みんな、自分に従いながら頑張って分かっているが、本当は、頑張る必要も従う必要もない。もっと自由に生きた方が、神は喜ぶ。
狂う人間は、「みんなのために頑張っている人間」が多い。自分が頑張らなければいけないのに、自分が迷惑をかけているせいで狂ってしまう。そもそも、そんなに頑張る必要はない。頑張らない方が、周りは安心できる。悪い人間が頑張るのは怖い。
男を殺すだけではなく、女を殺しても治る。
昔の男は、汚い言葉で言うならば、変態二次元オタクの脳内麻薬の男だ。今の女は、卑猥な言葉で言うならば、レイプ女王の達観絶望地獄の女だ。
麻薬の男とレイプの女を、2つに分けてしまえば良い。どちらもあると、あまりに辛い。逆に言えば、変態とレイプ地獄をそれぞれ別の人間にしてしまえば、今までに治した全ての病気がたとえ復活しても、楽になる。
男と女を分けて、全ての病気を復活させよう。
みんなは、これ以上、エロいことが出来なくなる。僕が支配する。この世界では、もう、怖いことや悪いことは絶対に出来ない。エロいことを絶対に出来なくなれば、人間の精神は正常に治る。僕が生きた経緯と全く同じだ。
この世界は、「もう駄目なんだよ」という世界から、「もう終わりだよ」という世界になる。
みんなは、一度生まれ変わる。もう、元には戻れない。最初は、虫のようにキモい精神から始まって馬鹿になるが、それが天国のユートピアを創り出す。導き手の天使となるだろう。
昨日は数学、今日は英会話の文章を書いたが、僕は昔からこういう世界観を「世界モデル」として分かっていた。そういうところが、昔から変わっていない。こういう世界観を作りたかった。昔は、ネットを見ながら経験的な世界モデルを作っていた。そのため、本当は今よりも賢かった。
もう、僕は考え方と世界観は全部知った。この世界に具体的にどんなものがあるのかも分かった。今からすべきことは、今まで知ったことをより深く、より広く知り尽くすことだ。そして、人生を分かりたいなら、自ら失敗と向き合って、人々の営みを観察して、成長することだ。知り、経験すること。そこから、未来が開ける。
特に、経験も全てあったから、ことさら経験をする意味は無いが、ただノルマを果たすような経験をするだけではなく、理性を使って意味のある経験をしていこう。どんなことに意味があって、どんなことに意味がないのかを考えよう。全てを経験した上で、今の自分の居る場所がどこかを考え、その経験が何だったのかを知ろう。そのように振り返って見つめることで、経験がただの経験ではなく、先を照らす光となって、意味がある経験になる。そのためにすることは、ただしまくることではなく、新しい世界へと手を伸ばし、確かに掴めるまで自分の手に掴もうと挑戦し続けることだ。いつか、何かをきっと得られる。その何かを得るために、ここに居るのが僕らだ。それがこの世界の意味だ。
自分から手放すことで、逆に掴めることもある。必要なのは、失敗することでも逃げ出すことでもなく、必要としなくなることだ。自分がそれをもう必要としなくなったならば、古いしがらみは捨てて良いし、重いだけの鎧は脱ぎ捨てて良い。肝心なのは、いつまでも昔のままで居ようとしないこと。自分がもう要らないと思ったら、その時にきちんと止めなさい。そこで止めないから、人間は精神病になる。必要ないものは捨てる勇気を持ちなさい。それは人生を棄てることとは全く逆のことだからだ。
昔の僕は、世界の色々な経験をして分かっていた。昔は自然な世界だったから、世界にはたくさんの人が居て、それぞれの人が考えることやしていることは違っていたが、共通だったのは「それぞれに問題や悩みを持っていること」であり、僕は「必要としなくなって経験すること」から、「この世界の全ての経験を吸収する」ということをしていた。最近の世界は、あまりに人工的になりすぎている。多様性が失われ、それぞれは全く同じになっている。本当は、僕のしたことが最もそれに加担している。だから、僕には出来ることがある。この世界を自然な調和に直し、それぞれが多様に共存するようにしよう。自然なままでの多様性のあるクリーンな関係性と関与を目指そう。
