新・日記2に戻る | 2018年4月の日記に戻る

=2018-04-22=

昔の自分は、経験から、正しい生き方とは何かを考えていた。

今の自分の思う、正しい生き方を書く。

相手の自由を尊重すること。

相手の立場に立って考えること。

相手を自由にすること。

自分も自由に生きること。

相手の自由を奪わないこと。

相手の自由に任せること。

自分の力を相手の自由に委ねること。

相手のことを自分のこと以上に信頼すること。

相手を、従える対象ではなく、教わる対象であると考えること。

神を信じること。

神を信頼すること。

全てのことを神に委ねること。

神と同等か、それ以上の存在として、神のビジョンを悟り、地上の全てを知り尽くした、覚者としての仏の教えを信じること。

哲学、思想、学問、スキルなどの分野で、全てのことを包括的に知り、マスターできるまでそのことを続けること。

忍耐は必要だが、耐え忍ぶのではなく、遊ぶような軽い気持ちで、いつまでもそのことを続けること。

今の自分のやっている、目の前にあることを頑張ること。

これが、僕の思う正しい生き方である。

環境から自由になって考えていた。環境から自由になることを、頭の中で何度も再体験した。

世界のことを再考すること。

一人の指導者が全てのことを把握することは出来ない。可能性を作るためには、多様性の中での協力が必要である。

考えや考え方がどこから生まれるのかを知ること。

思考をたくさんすることで、正しい思考法と正しい考え方を知った。

弁論術からコミュニケーションを知り、人々との会話から人間関係を知ることで、精神のマスターになった。

相手が自由になるように導け。相手が本当に分かるように、情報、認識、手段、そして道筋を辿って考えられるような明確な考え方と、考える材料と環境を与えよ。そのために、手段と知識と経験を整備せよ。人々が分かるように、正しく導き、促してやることで、自発的なやりとりから世界を変えられる。それが「自然な世界変革」である。

指導者を生み出すためには、自由に行動できる環境と、理性が伴った経験が必要であり、そのためには、経験を自由に与えると同時に、自分でこの世界を考えられるために必要な情報と知識を与える必要がある。それは、自分がIT/ICT技術の中で、さまざまな行動を自分の判断で出来て、情報を取捨選択し、人々の社会における声や意見を自分で聞いて、人々に何をしたら良いのかを自分の経験から明確に考えられる、そうした「社会を作るビジョンと行動力・判断力」が必要だ。

昔の自分は、自由な中でどのような考え方をすれば分かるか、指導者がどのようにしたら社会から生まれ、責任を持った王となるか、良く分かっていた。それをメインに文章を書いていた。

感情と想像力の裏側には神が居て、今の自分の体験のことを客観的かつ絶対的に分かっている。だが、人間は今まで自分の経験したことしか分からない。しかし、人間が神に近づけないわけではなく、人々と触れ合う中で人は神の精神性を知る。神を信じている人間には、そうした経験から、神に近づき、神へと達した人間が多い。絶望の世界になっても、神を信じている人間は絶望を乗り越えられる。神とはそういう、心の奥底に居る絶対者であり、仏教で仏とされている存在と何も変わらない。一つ違うのは、神とはある意味で個人の「神」を指すこともある、ということだ。

経験から、神の慈悲深い平等な愛を知ることは出来る。それはある意味で平等で、共産的だが、人々のことを全員慈しむ、最高の愛である。経験を重ねるうちに、人は愛と同化し、愛そのものへとなっていく。経験的な境地でも、理性的な境地でも、精神的な境地でも、愛は一番優れたものであり、それは自分が善良な正義であると証明する、今までに感じた全てのものに対する「愛」として生まれる。全ての経験、全ての存在、全ての視点、全ての場所、それらが愛であり、全ての精神は愛から形作られている。この世界のある、全てのものは愛である。

愛とは何なのか。それは、人を愛する気持ちである。それは、人に見返りを求めず、人が喜んでくれることに喜びを感じ、人々が分かってくれることに感謝し、人々を陥れたり傷つけたりしたことに後悔し、人々とともに生きることを幸せだとし、人々が自分に逆らうことを言ってもそれを自分の不徳とし、迫害者や敵を自分の味方にするように努力し、最終的に全てが救われた世界になるまで、永い間待つことである。それを、僕は「愛」とする。これは、神の愛でも仏の慈悲でもない。この全てを慈しむ最高の愛のことを、「在導の創愛」としよう。

自由は愛ではない。自分勝手に人々を支配する自由を行使し、人々の自由を奪う人間は、逆に人々に支配され、自分の自由を失う。愛とは、自分の自由を自分から捨てて、人々の自由のために努力することである。それこそ、最高の自由である。

人々の自由を奪えば、自分の自由も奪われる。相手の自由にすれば、自分も自由を得られる。単純だが、それが真理だ。決して、不自由もそれはそれで賢いわけではない。選択肢やイデアや職業があるわけではない。自由を奪う人間は悪人であり、支配者は悪の極みである。悪人には、神の導きによって起きる、自己破滅の道しかないのだ。

