新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-16=

昔は、世界の心理学的な歴史のようなものを書いていた。環境への適応のようなことから、心理学的な歴史を書いていた。

精神がおかしいのは、何とかして融和すれば治る。昔の自分に今の自分を吸収させれば良い。あるいは、殺して食べれば良い。

ドイツを倒す方法とか、ロシアを成功させる方法とか、「国」という発想が多かった。国を書いて分かっていた。

おかしいのは、分裂でも怪我でもなく、心だ。心を治せば、病気は治る。

昔は、実験し、知性をつけ、世界を変え、科学を作るような、「蓋然的(たぶんそうだと思うこと)に世界のことを分かっていく合理的なプロセス」を書いていた。

対処策から、自由な「正論」を書いていた。相手のすることに対して事前に対処する、ということから、思考力と仮定力をつけ、「自由な社会制度の必然性」を分かった。出来るだけ、法律や制度を決めず、自由にするべきだが、問題が起きる前に対処することが大切であり、自由の理性であり、正論や正義であると考えていた。

共同体の自由よりも、個人の自由を尊重しないといけない、というのが正論だ。人間は社会の一部ではない。そして、社会の平等を考えるならば、国として統一すべきではない。それぞれの社会が柔軟に、合理的に、それぞれの自由に作られるようにすれば良い。それが、正論だ。正論とは、その人がその人の自由に自分のことを決められる、ということであり、決して正義を信じることではない。

ある意味、平等な世界にしたいのもおかしくはない。だが、特定のグループが平等を押し付けるのではなく、みんなの意志で平等な社会を作るようにしていかなければならない。よって、社会主義よりも民主主義の方が正しい。民主主義は、正論から言って、みんなの手でみんなのことを決められる。それが一番「自由意志」という側面からいって、正しい。民主主義が栄えるのは、明らかに民主主義が正しいからだ。

昔と今を融和させたいなら、昔やっていたことと今やっていることをどちらもして、同じ人生として普通に思い出せば良い。そんなに分けたいせいで、脳が破綻している。人間は、多重人格になると脳が破綻する。多重人格は何も良いことではない。脳が死んで、何も出来ない地獄になるだけだ。

思考をたくさんすること。

間違った言葉づかいをしないこと。間違った言葉を使わないこと。

昔は、人々と苦しみや辛さをネットで分かち合って分かっていた。そこが賢かっただけだ。

今日は、作業所では写真撮影をやった。僕はスマホなどで写真を撮った経験があまりないため、苦手だと思っていたが、やるとそんなに難しくは無かった。

今作っている通信のデザインで使う写真を撮影した。明日と明後日もあるから、また頑張りたい。