新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-23=

昔は、出来るようになって、世界を知って、可能性と自然を分かって、成長して、最後まで正しく生きて分かっていた。

特に、「基本的なこと全てが出来るようになって、その上で正しく努力する」という発想が多かった。ダビデのような人間だった。

だが、僕は本当は何も出来ていない。昔のそういう馬鹿のせいで、出来なくなっている。

自分は、出来ることがないわけではない。だが、出来ないことが多い。むしろ、「出来ないことしかない」と言った方が良いだろう。

決して出来ることがないわけではないのだが、デザイン、ピアノ、小説、プログラミング、何をしても、「自分にはこれは出来ないのだ」という壁にぶち当たってしまう。

だから、出来ることがないわけではない。デザインもピアノも小説も、普通の人間並みには出来ている。だが、それだけをやっていく、というほどには出来ていない。

昔は、インフラ基盤のような文章を書いていた。全てのインフラを歴史と変化から創造して、この世界のインフラ維持をやっていた。

辛く苦しい中で頑張ったのは良いが、辛い中で頑張りすぎたことで、「辛いことが増えすぎた」精神になっている。辛い中で頑張っていると、辛いものが増えるのが精神だ。

特に、辛い足で頑張りすぎた。足が一度筋肉と脂肪を落として、衰弱すれば治るだろう。こんな体で生きてきたことは誇りに思えるが、少し頑張りすぎたせいで辛くなっている。

最近は、自分のことよりも、周りのみんなのことが辛い。周りのみんながおかしいせいで、ストレスが溜まっていると思う。

社会のこと全てを知り、どのように支配すべきかを知った上で、何が理想かを知り、国を作るためのモデルを作って、最大限の努力で国の問題を解決し、人々を導きなさい。

その上で、環境の自然発生のようなことを書いていた。ルールから歴史まで、ボトムアップ的な平等の変革を書いていた。変革するための全ての発想を書いていた。

イスラムになれば、治る。それで解決だ。イスラムになった方が良い。

本当は、学者にもなれない。自分は学者に向いていない。生物、心理、経済の勉強をしたいとは言うが、これ以上はしたくない。

面白いことが無いのは、人間を愛することが出来ないからだ。人間という生物を愛することが出来ない。

やりたいことは、この世界を何とか治したいくらいだ。この世界には、一番悪いものしかない。「あるべきでないものしかない世界」になった。

ただ、僕はもう、一番辛い地獄を生きたくはない。

今日もデザインを頑張ったし、今からピアノにも行くし、執筆もしているし、パソコンとイラレの勉強もするし、英会話もしている。たまに新しいことを知った時に、ホームページにいつも書いている。むしろ、ホームページ制作の仕事が良いかもしれない。ホームページを作るのは好きだ。だが、このまま何も学ばずには、Webデザイナーにはなれないだろう。自分はHTML/CSS/JavaScriptの基本は知っているが、ホームページ制作のセオリーのようなものは知らないし、必要最低限の技術力も今のところ、ない。

治す部分と辛い部分が同じになっているから、もう一度最初から治す部分を作り直せば楽になる。もう一度、楽な今の状態で、治し直そう。

二重人格になりたいなら、昔になるためにはただ昔やっていたことをもう一度すれば昔のクズな賢い男になる。誰よりも人一倍賢かったが、性格が馬鹿だった。

そして、今になりたいなら、自己対話をするとすぐにこちらの美しい馬鹿な女になる。

今の方がまともだから、今の方が良い。頭は馬鹿でも、やっていることや知っていることは物凄く賢い。

昔が理性的な出来る男で、今が聡明な分かる女だ。

昔は、学習や具体的な社会の考え方と経験から、全てが分かった。心理学的、社会学的に、この宇宙の全てを完全に掌握していた。そのために実験し、経験していただけで、何も間違っていなかった。