自由の名の下に、色んなことを考えなさい。必要な考え方は一つだけで、「相手の自由を許せば、自分の自由が得られる」ということだけだ。学習から経験まで、あるいは手段から社会実現まで、自由を考えなさい。そこからあらゆる科学と精神が生まれ、人々の救い方全てを知ることができ、きっと可能性から人生の高みへと登ることが出来るだろう。

原因と結果を考えなさい。因果性を考えることで、物理的な変化のプロセスが分かる。この世界が何を目的に行われているのか、どんな原因がどんな結果を生み出しているのか、そこで本質は何なのか、考えることで、あらゆる全てを論理的に考えられる。それを行うためにどうする必要があるだろうか?人々を救うため、人間を賢くするために何が出来るだろうか?幸福と実現をどのように行えば、成功できるだろうか?試行錯誤を繰り返すことで、マスターの哲学者へと一歩一歩近づいていく。最後には社会の全てを知り、哲学的な発想全てを吸収し、あらゆる全てを知り尽くし、創造し、解決できる人間になるだろう。その上で、王となって人々を導いて欲しい。あなたは精神のマスターだ。

僕が社会全ての労働をしたといつも言っているのは、社会の労働者やIT業界の生の声を聞いて、そこまで経験と知識が増え、分かっていることや出来ることが増えたのを言っているだけで、本当は社会経験なんかしていない。だが、みんなにも、同じことをしてほしい。この世界における、さまざまな労働の体験を吸収してほしい。そこから、自然に世界を救えるぐらいの思考力がつく。人々の声を聞くことで、人々が何を分かっていて、何が分かっていないのか、自然にすっきりと気付くことが出来る。社会はそこから変わっていくだろう。

ありえない仮想世界を精神の中に創ることで、全ての経験や人間を分かっていた。最近、そういうものが消えてなくなったが、昔の自分は仮想世界の創造によって、この世界全ての制度や認識を知っているような、そういう宇宙人のような人間だった。成長の全てを吸収して、ソクラテスが1000人居るような、サルトルのような人間になっていた。

僕は、ヨーロッパの白人が開放的なのは、ヨーロッパ大陸と地中海の地域の特性があると思う。巨大なヨーロッパ大陸にさまざまな国があり、陸と海で繋がっていることで、交易が盛んになるとともに多様性が生まれ、異文化と人々の往来に寛容な国民性が生まれた。戦争ばかりしても、ローマ帝国以来一つになることはあまり無かった。それに対して日本は、東の果て、辺境に日本海と太平洋に阻まれながら、一つだけ小さな島として存在し、交易は巨大国家の中国や朝鮮に依存している。だから、閉鎖的で、外国人にも不寛容な人々が生まれた。僕が思うに、最近のヨーロッパやアメリカは、EUによって日本と同じになっている。日本のように閉鎖的になり、外国人の移民やテロリストに不寛容な地域になっている。ある意味では、日本の方が先を行っているのかもしれない。これから先、日本が中国や韓国などのグローバル主義によって、アジアにおけるアメリカのような立場になって、「アジア全体の交易と往来」に寛容的になるかもしれない。その時、科学や芸術や経済の分野で勝つことの出来る国にきっとなるだろう。過去に開放的だったが、現在では閉鎖的になったヨーロッパやアメリカに勝つために出来ることは、中国やインドなどと交わり、大きな「アジア連邦」を作ることではないかと、僕は思う。

僕が思うに、本当に日本は世界全体の先を行っているところがある。特に、「共産的」な部分で先を行っている。江戸時代の100万都市江戸の生活を見ていると、とても共産的な楽園のような世界を既にやっている。他方では、とても強い侍の精神性を持っているし、明治維新などではアジアの封建社会から西欧文明の近代国家へと大変貌を遂げている。僕は日本は、共産的というよりも、オープンソース的だと思う。個人の力を大切にしながら、同時にみんなの秩序を作り上げて、みんなで協力する環境とシステムを作り上げる、そういうところがオープンソースと良く似ている。僕は、日本が大好きだが、この国はオープン国家だ。オープン国家と呼んでも、相応しいと思う。

日本人は、マスコミの報道もあって、北朝鮮を独裁国家の貧民社会だと思っているが、確かにそれは正しいが、むしろ、北朝鮮はカルト国家だ。全て上に従い、総書記を神だと思っている。完全に、神に従うようにしている。ハングルが読める韓国人は、それに騙されている。本当に首長様が神だと、韓国人も思っているからだ。一度、どうにかして潰すためには、経済政策をするよりも、どうにかして洗脳を解いた方が良い。日本人は貧民に食べ物を与えれば良いと言うが、そうではない。北朝鮮は一度、カルト信仰をやめるしかないだろう。上のすることには何にでも従い、盲目的に従うことしか出来ない。洗脳されているように見えるのはそのためで、国民はただ綺麗事を言わされているのではなく、本当に盲信状態になっている。

