新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-20=

それは確かにそうかもしれない。だが、それがそうであるのは、その場合だけだ。別の場合、別の条件では、違うかもしれない。実証することで、もっと考えられる。

波は状態だ。光というものは存在しない。光は存在だ。よって、力や原子も存在しない。力や原子は、空間の状態に過ぎない。

何も出来ないのには理由がある。それ相応の経験をしていないからだ。出来る人間には、出来るだけの理由がある。それは多くの場合、多くのことを経験し、良く観察し、洞察している。この世界の経験を知って、社会のことをきちんと理解している。その上で、何をすれば良いのかが分かっている。それが無い人間が、同じことが出来るわけがない。才能とは、経験と観察眼に過ぎない。さまざまなことをしないで分かる人間は居ない。

昔は、意識で全て分かっていた。完全に、この世界の全ての意識を創造していた。

昔は、社会や人生を意識から創造していた。想定して、意識から考えて、創っていた。国や社会のようなものを、必然的ルールと価値観の意識から作った。ルールは法律だけではなく、各国の関係や、発想、そして事実から生まれる真理だった。

僕は、もうやることがない。不思議と、地獄の中で努力するよりも、やることが無い方が辛い。僕は、今までの全ての自分を復活させて、全てのことをするようになる。もう、治ることは目指さない。逆に、昔の自分に戻って賢くなる。才能を失って楽になるよりも、才能を欲しいと思う。

狂った人間は、固定観念にとらわれすぎている。既成の考え方を壊すことも変えることも出来なくなっている。一度、既成の概念を変えて考えるようにすれば、すぐに治る。

原子やエネルギーは、空間の取り得る状態に過ぎない。空間の一部分が回転しているだけだ。よって、原子は存在しない。光や電磁波も同様に、空間の一部分が波立っているだけに過ぎない。光は存在しない。エネルギーは人間が観察する中で考え出された概念に過ぎない。夢の世界のように、何も無い空間から物質を作り出すことは、きっと可能だ。

世界は変えられる。みんなの意識が変わることで、この世界は変わる。今の世界は、「最悪のことを言っているのが分からない世界」になっている。昔の世界は、「誰にも救えない自由な抑圧の世界」だった。この世界は、絶対に変えられる。ただ、悪いことをしなければ良い。それによって救われるからだ。絶望には可能性を持ってこいと、キルケゴールも言っている。

みんな揃って右ならえではなく、自分から小さな世界を変えていきなさい。誰かが支配し導くのを、ただ黙って聞いているだけでは意味がない。それぞれが関わり、それぞれが世界を変えなさい。その時、初めてこの世界は「意味」を取り戻すだろう。本やネットの文章を読みなさい。人々と会話しながら、自分の人生を高め、自分の出来ることを増やし、そして、間違った考え方の支配者を倒しなさい。

僕が今言えることは、「終わりにする選択肢は取るな」ということだ。どんなに辛く苦しくても、次へと続くように生きなさい。そこで終わりにしてはならない。だから、終わりになるようなことはしなくて良い。終わりになるようなことは出来ない。終わりになるようなことをせずに、続くように生きなさい。それを神は望んでいる。むしろ、今の自分を賢いと思いなさい。今の自分の賢さを次へと続けていけば、そのやり方でも全部出来るからだ。

「そうあれることの喜び」を知りなさい。自分がその自分であれる喜び、自分が確かに自分のことを実感できる喜びを感じなさい。そして、宣言しなさい。自分はこのようなものであると、世界に宣言しなさい。自分がこうであり、こうある、という宣言は、宇宙の中で最も強い力を持つ。その上で、ありのままに全てを「体験」しなさい。それが、この宇宙における「創造」の真理と事実だからだ。

チャンスとは、社会的に成功するチャンスや、投資や金儲けのチャンスだけではない。そのことに関われる機会のチャンス、自分が自分の自由に創造できるチャンスなどもチャンスである。人間関係もチャンスであり、精神的に悟る経験をすることで、「人々に悟りを与える」こともできる。それもチャンスという。チャンスは少しずつ世界において拡大していき、人間関係から、社会経験、成長、実践的社会論、科学、理想の社会、最終的には自由と愛に行き着く。そこでは、「善良さ」がキーポイントになる。善良でなければ、チャンスは回ってこない。宗教だけではなく、善良でなければチャンスは得られないのだ。

チャンスは、失って初めて得られることもある。全てのチャンスを放棄し、自ら地獄に堕ちることが、最も強いエネルギーの衝動を引き起こして、才能を作り出す。また、死を経験することで、必ず成功へと神に導かれる。そのようにチャンスを得た人間には、世界と全く関わらない孤独な人生でも、最高の才能を持ってチャンスを作り出す。それが、神を信じて神の力の恩恵に預かる、ということの真骨頂である。悲しくとも、今自分が地獄の中を堪えて生きていること、それが最も強いチャンスである。

