新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-14=

昔は、この世界を救うだけの偉大な愛があった。苦しみの中で、愛を信じ、経験と理性から全てを悟った。

絶望の中で、僕は愛を信じた。この世界を必ず救うと誓った。それが、僕の約束だ。

自分は疑わない。病気は必ず治ると信じている。この世界についても同じだ。必ず救えると信じている。

そのために、全ての世界のことを考え、全てを知る独自の道を歩んだ。

僕は、キリスト以上の存在になる。

世界を見て、人々の愛を知った。助け合いと慈愛の精神から、人々との愛の絆を分かった。人々の迷いは、自分の迷いから解決できるようになった。

影響力を知って、人々の自由な営みにおける、自分の出来ることを知った。

あとは、ネットで全て分かっていた。そういうことを書いていた。

迷いや戸惑いは、きちんと理解することで晴れると考えていた。この世界の全てが解決でき、正常へと治し、導くことができると分かっていた。

人間は、新しいことを知ることで自由になる。そのためには、具体的なものを全て可能性に直し、決定されているものを決定をまだされていないものへと直すべきだ。

自由になりなさい。自らの意志で考え、自分の考え方で世界と人生の全てを開拓しなさい。自らが知ったことのみから、分かりなさい。

環境への適応、影響力と社会、所有と共有、問題の解決、そして目的と前提条件を、仮定と成立から考えていた。

この文章は、映画にはならない。だが、新しいカードゲームになるだろう。

最近は、完全におかしな世界で独り、神をやっている。だが、この神は全く神ではない。サタンの神だ。

社会の変化の可能性を考えた。どのようなものを作ればどのようなものに見えるのか、見え方と実現結果を想像力で考えた。全てを人生の経緯として、変えられるのだと知った。

文章には、社会の変化の可能性と実現性を全部書いていた。社会における「提案と意見」のような文章だった。

もう終わりにしよう。これ以上は、病気を治すだけだ。

子供のように悪く馬鹿になると、怖くなくなる。餓鬼は馬鹿に見えて、地獄よりは賢い。子供になると、楽になる。大人を最後まで終わった人間は、餓鬼のようになる。

GPLをウィルスと言うが、本当はコミュニティの自由だ。コミュニティの権利を守りたいだけだ。

みんなを馬鹿にしない方が良い。みんなは、知らず知らずのうちに、みんなのことを馬鹿にする、自分から馬鹿になるだけになっている。誰も一人もみんなのことを馬鹿に出来ないようにすると、みんなはすぐに正常な社会になる。

平等、自発的な善、そしてみんなのものは、悪いとは言うが、昔はそういうものが良い人間しか居なかった。自分のように、昔はそういう思想で楽しく良くなっていた。みんなの平等で、みんなのインフラとみんなのルールをみんなで決めること。そこから、自発的な善をし、自発的にコミュニティを作る。平等は、一体感と高揚感によって、自分が自分自身を導くようになる。その上で、成果を共有する。普通は、そういう発想が楽しい。

人間の持つ最初の理性とは、「後先を良く考えて行うこと」だ。後先を考えて行う。その上で、何をどうやったらそのことが出来るのかを考える。どのようにすれば、どのような結果になり、それが人々から見てどのように見えるのかを知る。その上で、さまざまな結果を予測すれば、原理を知ることが出来る。そのためには、数学的な論理性が必要だ。だが、それは学校でつくものではなく、人間の持つ最初の理性である、「後先を考えること」に尽きるのである。

昔は、「文明的な歴史」のようなことを書いていた。人々が何を思い、何を実現しようとし、どこから発展し、どこで停滞し、どこで革命が起き、古代へと戻り、そしてどこで繁栄するか、そのようなことを書いていた。ルネサンスや古典主義、哲学のような思想の変転のことを良く考えていた。そして、それは自由で、全て精神論だった。精神の過程をヘーゲルのように、あらゆる全てを包括して文章にしていた。そのように、宇宙の全てが分かっていた。むしろ、全てをある意味で創造していたのだ。