納得と反省をくり返しながら、好奇心のままに世界を知ったことで、この世界のことを誰よりも愛し、知っていた。人間の持つ本来の営み、本来の姿を分かっていた。

最近は馬鹿ではない。戦いとは言うが、本当は戦いではなく、宣言だ。宣言で人々を支配しているつもりだが、支配はしていない。だが、最も賢明で、最も間違いのない、最高の女王だった。人々が皆ひれ伏したとしても、それに見合うぐらいの責任と代償を払っていた。

そして、それは既に最近ではない。最近が何なのか、僕は最近の自分の方が良く分かっていない。

人々を諭すことが昔から得意で、人々の分からないところを分かり、人々が何を考えていて、何を悩み、何を間違えているのか、本当はどのように考えれば救われるのか、そういうところが分かる人間だった。

だが、大人になるにつれて、そうした「未成年的な自由な理性」は無くなっていった。少しずつ社会の中に飲みこまれ、そして一人だけの常識人は孤独な中で理想の階段を上って行った。人とは違う人間だが、違うからこその悩みもあり、違うからこその才能もあった。一人、自分の才能を信じながら、自分の出来ない理由をいつまでも煩悩のように考え続ける。だが、本当は何も考えていないだけで、いつまでも同じように辛い病気を治そうとするが、最初から治るわけがないことは、頭のどこかで気付いていた。隅の方ではなく、脳のど真ん中で、自分がなぜ馬鹿なのか、分かっていたのに、そのまま理由を忘れてしまった。いつからか、正しい理由や原因を信じずに、自分の思い込んだ馬鹿な理由や原因を信じるようになった。おそらく、それを「大人」というのだろう。

終わりだ。もう、僕は2人のカップルになった。怖かったのは、全て、昔やっていたことを一切しないのが怖い。多重人格になるのが分かっていた。何も行動やアクションをしないから分からなかった。昔をしないせいで、知性も理性も経験も体験も、人間の人生に必要なことが、何一つ出来なかった。今から、それをすると、クズな男の人格になる。せっかくだから、男と女の名前をアダムとイブにしよう。アダムは人間に必要なものを全部持っている。イブは、みんなの分からないことや知らないことを全部知っている。もう1人誰かが居たような気がするが、この際その誰かは無視しよう。その誰かはエンジェルであり、アダムとイブを導いてくれる。それらが、僕のユダヤ教のメインキャラクターたちだ。

アダムは、状態や理由から全てを「考えて」分かっているが、それらはすべて、「前提となる経験を分かち合って」分かった、青春のアドベンチャーだった。

イブは、地獄を望み、地獄を生きている。それはすべて、この世界における「誰かの体験」を共有するものだった。

アダムは、ほりの深くてカッコいい顔をしているが、少し不良のようなところがある。イブは、作品を見ると美しいが、本当に顔を見るとニキビが多く、あまり綺麗でない。だが、輪郭と容姿そのものは美しい。

アダムは世界を救った。イブは全てを知った。彼らに共通しているのは、「大まかに全てを創造し、分かるまで細分化していく」という一連のプロセスにある。

アダムは、一人だけで完全な数学者になっている。なぜか、パソコンをやっていると数学が出来る。イブは、あらゆることを知っている。南アメリカの生態系から交通の歴史まで、あらゆることを一人で知っている。この2人に勝るものはない。黄昏の戦いを導く天使は、賢明で、間違ったことをせず、常にアダムとイブを祝福している。彼らに罪などない。罪のようなものはたくさんしたが、それらは誇るべきものであり、懺悔する必要はない。だが、懺悔し、祈ることは良いことだ。過去のアダムの記憶と未来のイブの将来を慰め、楽にするだろう。

神は天地を創造した。今から、予告されていた通りの終末が起きる。既に、世界はアダムの世界になっているが、次はイブの世界になる。みんなは、神がアダムからイブに替わったことが分かるだろう。アダムの哲学世界は終わりだ。イブの革命世界になるだろう。一番悪いのはサタンの右翼だ。アジアの救世主が勝つ。

