昔から、自分は良く、革命家のような王になる。それも、一人だけで王になって、独りでその世界のことを全てする。
昔は、影響力の行使だった王の権力は、革命家のような一人の支配者となって、言葉の魔術と愛の力で、自由にマスコミと民衆を敵対的に支配し、口と耳の力で導き、世界を独りで救う。
悪い人間だったが、カッコいい人間だった。それだけを努力していた。そして、何も悪くなかった。むしろ、賢明な賢い指導者だった。
自分は、そもそも精神は何もしなくても治るのが分かっていない。何かをするから治らない。何もせず、放っておくだけで、精神は完治する。
今日は作業所のスタッフと色んなことを相談した。特に、自分は文章を書くことを、悪いことだと思わなくて良いことが分かった。自分は文章を書いて良い、ということに気付いた。
思えば、文章を書くことで、自分は賢い人間になった。昔は、自由な人間関係の対処法を考えているだけで、全く馬鹿な引き篭もりだった。
世界は、子供になっている。みんな、自分のせいでピュアな子供になった。まるでピュア・クラブだ。もっと、みんなを大人にした方が良い。大人になるためには、勝とうとすれば良い。自分の力で勝とうとし、弱者よりも強者につくようになれば、世界は大人になって理性的になるだろう。子供には何も分からない。
僕は、日本語はただ言葉が多いだけで、プログラムが日本語を解釈することは不可能ではないと思う。日本語は、言語仕様がとても巨大で、とてもたくさんのキーワードがあり、目的があいまいで、使われ方が多様な、そうした言葉だ。プログラムで解釈することは、きっと不可能ではない。やる意味がないだけだ。
最近は、テレビ広告よりもグーグルのアドセンスの方が儲かっているのかもしれない。ネット広告のデファクト・スタンダードを取っただけで、マイクロソフトと何も変わらない。僕は、グーグルは嫌いだ。世界をロボット人間にしたいせいで、パソコンそのものが悪いものになった。昔は、Linuxが主張するように、もっと楽しいパソコンの世界だった。Androidぐらいから全てがおかしい。グーグルがただネット広告を支配して儲かっているだけだ。
昔から僕はケータイというものが嫌いで、引き篭もりだったせいもあって、ケータイのEメールはあまりやったことがないし、カメラもあまり使った経験がない。ケータイでカメラを取るのは苦手だ。パソコンは好きだったが、ケータイは嫌いだった。ケータイだけではなく、電話そのものが嫌いで、電話に出る、という経験は家族にまかせっきりで、自分は電話すらしない。ある意味特殊な人種だ。だが、パソコンの世界は好きで、LinuxやLispなど、特にUNIX関係が好きだった。古き良きコンピュータが好きなのだと思う。
僕は、世界を変える唯一の手段は、「変化の許容」ではないかと思う。この世界が変わることを受け入れること。そして、社会全体が、変化の許容に基いて考えられるようであること。変わることは良いことではないかもしれない。だが、悪い社会は変わらなければならない。変わることで知性が生まれるだろう。変化がいくら悪くても、悪い社会は変わることでしか変わらない。
意味と論理を考えるなら、「それが成り立つならばこの世界はどうなるか」を考えなさい。「それが成立する時、具体的にそれがどうなるか」を考えなさい。また、実験し、自分のことを他人のこと、全員に共通のこととして考えなさい。その上で、意味と想定を論理的に考え、感受性と感情の場と視点を成り立たせることで、この世界の全ては数学的に理解出来る。数学をするのに数式は必要ない。数学は、論理的に言葉で考えることで、誰でも出来る。そのためには、世界を「自分なりに捉え、ある一点の本質に基いて全てを統一的に考える」ということをする必要がある。全てを包括する一つの本質を、自由なモデルと特性の働きから考えれば、哲学は出来る。「理由」だけではなく、「働き」が分かるようになる。
昔は、ありえないことを良く考えていた。ある意味、レーニンは完璧な国を作りたかったが、人々はそれを理解せず、スターリンはソ連を独裁国家にした。中国は文字をたくさん作ったが、本当は文法をたくさん作って、複雑で高度な、だが美しい原理性のある、文法の優れた言語を作らなければならない。昔は、そのように、この世界の全てを「自分の発想から成り立たせることで」分かる。その発想は、ただの思い付きではなく、美しく考えられた理論構造を、半ば「破壊するかのように」、「衝動」で考えたものだった。その衝動は、あらゆる全てを独りにし、それは僕一人だけを自由にした。この世界全てを従える、機械的で人工的な永遠で無限の停止した発想法だった。
昔は、感覚と具体例から、この世界の認識を分かっていた。この世界の認識の実例を、全て感覚から分かって、世界の変化を自分の心で分かる。そして、可能性をそのように把握し、人間の活動を掌握して分かっていた。