あなたの自由を僕に委ねてほしい。僕は、必ずこの世界を自由な世界にする。安心して愛を感じられる、豊かで平和な、自分の努力が報われ、自分がこの世界に対して「参加出来ているという実感」を持つことが出来る世界にする。愛の下で、人々は失敗を許され、何度でも再チャレンジできるようになる。
僕は、あなたの愛を無駄にしないし、裏切らない。僕はあなたを全ての意味で愛している。そう、あなたがそのように僕を愛してくれるように、僕はあなたのことを愛する。
分かろうとしないでほしい。分かろうとするから、人間は賢くなろうとしない。賢い人間は、分からない人間だ。
分からない人間が賢いだけだから、人間は分かった後で馬鹿に戻れば賢くなる。分かるのは良いことではない。狂わない範囲で馬鹿になれば、人間は賢くなる。
分かることよりも、変えることを目指しなさい。分かろうとすると、現状がこうなっている理由ばかりを考えて信じてしまって、自分や世界のことを変えようとしなくなる。新しいことに挑戦しなくなる。
昔の自分は、世界を変えたかった。世界を変えるために想像力から洞察して、正しい考え方をしていた。そのまま、文章を書くようになった。
ただ、自分が世界を変えるだけ、そのために努力するだけではなく、みんなに世界を変えるために努力してほしかった。一人だけで、出来ることは限られている。みんなが出来るようにし、みんなが変えやすくし、そのために手段と機会を与え、制度を経験的に変えていくことで、この世界は変えられる。
一人だけですることは、決してしたくないわけではなかった。自分独りだけ、全部分かって、全部出来るようになった。だが、それが生み出したのは、「自分が一人支配して、全員自分のロボットのように従う」という間違ったロボット人間の自由だった。僕は、そういう自由が嫌いだった。
自分が一人やるよりも、みんなで一緒にやるのが好きだった。小学校にはそういうものがあったが、中学校でそれが奪われ、消え去ったのが哀しく、辛かった。僕は最初からこの世界の「不自由」を否定して、独り、自由な高校生時代を生きた。
自分は、昔から難しいことを簡単に考え、簡単にやるのが得意だが、それは最近の記憶破壊のように、簡単なことを一番難しくしているからだ。Windowsのせいで、僕だけではなくみんな、簡単なことを難しいと考えすぎている。言語的に考え、さまざまな場所で思い通りに行うのは簡単なはずなのに、パソコンのせいで難しいと思い込んでいる。簡単なことは、簡単にできる。それは、本当は学校が悪い。自分のように、受験のような試験対策をきちんとする人間は、簡単な理解で分かるはずの真実を「難しい丸暗記」でわざと難しくやっている。本来自由なはずの貴重な青春時代を、丸暗記によって無駄に費やしている。学校だけではない。役所や会社の就活など、この世界は簡単すぎることを難しいと思い込んでいる。学校の勉強で基本的な考え方を学んでも、何にもならない。大人がただ社会の中で正しい考え方を勝手に見失っているだけで、普通のことを子供は自分なりに、子供の体験の中で分かっている。学校の勉強なんかしない方が、労働も出来るし、英語も勉強した方が分からなくなる。
僕は、昔からそういうところが、あまりに影響されすぎている。そのせいで、逆にそれが解ける体験も多かった。今から、デザインの勉強をし、大人になっていく中で、社会に出て、簡単なこと全てが上手くいかないのを経験するだろう。だが、その中で思い出してほしい。「簡単なことは簡単だ」と思い出すことで、きっと子供の知性を取り戻すことが出来るだろう。
人間の知性とは、「問題を突き止めればそれを解決できる」ということだけであり、そのために出来ることとして、「今分かっていることは、分かっていない時よりは分かっている」という基本的な概念が分かっていれば、それで何とかなる。方法とか、実験とか、そういうものは、そこから自然に生まれることであって、学校の勉強では分からないが、ネットに頼る必要もない。ただ、話し相手が居ればそれで何とかなるだろう。話し相手が一人も居なくても、自分なりに経験し思考することから、この世界のことを「確かに分かる範囲を開拓して」分かっていけば良いだろう。学校で、そんなことは教えない。大人にはそういうことは分からない。だが、青春を経験する過程で、誰もがそういう経験をするものだ。