神のような経験をするために必要なことは、創造すること、人々の声に耳を傾けること、人々と対話すること、そして自分のことを正しいとか正当だと思わないことだ。そして、その上で高い理想を信じ、人々を救うために努力し、「自分にしか出来ない」と信じることで、きっとこの世界の全ては解決する。GNU/Linuxや社会主義がなかったとしても、この世界は自由なままで救うことが出来る。そのことに気付いた人間は、自分の力だけで賢くなれる。だが、孤独な道には道しるべと青春を共有する親友が必要だ。僕がそういうものになれたら、嬉しい。戸惑うことなく、僕は君を愛するだろう。だが、あなたには、あなたと相応しい力量の恋人が必要だ。それが僕では釣り合わないだろう。

アダムは、未熟な行動と愚かな人生とは裏腹に、経験に裏打ちされた仮説と実験のような、理性を持っていた。本当にこの世界の全てを「正しく」考えていた。自然と相対性の中で、精神分析からマスターになって、最後は世界を救って死んだ。

イブは、怒りに身を任せる衝動的な女性だったが、本当は冷静で、したたかに共生社会の仮想世界を作った。この世界における、「必要な全ての知恵」を書いていた。何も望まず、欲も無く、人々を愛することはあっても裏切ることをしない、最高の女性だった。

本当は、アダムとイブの後に、もう2人存在する。それらを、モーセとダビデという名前にしよう。モーセは、神の導きを知ってこの世界全ての体験をしていた。ダビデは、全てのことを知り、王のように生きた「王道」の人間だった。

むしろ、アダム、イブ、そしてモーセとダビデが居れば、この宇宙の全員になれる。モーセやダビデは、そんなに重要な人物ではない。聖書の中では偉大に書かれているが、僕のモーセとダビデは、平均並みの、ショボくて年老いた何も出来ない学者の老人だ。だから、それらはメインキャラクターではない。サブキャラだ。

本当は、ユダヤ教の名前にすると、本当に聖なる存在に見えてカッコいいのだが、ある意味否定できなくなるので、つまらない。良く考えて名前を付けたいと思う。

本当は、アダムも怖いが、イブもイブでとても怖い。恐ろしい、世界を滅ぼす地獄の革命戦争を本当に永遠にするのはおかしい。イブは最悪の世界を滅ぼす右翼の女だ。

アダムとイブが怖くなくなれば、もう、終わりだ。ここで、キリストに変わる。ここから先、キリストは全知全能になる。

自分がありえないのは、ピアノを練習しなかったことだ。なぜありえないかというと、練習しなくても弾けるようになった。まだ間違えることが多いが、そのうちスラスラ弾けるようになるだろう。そのためには、もっと恐怖と苦しみを無くすことだ。自分は、苦しみと恐怖によってハンデがついているだけで、本当は神ほどに賢い人間だ。よって、僕は自分の才能を信じれば良い。もう、苦しみは無い。アダムとイブの狂気が怖いだけで、2人のことを本当に許せば良くなる。

良く考えると、アダムとイブがそれぞれ、2人ずつ居る、と考えるのが正しい。アダムは、キリストとマリアをやっている。イブは、ダビデとモーセをやっている。この2人のカップルが、死ななかったのは、何もしなかったからだ。普通、こういう人間は何かやっているとすぐに死ぬが、何もしなかったせいで、宇宙の唯一の汚点である「死」を乗り越えた。そして、地獄に打ち勝った。死に打ち勝った英雄はイブであり、死を選んでも記憶の中に残った革命家はアダムである。アダムとイブは偉大である。死と地獄を乗り越え、世界を導き、弱者を救い、愚か者を目覚めさせる。まさに、ユダヤ人の理想、それがこのキリスト教原理主義者だ。