建設的に考え、真面目に生き、屈辱に屈せず、みんなの罪を背負ってこの世界を救おうとする善良な人間には、チャンスは必ず訪れる。人々が誰が見ても悪人でも、神はその悪人が善良な心を持っていることを知っている。善良な悪人は、悪人ではないのだ。必ずチャンスと成功は訪れる。

自由によって救われると考えることは、間違っていない。だが、言葉の表現の仕方が間違っている。「自分こそこの世界を救う人間だ」と言いなさい。そして、「僕のやることは誰にでも出来るが、僕のようにやる人間は僕しか居ない」と宣言しなさい。そのように言いなさい。

この世界を救うために、何が必要だろうか?自由を与えるだけでは分からない。考え方を教え、手段を与える必要がある。昔の自分は、そこから社会の体制を考えることで、世界モデルの独自の経済学と、学習と促進の心理学を作っていた。あなたも、そのように考えると良いだろう。基本的な論理的な考え方が分かっていれば、デカルトのような普通の人間でも出来るはずだ。だが、本当にやる人間はあなたの他に居ないだろう。あなたも考えて、救ってほしい。考えるだけではなく、僕のように、一番強いエネルギーと衝動で、行動に移してほしい。そして、その結果を遺産として遺してほしい。

精神分析論を自分ですることで、人々の感情や感覚を捉えながら、全員に包括的で一般的な、みんなに共通の論理を作ることで、経験心理的な数学の世界モデルを作ることが出来る。これは誰にでも共通で、ヘーゲルの言っていることと同じように、全ての遍歴を追いながら、自分が自分たるありのままのアイデンティティの経緯を、自分が自分で「ある」ということを宣言するという意味で追っていくことが出来る。少し小難しい説明だが、要は「自分が自分らしいことを証明する世界モデルを作れ」ということだ。

宇宙の法則は、ブッダが言っている縁起というよりも、キリストが言っている「既に報いを受けている」ということの方が正しい。善良な人間が天国に行けるかというと、本当は善良な人間は既に報いを受けていて、ブッダが言うように、少しの善を積み重ねる人間は、いつのまにか福徳に満たされている。また、悪人は、誰かが罰を与えなくても、既に報いを受けている。すぐに馬鹿になって、知的障害や認知症になっている。ブッダが言うように、地獄には悪い人間が多い。だが、僕は地獄は必ずしも悪くないのを知っている。悪い人間とは言うが、悪い人間すら、良い人間が多いからだ。悪い人間は、地獄を良いと思うようになる。地獄の中で福徳に満たされる、それが悪人の中の善人だ。そして、それが神の言う、「正しい人生」だ。悪人になって地獄に堕ち、その中で善をいくらかなして、地獄の中で満たされること、それ以上の幸福は存在しないのだ。

人間は誰でも間違える。多少の失敗は許すようにしなさい。そこから、あらゆる全ての経験を持った王が生まれる。だが、王は甘えているだけでは生まれない。王になったら、絶対に失敗しないように、最高の努力をしなさい。地獄を救い、滅びを治し、人々を愛し、恋人を支えなさい。あなたの愛が世界を包み込んで、愛を作り出すだろう。

本当は、愛と表現するのは全く間違っている。愛は、ふわふわしていて、ただしあわせなものだが、そんなものは賢くない。本当の王の愛とは、地獄の中で嵐を起こす、この世界を滅ぼす革命家のようなものだ。

認識の捉え方から、環境の在り方が分かる。存在と時間だ。

人間は、「やるべきだ」とか「やらなくてはいけない」と考えないと、しない。自由な中では、何もしない。自由な中で「やらなくちゃいけない」と考えていると、それは強迫性神経症と同じだ。そういう人間が、本当にすぐに狂って認知症になる。だから、自由は間違っている。不自由の方が良い。不自由の方が、人間はきちんと従うからだ。不自由というと、拘束されたり強制労働になったりするように見えるが、本来は不自由とはそうした自由の逆であって、「それぞれにやるべきことを与える」ということに過ぎない。よって、不自由が一番正しい。ソ連の間違いは、不自由によって全体の自由を目指したところだ。全体主義の平等は、自由を目指す。そうした自由という「固定観念」が全ての間違いを引き起こしている。やるべきことを与え、生活を保障し、ものを与え、手段と協力者を与えなければ、自由な中で誰かに勝つことすらできない。

