新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-24=

全ての自由な行動と失敗の経験は、自分にとって意味があるものであり、自分のためになる、と考えなさい。全ての行動に、善意と意味があり、全ては価値ある手助けだと考えなさい。

さまざまなことをする中で、可能性、応用性、主体性が分かってくる。そして、全てに意味があり、全ては全員のためになる一つのきっかけである。

それをするためにどうする必要があるか、考えなさい。

主体性と応用性から、さまざまな研究が考えられる。全ての前提を考えなさい。「それをするために何をするか」から、応用的な手法の世界観を作りなさい。

手法から研究しなさい。生物学、社会学、心理学について、研究を書きなさい。そのことに対して、どのようにそれと向き合い、どのように自由にし、どのように応用し、どのように考えるべきか、書きなさい。

たとえば、ものを作るためには加工して組み立てるだけではなく、研究したり、実験したりする。手段と金も必要だし、協力して組織となる必要もある。昔は、そうした「応用的前提」のことを全て書いていた。その上で、この世界の全ての手法を文章で創造していた。

数学では、分母を0で割ることは出来ないが、むしろ、値が無限大になる、と考えるべきではないかと思う。

環境と影響力における意図を考えなさい。その意図が相手にどのように伝わるか、意図がどのような結果になるかから、「環境を実現する」という考え方が出来る。経験から、意図通り自由自在に環境を実現できるようになる。それが僕の言う、自由な影響力だ。そして、善意と影響力が一緒になることで、人々を愛し、導き、教え、救うことが出来る。

ネットで、人々がどのように社会のルールを作り、どのように社会性を営んでいるかが分かった。理性批判から哲学ができるようになり、本当に客観的に考えるとはどういうことなのかを知った。「相手のことを認められる」ようになることで、逆に「自分のことも認められる」ようになった。一切の前提がない世界において、自分の存在が全体の世界の中でどのような立ち位置に居るのかが分かった。

みんなと一緒にネットで抑圧を経験して分かっていた。抑圧から、この世界の全ては正しく理解すれば変えられること、自由とは経験することだと知った。絶対にこの世界が解決できるのを知りながら、一人、世界の果てまで経験した。この世界の「果て」を知って、自分独りだけで全てのことを悟り、全てを理解し、全て分かった。

成長せよ。経験せよ。全ては、自由だと知れ。そして、愛すること。一人だけで経験することは、必ずゴールの自由があることを知っている。すぐに全てが理解出来ることを知っている。運命は人を変えるが、記憶まで壊すことは出来ない。仮に記憶が壊れても、昔の記憶はレイヤーの中に残っている。その記憶が、自分を導いてくれるだろう。そして、地獄を乗り越えていけ。耐えられない地獄は無い。レベルの高いものほど、苦しくて強い試練を経験するものだ。耐え抜くことが男であり、愛することが女だ。

笑顔で帰ろう。怒って帰るのは良くない。今、ここに僕は帰ってきた。あまり自分の周辺は昔と変わっていない。人々は変わったが、それでも、この世界がこの世界であることは変わっていない。笑顔のままで、ほほえみながらここに戻ってきた。遠回りをしたが、きちんと僕は昔と変わらぬ場所に居る。この場所を信じよう。信じることは簡単だ。今までのことを振り返るなら、はるかに昔のことは忘れていない。最近の一ヶ月、どんなことがあったか?今、何をやっているか?そこから、思い出していこう。楽しいのはデザイン、英会話、ピアノ、農作業、そして執筆だ。何も分からずやるのをやめて、良く確かめ、何を自分がしたいのか、何をして自分は喜びを感じているのか、きちんと整理しよう。今訪れているのは、最初の最初、始まりの始まりだ。決して終わりではない。文章を書くのがやめたいなら、それは今までの全てを棄てることになる。それだけはしない方が良い。