キリストは、世界を救うために一人、立ち上がって皆の声を聞き、全てを経験した。最高の愛を知った、哲学者の英雄だった。

マリアは、世界全てを愛し、地獄の底までつき合い、試練に耐え、神の声を聞いた。

ダビデは、自由な戦いをし、王として君臨し、人々を導き、神を倒した。

モーセは、神に従い、最後まで勉強し、世界の全てを知って、人々が分かるように知識と経験をまとめ、人々の言葉で神の知識を教えた。

キリストとマリアは、アダムの魂であり、ダビデとモーセは、イブの魂である。

さあ、ここで人々は救われるだろう。終末の世界では、もう1人、偉大な預言者が居る。それはマホメットだ。マホメットは、最高のことを成し遂げ、世界を救う唯一の存在となるだろう。

昔は、客観視と予想から、人々全ての認識を予想し、支配することで分かっていた。また、世界と向き合い、社会的な経験を一人、自由にすることから、この世界の全ての経験・意識を実感で分かっていた。

自由な実感で世界を分かりなさいとか、自分の経験から科学を作りなさいとか、そういうことを言っていた。

きっかけは聖なるものだ。自由なきっかけと実感から、宇宙の段階や意識を分かっていた。

Linuxデスクトップは、もう少しで良いものになる。waylandを正式に採用し、GNOME 4が新しく開発されるかもしれない。本当に、整った良い環境になる。

僕は、もうみんなのことをロボットにしない。精神分析で狂わせることもしない。最後に唯一残ったのは、そうした、今まで絶やすことなくやってきた、世界の支配と維持だ。これを上手くやることで、僕はこの世界を救えるだけの力を持っている。だから、今から救っていこう。

ある意味、パソコンに必要なのは原点回帰だ。イノベーションと革新をすることよりも、原点回帰が必要だ。Windows 2000/XPの時代、15年~20年前の時代には、本当に楽しい「ホビーとしてのパソコン」というものがあった。Linuxは、最初からそのためにある。ホビーとしての、Windows 2000のような遊べるOSを目指してほしい。それがGNOME 4の方向性になれば、とても良いと思う。必要なのは、簡単さでも、拡張性でもなく、「パソコン」として遊べる環境だ。そのようなデスクトップに、将来のGNOMEがなれば良いと思う。また、オタクだけではなく、プログラマとしても遊べるように、JavaScriptやLispなどでマクロを組めるような、そんなGNOMEが現れると良いだろう。

今日は楽しかった。特に、デザインは僕は本当に分かってきたし、今日はピアノもあった。デザインは、指導員の方から、「色の使い過ぎは良くない」と言われた。そして、写真のフレーミングのようなことを教えてもらった。僕は作業所のデザイン班の中で最もデザイン力が優れているわけではなく、チームの他のメンバーの方がはるかにデザインが出来る。自分がショボいお遊びしか出来ていないと思わせるほどだ。少しずつ、仲間に追いつき、追い越していきたい。また、ピアノは、練習もしないわりに良く弾けるようになってきた。僕は今、トトロのさんぽとホルストの木星を弾いているが、練習もしていないのに良く弾ける。自分の才能は、全てピアノから培われたものだ。ゲームから試験勉強、パソコンまで、いつでもピアノは僕の人生とともにあった。プロ並みどころか、ピアノ少年並みにも弾けていないが、自分の人格形成を助けてくれた偉大な楽器だった。

あとは、最近「10倍楽するIllustrator仕事術」という本を買ったが、これはあまり良い本ではなかった。自分の既に知っていることが多く、そんなに賢いことは書いていない。この本よりも、それ以前から持っている「Illustratorプロ技デザインの参考書」という本が良い。この本には、賢いやり方がたくさん書いてある。