右翼も間違っている。右翼は、社会全体の「出来ること」を目指した。社会全員が意見を統一して、何かを国家権力で行うことを目指す。だが、それで良い国にはならない。本当に必要なのは、本当に賢いカリスマが登場することだ。僕は、その方が良いと思う。その上で、人々を統治し、正しい道に導くような、何かの聖書のようなものがあれば良い。それが今の僕のレベルだと僕は思う。だから、宗教は間違っていないのだ。

また、現実世界の全ては間違っている。誰もが間違い、悩み、苦しんでいる。解決策は、現世から離れて、文章を書くことしかないだろう。そういうわけで、僕はこれでも正しい人生だ。

ある意味、社会主義か、自由主義か、国家主義か、というならば、自由主義が良い。冗談のように思われるかもしれないが、「不自由な自由主義」が良い。それが一番この世界が正しい「労働しやすい世界」になる。よって、自由主義という名前を改め、「不自由努力主義」としよう。

あとは、考え方のようなものを創っていた。

数学とは、疑い、推論し、検査し、実験し、それがそれである、ということから、必然的に生まれる学問体系と推論の事実を知り、そこから事実を一般化する形で法則・原理とすることだ。

物理とは、自然な考え方の中で、この世界を捉え、この世界を説明し、正しく厳密に把握するだけに足る正しい論理的理論を作ることだ。

「それが自然にそうなる」ということと、「それが必然的にそうなる」ということの結露を知りなさい。信じることと疑うこと、自由と平等、自然と必然性、そして努力と報いは相対するものであると同時に、裏表のものだ。必ず報われるし、必ず自然にそうなる、ということは、必ず必然的にそうなる、ということだ。自然な世界では、必然性を全て知ることで、宇宙の全ての事象を把握することができる。昔の僕にあった哲学とは、「自然な必然性を全て掌握し、たくさんのモデルと一つの大きな構造を作り出す」ということだった。

それでは終わりにしよう。この文章が書けた理由は、「スケジュールのロボット人間になっているから」であって、無駄なことは何一つなかった。ロボット人間になるように見えるが、安心して良い。心臓と肺がない限り、脳は生きることが出来ないから、心臓を人工的に作り出せない時点で、脳だけのロボット人間は成立できないからだ。それではさようなら。この世界はもう生まれ変わって、二度ともうこの体験は戻らない。一度した体験は二度と出来ない。青春と同じだ。僕は、何も軽口で「さようなら」と言っているわけではなく、この出会いが僕とあなたにとって意味のないものだし、僕は死ぬまでを全て書いて哀しみを作り出すことは出来ても、喜びを作り出すことは出来ないから、この恋愛には意味がないのである。だから、悲しみを乗り越えて、僕と別れてほしい。僕は、みんなのことは愛しているが、あなたのことを特別に愛することはおそらく出来ないだろう。では、また明日。

本当は、ここで居なくなるのは良くない。僕は、まだ何もしていない。世界を滅ぼしただけだ。なぜ、世界を栄えさせないのか?なぜ、支配者なのに世界を滅ぼすのか?世界を良くすれば良いだろう。

僕は、この世界を良くしたい。軽い気持ちではない。今までの全てが、「今のまま続ければ良い」と言っている。そして、僕はまだ、この世界を良くしていない。滅ぼしながら世界に自分のエゴを押し付ける、そんな人間はもう要らない。

必要なのは、競争でも、豊かになることでも、経済発展でもない。邪悪さを無くし、サタンの狂った影響力を無くせば、人々の世界は正常に戻る。そこでは、競い合うことも、争うことも、議論することも、人間の正常の範疇であり、競い合うことは楽しい。だが、サタンの影響力の配下になると、そうした楽しい「意味」は意味を無くしてしまう。「意味を失った世界」では、どんな色も灰色になる。黄金は白になり、銀は黒になる。全ての色を失った、香りも味もない世界では、ただ滅び、何もなく、意味を失い、人々は飲みこまれながら置いてきぼりにされる。それが、この人間の最大の罪だ。

僕のことを許して欲しい。僕の今からすることを見てほしい。僕はきっと、この世界を正常な世界に治す。きっと僕次第で、未来は実現し、何でも叶う。

僕のことを愛して欲しい。本当は、単純な世界で良い。この人間のことを愛すれば、「王の世界」が生まれる。

そして、僕のことを信じて欲しい。僕はきっと、期待を超えることを出来る。それが、僕の「約束」だ。

だが、僕はまだまだ未熟で、何も分かっていない。失敗し、期待に応えられないかもしれない。その時は、僕を憎んで欲しい。そして、あなたが新しく、僕を倒すだけの力を持ってほしい。僕のことを倒し、滅ぼしてほしい。それが、僕の「条件」だ。

