新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-30=

存在の存在性を信じると同時に疑いなさい。存在は、存在すると言えば存在しているし、存在していないと言えば存在していない。両者は、ありのままの人生と社会の中で両立している。僕は、これを存在の両立論と呼ぶ。肯定と否定、義務と権利、機会と危機、全ては両立する。ピンチの時に上手く対処することは、チャンスになる。ニーチェの言うように、それは解釈の違いである。

科学とは、再現性である。事実を観測するだけでは十分ではない。それを誰もが再現できるように説明し、条件や手法として提示すれば、それは科学である。よって、宗教を再現できれば、宗教は科学になる。だから、科学的なこと以外のことが起きることはある。

自分は、死に耐えているから辛いだけなのが分かっていない。死に耐えているから、死に絶えている。いつも、病院で死に耐えていたのが、今でも続いている。治すためには、全部治そうとせず、脚だけを殺すことだ。

僕は、この星を変える。新しい星の時代を作り出す。

僕は、新しい違う神を信じているかのようで、信じていない。キリストや、父なる神を信じているから、ユダヤ人と同じ神を信じている。だが、その自覚がない。自分がありえない人間なだけで、神は恐ろしい。これでは、神に殺されたいだけだ。こんな良い人間の神は居ない。

本当は、月の生命は過去に死に絶えて骨としての岩石が残っているだけで、月に生命が居なかったわけではない。人間が、自分たちの星を特別だと勘違いしているだけだ。

僕は、エスペラントに興味がある。エスペラントは、共通の言葉の部分(接頭辞、接尾辞、語幹)からたくさんの言葉を規則的に作ることで、簡単に修得できる言語を目指している。父親は、既に挫折した古いもので、誰も話していないし、宗教のようだと言っていたが、エスペラントは公用語として使われるよりも、異なる言語を持った人間が、母語を同時に使いながら、第二言語として言葉の意味の疎通のために使うことを意図している。

狂った人間は、全部「最初のまま」になっている。最初とは違うことをすれば、すぐに精神病は治る。いつまでも、変わるのを恐れ続けるから、おかしな強迫性神経症になる。

今日も農園でイチゴが採れたが、イチゴの季節はそろそろ終わりだ。毎日山ほど採れていたが、あっという間に終わった。

今日で、デザインの作業所に行き始めてから、ちょうど一年と六か月だ。僕は、Illsutratorの使い方はある程度分かったが、デザインの基本は何も分かっていない。みんなと比べるとあまりに稚拙な自分のデザインも、見ている限りにおいてはしだいに上手くなってきた。きっと大丈夫だ。デザインだけが出来ることではない。ピアノ、英会話、パソコン、哲学、執筆、自分の出来ることはたくさんある。今していることだけで、数えればいくらでも、十本の指以上にやっていることはあるだろう。