あなたが子供なら、この世界を変えるためにどうするのが良いかを考え、大人になるまでの準備段階として、さまざまなことを思考し、経験しなさい。あなたが大人なら、まさに今、既に出来ていることをもっと増やすこと。そして、あなたが戦いの中に居るのであれば、戦いはいずれ終わることを知りなさい。そして、葛藤と執着の苦しみは、必ず自分の力で治るのだ、と信じなさい。人間の脳には、永遠の地獄など、存在しないからだ。
本当は、馬鹿な人間には問題意識が足りない。人間は、誰もが、色んなことを「問題だ」と考える人間が分かる。治ったり、受け入れたり、言葉を信じたりした方が治らない。この人間がやっていることは、ほとんどが嘘ばかりで、頼るだけの知識も経験もなく、はったりと恫喝だけで生きている。こんな人間になるのは良くない。そのことを、まず第一に問題だとして、逆に、この人間に勝とうとしなさい。諦めるだけの人間は精神病になる。問題を問題だと、きちんと考えられる、神に対して批判的な人間だけが、賢い愛情と情熱を持つことが出来るし、神はそういう人間のことが好きなだけで、こういう人間のことは神は嫌いだ。
本当に賢い人間は、地獄の中でもまともさを保つ。ブッダが言っている。だが、本当は、自分は全く正しいわけではない。間違った人間は、同じことを同じ側面からでしか考えない。違う視点を持とうとしない。それを分かることが出来たら、もう精神病は治っている。
違う視点を持つことができて、人々の言っていることや自分の今思っていることもそのままで許すことができ、視点と命題そのものを普遍的な経験としてありのままに共有できると確信したら、あなたはもう、ウィトゲンシュタインと同じレベルの哲学者になっている。
最近、インターネットのせいで多いのが、自らの経験だけで社会のことが分かる人間だ。ネットで社会経験をしていると、この世界の全ての営みを自分の体験から分かるようになる。だが、僕はそれはもろ刃の剣だと言いたい。スラムを経験しすぎるせいで、あまりに正常な世界のことを忘れるからだ。精神病が治らない原因はそこにあって、「正常な世界のことを忘れる」ことによって、人間は正常な日本語すら分からなくなる。スラムで起きたことが、正常な現象だと思い違うようになる。これは、本当に人間の脳の仕組みから言って治らない。人間は、失敗を怖がり、失敗しないように、常に安心することで理性的に考える生物だから、常に失敗を受け入れていると、本当に理性的な思考そのものが出来なくなる。解決策は、仕事をしながら、過去を忘れること、そして、自分の手で「自分の人生の何が悪かったか」を反省する以外にない。唯一の救いの点は、そういう人間は、そんなことは既に分かっているということだ。
経験を知れ。社会を知れ。方法を知れ。現実と理想を自分で考えるために、さまざまな経験をし、デカルト的な抽象化を行いながら、一つ一つ、自らによる積み重ねの作成と、自らの理性と判断で考えて分かれ。昔の僕は、そのように、自由にこの世界で人生を生きていく中で、僕が何を分かったか、どのように分かっていけば僕のように分かることが出来るか、何を知り、何を愛し、なぜ運命の中であなたがたのことを愛したか、そのようなことを分かっていたし、書いていた。この世界での人々の営み、人生の意識、やり方、段階的発展、そのための社会の基本構造と考え方など、この世界で「僕は何を考えたか」、そういうことを分かっていた。
そうした、「アダムの人生」をまだ書けていない。
全てのことを、実地的に、実世界を見て知りなさい。
この世界のことを、自分の知ったことの中から、哲学的に考えなさい。
方法、知性、経験、判断など、全ての理性的なことを吸収しなさい。それぞれの関係性を意識で考えなさい。
人々との関わり合いの中から、「今までの自分は何を考えていたのか」ということを知りなさい。
人々との経験を拡大しながら、少しずつ自分のやりたいこと、やるべきことをやって行き、そこから反省しなさい。
ヘーゲルのような、自己意識の拡大から、「精神」と「啓蒙」を作り出しなさい。
失敗と成功の中で、夢を見て挑戦し、人々の言っていることを分かるようになることから、「影響力の知性」を知りなさい。
世界の「時代の動き」を知りなさい。「創造性」を信じなさい。
全てのことが出来るようになったら、「世直し」を行いなさい。この世界をどのようにすれば変えられるのかを知りなさい。
自分の経験から、「精神と意識の高まり」を知り、経験的に「作用」と「環境活動」を知り、高い立場に立って考え、影響力の高みを知りなさい。
