、むしろ、目標を厳密に、正確に考えることそれ自体が勉強になっている。調べて書くのは、決して詳しいわけではなく、勉強して知りながら書いている。だから、僕は博識でも天才的才能があるわけでもなく、普通の大学生よりもはるかに馬鹿なニートだ。だが、最近は作業所で仕事をしているから、正確にはもうニートではない。だが、今の自分よりも、ニートだったころの引き篭もりの自分の方が賢かった。人生とはそういうものだ。失敗の道を選ぶと、必ずそこには成功が待っている。太くて大きすぎる道では、進む方角が分からなくなる。自分で道を作っている間は、人間は前を向いて生きているものだ。