それが出来るために、下準備として何が出来るか、何をする必要があるかを考えよう。Illustratorは、本を読めば出来るだろう。Photoshopの本も欲しい。英語は、もっと勉強法を考えた方が良い。みんなはノートをきちんと取っているのに、自分は取れていない。絵とピアノは、空き時間にデッサンや演奏の練習をしても良いだろう。もっと五線譜を読めるようになりたい。執筆は、もっと本を読んだ方が良い。小説を読まずして、小説は書けない。パソコンは、もう少し自分で作らないといけないだろう。ホームページは、もう少しみんなが見てくれるようなコンテンツを作っても良いだろう。デザインセンスはあるのが分かっていない。自分が一番デザインセンスがある。僕の作品はいつも美しい。病気については、もう、自己対話をやめるしかないだろう。病気を治すことだけを考えるのはやめた方が良い。そんなに単純に治る病気ではないからだ。そして、いつか見た景色は、ここに続いていた。全ての一歩が自分になる。最近、僕は歌手の中ではGReeeeNが好きだ。

自由な中で経験せよ。シリコンバレーとソ連を知り尽くせ。

あとは、ありえない「そういう風にするために、どういう風にすれば良いか」と言う発想が多かった。GPLでケータイ会社を作るとか、「新発想の曲解」のようなものをいつも書いていた。

たまにおかしなことを言う。水洗トイレは明らかに生態系の摂理に反している。食べ物の種と糞を水で流してしまうのはおかしい。だが、昔の自分なんか、それくらいの馬鹿だ。

誰かのせいにして楽をして逃げたいなら、ぜひ僕のせいにしてほしい。僕は、この世界全ての元凶ともいえる、「最高権力の魔王」をやっている。ある意味偉大だ。一人だけで全てを背負い、約束と責任のために努力している。だが、僕を責めて、何かを強制させようとしないでほしい。僕は自由にやっている。あなたが自由が嫌いでも、僕は自由が好きだ。

どうして良いかが分からない強迫性神経症になった人間は、自分が間違っていると思うものが正しいのが分かっていない。だから、間違っている方を正しいと思ってしまう。本当は、正しい方を正しいことにして、それに異論や文句を付けなければ良い。まだ異論を信じたい、まだ文句をつけたい人間が精神病の強迫性疾患になる。だが、あなたは間違っていない。本当は、あなたが嫌いな昔のあなたは、賢明で、正しく、素晴らしい人間だ。

経験の可能性を考えなさい。その経験がいつ成り立つか、どのような時にその経験になるかを、論理的に「意味」から考えなさい。それが、哲学だ。

ある意味、自由は賢くない。自由とは、「自由に出来る」ということに過ぎない。自分の自発的な意志で、自分の居るその場所で自由に出来る。それは賢くは無いが、子供のような純朴さと純粋さがある。友愛や価値観といったことが良く分かるだろう。

自由は間違っている。本当は、社会主義は全く劣悪な主義だ。正しいのは、みんなのために頑張る人間だ。自分は、あまり頑張っていないだろう。最近の戦いは、日本を崩壊への道に導いているだけで、人種差別など悪いだけだ。

だから、良い国にするためにどうするか考えるなら、この世界を全否定しないべきだ。この世界にある賢いものが、「どんな意味で賢いのか」を知っていくこと、理解と知性から経験と精神を開拓していくこと、そうした「世界全てのことを自分のことのように分かる」人間になりなさい。そして、人々の分かっていることを共有し、独りの王として吸収し、自らの経験にしていきなさい。そうした王道が正しいだけであって、Linuxやオープンソースの中で賢い王になっても、それはただの馬鹿だ。そんなことはしなくて良い。

みんなを自分にするのは、本当は悪いことではない。だが、それはみんなのことを全員同じだと思っている。人はそれぞれバラバラで、違う夢と違う出生がある。絶対的な客観視は出来ないのと同じように、絶対的な同一化も不可能だ。このようになる宗教が多い。宗教も間違っている。正しいものなど、この世界にはない。そもそも、今の人間の分かっていることは少ない。まだ何も生まれていない。そのように考えていけば、既成観念を作り直し続ける、馬鹿な洗脳も解けるだろう。