精神は、ありのまま、何も必要とせず、既に自分が分かって、「涅槃」として「世界に根差す全てが融和した精神」を知りなさい。
人々を愛しなさい。「自由なままで世界を変える自由」は、「手段と機会の授与」となって、ある意味では、「自由にすることで柔軟かつどんな場合にも対応できるようになる」ことを知りなさい。
思考と体験の繰り返しから、「価値観」や「アイデンティティ」の持つ「自尊心(プライド)の力」を知りなさい。
決して悪を受け入れず、自分の心が経験したことから、「経験」、「目的」、「自由」、「神の愛」を知りなさい。
支配者となるだけの、「土壌となる豊かな経験と認識力」を付けなさい。
そして、支配者となりなさい。さまざまな発想をし、科学者になり、研究者になり、そして哲学者になって、ウィトゲンシュタインの哲学を自分の思考の力で知りなさい。
社会のことを実現できるようなだけの実感と知識の「下準備」を終えたら、ネットを使って社会を変えていきなさい。
さまざまな経験が増えていく中で、自分は自由になっていく。自由の拡大は限界を知らずに続いて、理想と現実の全てを実現できるようになる。
人々のことを愛して、革命を起こし、苦しみの中で出会った一人の女性を最後まで愛して、あなたは死ぬだろう。その時、その女性は自分とともに生まれたのだ、と知りなさい。
失敗を受け入れることで、得られるものもある。地獄に堕ちた自分のことを、英雄だと思いなさい。
新しい圧縮方式を考えた。だが単純で、しらみつぶしに2~3文字ぐらいから辞書登録したものに置き換えていくだけで、それを巨大にしていくだけ。それが一番、圧縮効率が良い。その代り時間がかかる。僕は不勉強なので、たぶん既にあると思う。
新しい言語を考えた。英語、ラテン語、中国語などを使って、「あらゆる語彙の正しい語源」を集めた辞書を作る。たとえば、英語のmilkとドイツ語のMilchは、語源が同じなので一つの単語に出来る。中国語のように、語源が違うものは、日本語でやっている漢字とカタカナのように共存させる。文字はラテンアルファベットと中国語の漢字、あとはアラビア語など、さまざまな言語の文字を、統一言語として使えるように、日本語でカタカナでやっているのと同じ方式で、「新しい文字」を作る。まさに、新しい日本語となる。文法的には、ヨーロッパ諸語の文法と朝鮮語の文法を、単純化して統一し、専用の文字を作れば、日本語のひらがなのようになるだろう。
僕は、日本語は「口語的な言語」であって、「記述的な言語」ではないと思う。それはなぜかというと、中国語でいうところの第一声から第四声のように、声でどのように音程にして話すのか、といったところをまるで書かない。書いていない部分まで、言う人間や読む人間が汲み取って話すようになっている。僕は、これはとても駄目な点だと思う。よって、新しく作る言語では、「メロディのような話し方」が書かれた、正しい読み方専用の言語を作る。これは、英語やドイツ語の全てをカタカナ語で表すのに似ている。だが、もっときちんと書かれた上で、振り仮名を付けたりするのに使えるような、正しい読み方の文字を作る。読み方の仮名だから、読み仮名(よみかな)とするのが良いだろう。もちろん、RとLの発音も区別できて、「ジェ」や「ウェ」のような後から作った読み方をおかしな後付けの法則で読むような言語にはしない。総合的に考えて、この文字はハングルをベースにするのが良いだろう。
新しく分かったこととして、頭は時計のロボットだけではなく、計算をやっている。その計算とは、「3ならば9、5ならば2、4ならば6といったように、何かの数字に対して何かの数字を導き出し、それを書き換えて組み立て直すことで、永遠に時計の針を計算し続ける」というものだ。これと並行して、1,2,3の3つの数字をやっている。だが、ここには欠陥が存在する。それは、3の次は1に戻ることで繰り返す、ということであり、本当は3の次は1になるべきではなく、4になるべきなのだ。きちんと、流れるように、違う時間を経験しなければ意味がない。そこを直すと、もう脳が狂っているのは治る。