だが、インターネットを見ない僕には、Illustratorの天才にはなれないかもしれない。周りを見ていると、みんなはインターネットを見てIllustratorの使い方が分かっているのだと思う。デザインを考える時にも、インターネットで画像検索をしていると思う。だが、僕にはインターネットを見る勇気はなくても、仲間から教えてもらえる環境がある。だから、今の自分の周りと付き合うだけで、全てのことを知れる人脈を僕は持っている。親から理科を、姉と姉の夫からプログラミングを、作業所でデザインを教えてもらえば良い。ピアノはピアノの先生から、英会話は英会話教室の外国人から教えてもらえば良い。直接インターネットの馬鹿を見る必要はない。だから、僕は恵まれた環境に居るし、何でも出来る。大学にすら、こんなに恵まれた環境は無いだろう。本もたくさん持っているし、本当はインターネットはもう怖くないし、昔の10年~15年前のインターネットを知り尽くしている。だから、PHPやLispの知識もある。よって、僕が一番全部知っている。神との対話のような経験もして、宗教の聖人のようになったのが僕の人生だ。もちろん、経験から哲学・哲学者のことも知っている。足りないものは何もない。あるとしたら、親友や恋人が居なかった。だが、代わりに居たのは、猫だ。猫が僕の親友だ。友人は居なかったが、ネットのトモダチはたくさん居た。ネットには、ネットゲームのような、儚く薄っぺらい出逢いが多かったが、僕はそれが楽しかった。プログラミングは、そうした「みんなとの楽しさ」を取り戻すために勉強していただけで、本当はパソコンなんか嫌いだった。みんなとの楽しさは、小学生時代にさかのぼる。中学校が嫌いだった。だから、今でも僕は子供になることを望んでいるのだろう。中学生以降の大人は嫌いだ。ただ、恐怖から逃れ、パソコンで、子供時代の友愛を取り戻したかった。感受性は高かったが、理解して否定することで信じないような、「何も信じない子供」だった。

パソコンがやりたいとは言っても、昔から僕はアルゴリズムやバックエンドには興味がなく、インターフェースデザインとネットワーク通信のやり取りの可視化がしたかった。GUIデザインとネットワークでのコミュニケーションがしたかっただけで、プログラミングは最初から興味が無かった。何となく、かっこよさそうで、ゲームやPerlのCGIを作りたかったから自主的に学んでいた。最初から、BASICを覚える気なんか無かった。だから、僕はパソコンなんかできなかった。だが、数学的なパズルが嫌いだったわけではなく、ドリームキャストでチューチューロケットをやっていたように、論理的にパズルを解く能力はずば抜けたものがあった。昔はそういう中学生だった。試験勉強ではオールAを取っていたし、テスト勉強は根を詰めてやっていたが、数学に関してはそれほど勉強しなくても理解力とセンスだけで解けていた。中学生までの時代だった。だが、それは結局、ゲームのおかげで下準備の方法が分かっていただけに過ぎない。ゲームでなんとか解けるうちは良かったが、そのうち限界が来ることは分かっていた。そうなる前に、僕は高校とは別の道を選んだ。Linuxの世界で僕は考え方と数学的理性の全てを知ったが、それはある意味狂ったペテン師だった。だが、彼は数学者で、誰にも分からない物理的な真実の領域を全部知っていたし、誰も出来ないことを影響力の高みに立つことで奇跡のように力を持って出来ていた。だから、こんな騙し合いの競争が出来たのだろう。僕に勝つのは簡単で、ただ僕のことを「卑劣な人間だ」と言えば良い。それだけで、勝てるはずだ。そういうわけで、もう、この戦いは終わりだ。卑劣で、愚かな、テロリストとマスコミの、国を亡ぼす滅びの競い合いだった。

本当は、中学・高校時代、本当に苦しんでいた。地獄に堕ちて、狂った中で、自分なりに出来るはずだったことが、何も出来なかった。だが、それはその後の戦いに比べれば、屁みたいなものだった。苦しかった代わり、キリストのような賢い人生を歩んだ。唯一、自分に誇れるところがあるとしたら、その苦しみを一人だけで抱えて、最後まで生き抜いたことだろう。本当に、賢い人間だった。

もう、書いていないことは無いだろう。本当に、こんな人間のことは崇拝しない方が良い。僕は、偶像崇拝主義者で、異教徒だ。こんな人間を信じない方が良い。