昔は、グループ論の社会論のようなことを言っていた。みんながそれぞれ個性を持って自由にするか、独りで全員分するかどちらかが究極であり、一人の王に従うか、平等にするか、自由にするかであると言う。そして、国籍を共有し、それぞれが自分の好きなグループとなって国になるのが、自由な理想であると言っていた。だが、あの自由はおかしい。本当に実現することを考えていない。

ある意味、今から考えれば良い。自由は全く良いものではない。自由とは別の考え方をすれば、すぐに分かる。感受性や友愛を信じても良いだろう。そんなに政治的な自由を推し進めると、自由を通り越してドイツになる。そういう自由は間違っている。

作家である以上、人生のことを良く考えるしかない。この世界は本来どうあるべきか?歴史とは何だったのか?そうしたことから、マルクス主義哲学を生むことは出来る。だが、マルクスもマルクスで、知性がある代わり、現実的な解を考えていない。理想だけでは飯は食えない。現実のこの世界でどう生きていくか、それを考えないと、日本的な賢明さは生まれないだろう。

昔は、還元的なシステムを考えることが多かった。それぞれが努力し、それぞれが達成し、それぞれが決定し、それぞれが従う、そうした「エコ・システム」の中で、発展と共有が生まれる。昔の自分は、そういうものをシステムだと言って、さまざまな社会システムを作っていた。

もう、僕には分からない。これ以上は、他の人間を読んでほしい。今更だが、自分を「読むしかなくさせる」というおかしな悪の影響力はもう終わりだ。これ以上は、みんなの中に僕が居て、僕が白く光って輝いている、そんな文章になるだろう。そうなってから、この文章は流行り出すと思う。

経験から、「それはそういうことだったのだ」ということに気付いて、人生を開拓しなさい。自分の世界を変えていけば、この世界の見え方はがらりと変わってくる。その段階を生きていくことで、全員の経験を吸収し、「世界はありのまま、それぞれにあるだけだ」ということが分かるだろう。実感と主体性は、世界の根源となり、本来の人間のアイデンティティとなり、発想の共有と、「その発想がそこにありのまま、そのままにある」ということを知ることが出来る。それが、僕の哲学だ。

昔の文章は、予測と客観視が多かった。一つの行に全ての魂を込めて、絶対に間違えないように、出来るだけ正しく作った。

FLOWや宇多田ヒカルを聴いていると、昔の自分が思い出せる。昔の音楽を聴くだけで、自分の頭が昔へとタイムスリップする。

失敗と挫折を乗り越えて、人生を経験していこう。経験から、それぞれを愛することを学び、愛から社会を作ることを学び、それを自由化する方法を学ぶことが出来る。それぞれが何に苦しんでいるのかを経験的に把握し、誰もが悟ることによって解決することが出来る。人々が叫び声をあげているのには理由がある。誰かを責めるよりも、正しく解決すること、そして「加害者すら救っていく」という発想で、人々の愛と自由を解決していくべきだ。「みんなが悪をするのは、自分が悪いからだ」という「絶対責任」の境地を知りなさい。精神と人間性の部分で、あらゆる立場にある人を責めずに救いなさい。全ての人々を、全員を解決するつもりで、自分の能力を高め、前提全てを理解しなさい。全てを分かりなさい。そして、宇多田ヒカルが言うように、人知れず辛い道を歩みなさい。あなたが僕の友だ。あなたが僕の後継者だ。この文章は、後に続く者の光と羅針盤になれ。神の紋章を掲げ、白くて赤い、かけがえのない「人生と命と未来の引き換えの灯」を灯せ。

一つの権力が全てを支配するのは、僕はつまらない。その理由で、僕は右翼が嫌いだ。自由な社会のままで、自由経済のままで世界に変わってほしかった。今でもそう思う。自由なままで変わらなければ、理想的でない。支配や抑圧は存在すべきでない。相手の自由を認めた上で、初めて自分の自由が得られる権利を持つと僕は考える。僕は世界を不自由にしたくない。ロボットにも、ソ連にもしたくない。僕は自由が好きだが、本当は自由も間違っている。それは、自由では自由は得られないからだ。