これが分かったのは、僕は最近「夢の内容を覚えている」からだ。眠っている時に、適当なそういう賢い夢を見る。最近のそれで分かったのは、「夢では大冒険しているだけではなく、普通の生活もしている」ということだ。特に、パソコンやIT技術をふんだんに使った未来のヨーロッパの大学宿舎のような生活をしている。そこでは、僕がこの地球という場所で経験したのと、同じ友人たちが現れる。だが、本当は、それは同じ友人、といっても、この世界の友人ではない。夢の世界の友人だ。僕は、夢の世界に居る友人の方が、現実世界の友人よりも、本当の友人だと思う。そして、この世界にあるWindowsやLinuxよりも、夢の世界にあるWindowsやLinuxの方が、本当のパソコンだと思う。それはなぜなら、夢を見ていると明らかに、夢の方が大切で重要な世界だからだ。この宇宙は、ただ地獄を永遠に治し続けているだけで、あまり意味がないし、出来ることなど何もない。夢の世界でも小説を書いているし、友人と楽しい食事もしているし、さまざまな他の家や地域に行ったりもする。現実ではないにしろ、本当の意味ある存在が存在する世界は、僕は現実世界よりも夢の世界だと思う。夢で映画も作っているし、プログラミングもしている。演劇のようなことも、スポーツのようなことも、夢でしかしていない。忘れたように見える友人たちは、夢の世界でいつも僕を励ましてくれている。父親も母親も、若くて元気なままだ。天国とは、そういう世界のことを言うのだろう。
自分は、「仮定法」が足りない。この世界で、「これがこうだったとしたら、これはこうなるかもしれない」という仮定法がない。昔は、そうした仮定法から実現と実験を分かっていた。
昔は、自由な世界を良く考えていた。環境、体験、可能性、自然、習得、意識、自由、一体性などからこの世界を考える。そうした、「この世界をまるごと、自由という言葉で書き表す」という発想が、昔は多かった。
あとは、可能性(ポテンシャル)という発想が多かった。この世界で、存在できるものは何か、どうすれば視野が広がり、世界全体を正しく考え、捉えることが出来るか、という、可能性を考えていた。また、自らの可能性を向上させ、ポテンシャルを高めることで、この世界の営みを良く分かっていた。体験の可能性から世界の可能性を考えていた。歴史のような自然な発想もあり、それぞれの場に経験的な可能性があることを、自分の過去の経験全てから実感して分かっていた。
そして、昔は、子供の青春のように自由に生きただけだ。「自分を信じて生きなさい」とか、そういうことを言う。強く、正しく、賢く、そして一人だけで、この世界の全てを知り、全てを見聞きし、全てを経験して、「自ら見たこの世界のあり様」のようなことを言っていた。強く生きよ、自分を強く持て、恐怖に負けるな、人々を導いていけ、という、「人生訓」のようなことを言う。また、「自由にすれば良い世界を作れるのだ」という理想を、正しい善良な人間として、言っていた。
彼のポリシーは、「自分が一人出来るのではなく、みんなが出来やすくし、自分だけが世界を変えるのではなく、みんなが世界を変えやすくすること」だった。だから、制度や社会の構築は、全て、「全員という名前の小さな子供が、必ず出来るように考える」ということから出発していた。自分だけが出来るのではなく、全員が出来なければ意味がなかった。全員が自分と同じように出来ること、そのために戦い、経験し、開拓する、そういう人間だった。
その自由な子供の名前は、「アダム」ということにしよう。
彼は、自由で自発的な手助けが好きだった。自分の存在があって、手助けをすることで、こんなにも良いことが出来る、こんなにも他人のためになることが出来る、それをこんなにも自分は喜べる、その価値を自分は誰よりも知っている、というところに、彼のアイデンティティがあった。自分だけが出来るのではなく、他人も出来るようにすること。彼の「慈愛の精神」はそこにあった。そして、「喜べる」ということが、すなわち、「相手と同じ立場に居られる」ということだと実感していた。それを、「神の慈愛の精神」として、「愛」ではなく、「慈悲」という言葉で分かっていたのが、彼の哲学だった。その人間が、みんなと同じ場に居られて、みんなと平等に扱われること、そうした社会は、自由な経験から生まれると考えていた。それぞれが自由にし、人々と関わることで、精神は高まり、愛の高みを知れる。昔は、そこに「世界を救う希望」を重ねていた。世界は、自由と平等、リアリティとアイデンティティのバランスから、自分の力でも、他人の力でも良い、「誰か一人の力、そしてみんなの力」によって、変えられるのだ、変えられるようにしなければならないのだ、と考えていた。