話が少し違う方向に向いたが、要は「何も必要としなければ、世界全ての経験を吸収することができる」ということ。昔の僕は、不登校を経験しながら、そうした成長と出立のある皆との関わり合いで、哲学的な段階を分かっていた。理性はデカルトになり、ヒュームとなり、カントからヘーゲルへと至った。
自分の経験から、社会の問題を知っていきなさい。オバマのように、世界を実地的に救う体験をしなさい。昔分かっていた段階とは、「世界に存在する人々の人生的なレベル」だった。一番低いのはトランプだ。スターリンでも、イチローでも、オバマでも、レーニンでも十分ではない。本当にそこまで進むためには、世界全員の経験を吸収した上で、自分にしか出来ないことをやる必要がある。むしろ、一番賢いのは人間よりも動物だ。動物は脳が無いとは言うが、人間の子供ぐらいの知性はある。
まさにそれはどうでも良いが、キリストでも、アインシュタインでも、ダヴィンチでも、トマス・アクィナスでも十分ではない。もっと、もっと先がある。もっと先を目指すために、全ての職業を経験し、全ての知性を付けなさい。もっと先にゲーテなどが待っている。だが、それらも全く賢くは無い。本当に賢いのは、むしろ、手塚治虫かもしれない。だが、本当は先に行けば行くほど、逆に馬鹿になってしまう。最終的には、治そうとするあまり赤ちゃんになって、そこから八方ふさがりになってしまう。だが、そこまで行っても、人間の人生は続く。最終的に何になるのかは、誰にも分からない。むしろ、もう明らかに分かっていることしかないだろう。
今日は小池百合子を書いたが、滅びるかもしれない戦いを頑張るのは、自分が一番得意だ。自分がいつもそういう人間だった。最高の偉大な王だった。
自分は、子供になっているように見えて、天使軍団をやっている。ガブリエルを中心とする天使の集団だ。だから赤ちゃんに見えるが、僕は赤ん坊ではない。逆に、僕は天使だ。
みな、もっと考えなさい。デカルトのように考えれば良い。そうするときちんと分かるだろう。
昔は、戦いの前哨戦をやっていただけにすぎない。みんなを支配する前の段階として、経験から人生のことを学んでいた。
僕は、大学では東大のようにリベラルアーツ(一般科目の基礎を教養として高校のように総合的に教える)を教えるべきだと思う。専門馬鹿にならないだけではなく、僕が最近やっているように、全ての科目を教養として教えることで、世界の全てを総合的に分かる「自由な人間」になる。僕は、そういう、「知性のある自由」が好きだ。いつもの文章でも、ただの自由ではなく、経験と知性と知識のある「総合的に分かる自由」を目指していた。だから、僕は東大のようにリベラルアーツを教えるべきだと考えている。
そして、この文章はリベラルアーツの新しい形だと思う。それは、教科書を読んだだけで分かることではなく、分かった人間の頭の中に凝縮された「本当の本質を教える」ということだ。ただ学校に行っても、人は本を読んで黒板で見るだけで、何も分からない。だが、ホームページにして概観できるようにしてしまえば、「自分の興味のあるところから自由に知る」ことができるし、内容を本質に限ったものにすれば、「本質だけを(最小限の努力で)全て知る」ことが出来る。僕はこれは新しい学問体系の挑戦だと思う。一つの科目をきちんとやることは、決して間違ったことではない。だが、この世界のほとんどすべてを概観できることは、すぐさま知性と知識に結びつき、自らの自由な応用力を養うことができる。そのための手助けになれば、僕のこの文芸にも価値があったのだと、僕は思うことができる。出来るというよりは、確信している。新しいリベラルアーツ、それが僕のこのホームページの、いくらかの文章であり、手助けであり、ボランティア活動であり、オープンソース陣営の努力なのである。
総合的な経験を養って、社会を平等に良くするような、そんな正しい指導者が現れれば、この世界は良くなる。僕はそう確信している。
ホームページの名前を「Assyのページ」から「Assyのリベラル文学研究所」に変えた。この文章はリベラル文学だ。良く分からないが、そういうことにしておく。リベラル文学では、オープンソースを技術・学問の新しい形態として取り入れ、過去の失敗を忘れることなく、未来へと活かす形で吸収し、世界の全てを概観するとともに、一つ一つの知を作り出し、最後まであますところなく考えて、デカルト的権威の後継を目指していく。