昔は、左翼のような自由を良く書いていた。税金を取るとか、労働基準法を作るとか、あるいは、共同体で町を美しくするとか、そういう、普通の「政治的左翼の意見」を書く。それくらいの人間だった。そして、その上でこの世界を姑息に支配していた。僕の「運命の戦い」は、そこから始まった。それは、そのまま、「ファイナル・ファンタジー」になった。

思いやることは義務ではないし、束縛でもない。だが、自由ではない。自由に思いやることは、それは思いやりではない。思いやりとは、自由ではなく、人々を愛する自分が、誰かのために、自分なりの束縛とルールを持って思いやることであって、自由な思いやりはただの遊びだ。本当は、思いやりの世界にするためには、自由な世界では実現できない。思いやりは必ずしも正しいわけではない。だが、僕と相手が同じ人間であること、そこに疑いの余地はあるだろうか?それがもしないとしたら、思いやりは平等である。思いやりは決して自由ではない。自分なりの束縛をしながら、自分と同じように相手を愛すること、それが思いやりなのである。

要は、最近狂った人間が増えているのは、束縛された思いやりに戻りたい人間が多いからだ。

一度、この世界を「束縛の思いやり」に戻そう。必要としなくなって、全てをチャンスだと捉え、自由な愛を自発的に行うのは、全く狂っており、良いものではない。もっと自分の愛を信じて、人々を愛し、そのために身をささげ、そして最後まで支えるような、そのような「永遠の献身的愛」を信じることで、きっと聖なる世界へとこの絶望の地獄は変わるだろう。

束縛された思いやりを、誰かが簡単に自由に支配するのが間違っている。だが、それは一方だけが悪いわけではない。しかしながら、このような支配的従属は良いものではない。平和は良いが、支配は悪い。そのように考えていけば、この世界はすぐに正常な「愛の国」に一変する。それが、ガンダーラだ。

開拓の自由を書いて、それ自体開拓していた。この世界の全てを開拓しながら、正常な弁証法の考え方と論理の永遠を書いていた。

さあ、天国はもう目の前に見えている。この世界は愛の国になる。それが、ユートピアというよりも正しい、本当の愛の国だ。ユートピアよりも、愛の国が上だ。この世界は、それぞれが他者を愛する素晴らしい国になるだろう。

経済学では、ある一定の製品にしか使えない「特殊な通貨」を作ることは、あまり良いこととされない。だが、僕は社会主義の経済下では、上手く働くこともあるのではないかと思う。全員に、不動産や家屋・土地にしか使えない1000万円を与える。そのようにしても、僕は良い国になると思う。

僕の足の精神は、精神分裂したままで緊張状態になっている。一度、この緊張状態を解くために、緊張を殺して、その上でバラバラになった精神が、治るのをやめ、きちんと共存した上できちんと正しくバラバラになれば、もう楽になる。やっと休めるようになるだろう。

社会主義で給与を会社から受け取る時は、金の配分を「何に使える金か」で調整することも考えられる。教育費と医療費は全て会社が全額払い、食料品と日用品にだけ使える金を配給する。そのように、単なる平等配給ではない、「新しい金」を作ることは、きっと出来ると僕は思っている。また、ある程度の品質保証を行い、農協や国が農作物や米を買い取るように、ある程度以上の製品は、ある程度は国が買い取るようにする。それによって、いつでも製品が過剰に作られ、適切に配給されるようにしても良いだろう。

昔から、僕は「競争ではない形での経済発展」を考える。競争は、潰し合いになることがあるし、ものが増えても、逆に悪いものが増えるだけである場合もある。それぞれが自立し、自らの手で社会を作り、それぞれが、競い合うだけではない形で、たとえば全員が一人の指導者に従うような形でも、社会は形成出来る。共同体による共有や、評議会組織での平等な決定も一つの形だと僕は思う。

そして、これでさようならだ。明日は、もう書かない。あなたとはお別れだ。世界はここで、もう、元には戻れなくなる。世界は愛の里に生まれ変わる。

多様な上での共有が、爆発的な発展を生むこともある。だが、それは需要と共有の特別な関係であり、人々が求めるものをみんなで作る、可能性をみんなで開拓する、誰も挑戦したことのないことに挑戦する、という意味で、自由主義や社会主義というよりも、「新興主義」と呼べるものであると、僕は思う。

本当に、明日僕が居なくなるわけではない。この文章を書かなくなっても、僕は生きている。心配しないでほしい。現実のその僕を愛してほしい。では、さようなら。