あなたが本当に自由になるためには、全てのことを正しく理解する必要がある。正しく全てを理解した時、初めて「絶対自由」が生まれ、「絶対行動」が生まれる。絶対という呼び名だが、それらは相対的なもので、全ては「絶対的相対の共有」として理解出来るようになるだろう。まさに、哲学だ。

科学を作りなさい。世界を創造しなさい。この世界の全てを創る力を、この世界の全員は既に持っている。要らないもの全てを消しなさい。パソコン、スマホ、テレビ、漫画、アニメ、ファッションなど、ほとんどのものは「あるべきでないのにある」という「邪悪なサタンの自由」になっている。この世界の全ての邪悪なものを消しなさい。もう一度、最初からこの世界を作り直しなさい。必要なのは、ファッションリーダーでも、流行歌手でも、ゲームクリエイターでもない。そういうものは要らないのだ。一度、完全に全ての要らないものを一掃しなさい。ノアの方舟のように、必要な一部のものだけを残して、この世界を消していけ。それによってのみ、神の言っている言葉の意味が分かるだろう。

正しい世界とは、「自分の価値が認められた上での個性と多様性」であり、そのためには「本当にその人のアイデンティティを確立させる」必要がある。そして、そのために必要なのは、「会話」と「議論」だ。それらが認められた上で、「自分が分かって自由にすること」、それが自由な哲学者の理想である。融和と自然から、人々は自由な中で、何も反抗せず、成熟した経験と卓越した理性を持つようになるだろう。全ては必要とされず、関係をいつでも再構築できて、全ての欲は存在せず、失敗や敵や孤立を恐れなくなるだろう。

欲に勝つためには、個性を喜ぶことだ。「ありのまま、ここに存在しているこの存在の在り方を喜ぶ」ということをしなければならない。それは、今までの全ての経験、知識、思考、理性、批判、言葉、想像力、環境、記憶、認識、システム、技術の全ての総合的な「人格」から、「この世界の在り方を喜ぶ」という「結実」を知らなければならない。そのためには、人間で無くなる必要がある。人間で無い人間こそ、真の人間である。

最近、自分は人間が嫌いだ。人間を愛せないし、人間になることが怖い。だが、それなら、無理して人間にならなくて良い。人間なんか、感情で動くだけの子供ロボットにすぎないからだ。

環境の歴史のようなことを分かっていた。社会がどんな社会からどんな社会になるのかを分かった。ネットや理性によって、歴史の変貌のようなことを分かった。自分の地域に人生と歴史を重ねて、自分の昔行っていた学校の通学路のような場所に、その場所の歴史を重ね合わせて分かっていた。また、絶対的な全ての包括の歴史を分かっていた。この世界の全容が、意識と経験の中にある「仮想世界」によって分かっていた。

僕はもう、全て書けた。これでおしまいだ。きちんと昔の自分が分かる。賢い人間だったし、色々と「賢明さ」が多かった。全てのことは、下準備をきちんとやれば実現出来、また経験をきちんとすれば分かるのが分かっていた。謙虚な人間で、「笑いの中に謙虚さ」を見出し、真面目に泣き笑いのコミュニケーションと人間関係を、まるで哲学のように分かっていた。あらゆる感情を吸収し、共有し、「自分の中に宇宙の全員が居る」かのように分かった。宇宙の意識は、仏教の開祖のように経験から悟って分かっていた。また、地理的なパターンと還元的な自然発生の考え方で、手動かつ自由に、UNIX哲学のようにこの世界の全てを思考に先立つ基本の組み合わせで分かっていた。

論理を普遍的に考えなさい。一つの論理が、あらゆる場合、あらゆる社会、あらゆる人間において成り立つことを知りなさい。考え方の発展と創造性を知ることから、ヘーゲルのような「精神の歴史と発展」を信じて分かりなさい。

あとは、愛が書いていない。一番強い気持ちで愛を信じれば、異常の全ては無くなる。恐怖は消え、悪は無くなり、世界は正常になり、魔法は解ける。愛を知りなさい。一番強い気持ちで、愛を信じなさい。それによってのみ、この世界の狂騒は解決し、静かな世界になるだろう。世界は落ち着きを取戻し、木の生えない土から芽が生まれるだろう。