新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-06=

形式にばかり囚われて、最初の一歩を踏む出せない人が居る。明らかにそれを選択した方が正しいのに、それを出来ない人が居る。

僕は、それは、学校で教える「デカルト的算術法」を正しいと思っているからだと思う。

数学とは、それぞれが自由に考えるための自由で論理的な考え方であり、また数という考え方の性質についてそれぞれがそれぞれの流儀で発見した成果の共有である。

決して権威に従うものではなく、デカルト的な計算法を正しい数学だと崇拝するものではない。

ある種のジレンマのような、「学校の数学には意味がないのに、いつまでも学校の数学をやっている」人間には、自分で自由に考え、自由に行動し、自由に試し、自由に生きる、「己で考え己で生きる力」がなくなってしまう。

「あえて賢かれ。自分の力で理性を使う勇気を持て。」といったのは、カントだったか。どんなにショボい数学でも良いから、学校の数学ではなく、自分で考えた自由な数学を作ってほしい。それを人は偉大な体系的先駆者の数学者と呼ぶだろう。

数学とは、ただ値を計算で出すだけのものではないし、全体の面積と方向の差分を考えるだけのものではないと僕は思う。もっと、数という考え方を豊かに行使した、「学校という枠組みではない数学」を、僕は自由に考えてほしいと思う。特に、計算の方式にも、概念的な考え方にも、数の表し方にも、論理の成り立たせ方にも、方法の考え方にも、僕はもっと豊かな考え方が、現在の学校以外の方法と新しい枠組みから、作ること、考えることが出来るのではないかと思う。