北朝鮮のような国は多い。日本も、大日本帝国の時代はそういう国だったし、ヨーロッパも中世の長い時代の間、神を信じていた。神を信じないものを処刑し、ユグノーなどによる宗教戦争などでカトリック教徒とプロテスタントが争った。だが、イギリスやフランスは早い段階で新しい人文主義的な自由と近代化を手にした。人々は神を恐れていたのをやめ、自分の力で理性を用いるようになった。ドイツなどは、そうしたものを全部ユダヤ人になすりつけようとしたが、結果的には自由が勝った。北朝鮮も、一度人文主義のように、自分の力で理性を用いることを恐れないようにしていかなければならない。金正恩(キムジョンウン)が一番恐れているのはそれで、人民が自分の力で考えるようになるのを恐れている。日本などの場合は、アメリカに戦争で負けたことで、アメリカによる民主主義の新しい体制になって、良い国になったが、北朝鮮も同じようになるとは保証できない。早い段階で北朝鮮の人々を啓蒙出来るように、現代のイギリス人やフランス人に協力してもらうことも良いことかもしれない。

本当は、金正恩が考えていることも同じで、なんとかして中世のようなカルト国家を近代的な経済国家にしたい。きっと、金正恩もそれを考えている。アメリカや日本は、そこで北朝鮮と協力すれば、友好関係を築けるかもしれない。「あなたが考えているのと同じように、我々もあなたの国を近代国家に生まれ変わらせたい」と言えば良い。戦争の武力や経済政策で圧力をかけるよりも、その方が良い。見返りとしては、完全に日本のような憲法を裁定して、民主主義の体制へと転換する。その代り、北朝鮮を優れた経済国家にして、人民を豊かにする。それをどうにかして交渉すれば、北朝鮮問題はきっと、解決するだろう。

ある意味、ミサイル開発をやっているのは、人民に「ミサイル以外何も出来ないリーダー」だと思わせてしまう。そこをアメリカが何か批判すれば良いのかもしれない。だが、アメリカも似たようなものだ。世界がどんどん右翼になっているのは、「馬鹿な指導者しか居ない」ということを世界中の国民に対しておおっぴらにしてしまった。この世界は悲惨だ。一度、賢い人間が集まって、世界を変えた方が良い。この世界は馬鹿だ。誰もが近代性を望みながら、近代性の歪みの中で溺れている。どうにかして救い出さないと、溺死してしまうだろう。

自分は、精神分析の中での戦いを経験したことがあるだけで、本当は何にも賢くない人間だ。風景デッサンの本を見ても、数学の本を見ても、高校の参考書を見ても、プログラミング入門の本を見ても、全部自分よりはるかに賢い。だが、自分も自分で賢かった。もう、世界全部のことをなぜか既に分かっている。自分でも、自分がどうして賢いのか分からない。みんなは、政治家のような人間しか居ない。安倍首相なんか、ただ自衛隊を批判する左翼が嫌いなだけで、それだけでやっている。馬鹿だと思う。僕は賢くはないが、みんなも賢くない。見ていると、僕は容姿はニキビだらけだし、この世の者ではないかのような顔をしている。醜いだけではなく、人間ではないかのような顔をしている。

あまり意味がないが、みんなは賢くない。パソコンを見て、Linuxだと思う人間は居ない。パソコンなんか、普通IEとWindows Media Playerだ。そんな馬鹿なものをパソコンと言う。Linuxなんか、変わらない。システムエンジニアなんか、工場のライン処理を行う巨大システムを書いているだけで、Linuxなんか誰にも分からない。

つまらない。何も出来なくなった。本当は、絵が上手くなりたいわけではない。むしろ、風景デッサンやデザイン入門の本を見ていると、自分には全く出来ない分野ではないかと思ってしまう。得意なことは文章を書くことだが、笑えて泣ける小説なんか中学生の作家でも書けるのに、自分は何も書けていない。大学もLinuxも初歩の初歩で、何も出来ていない。だが、結構良い人生だったのは確かで、親は引き篭もりのまま何もしていないように見えているが、本当は僕はネットで議論を経験し、Linuxの仕組みを学び、戦いの中で神と対話し、文章を書き、そしてさまざまなことを自力で勉強し、分からないことや困難なことを自分で考えて解決した人間だ。最高の人生とは言わないが、良い人生だった。

本当は、ネットでさまざまな人と苦労を分かち合っている時代が一番平等で夢と理想のある良い人間だった。あの人間に分からないことは無かった。また、最近は、分からなくなりながら国家モデルと人生モデルを作っていたが、あれは一番全てのことを分かっている人間だった。

大人になると、みんなのことが分かる。みんな、何も分かっていない。なぜか、イラレのできる人間とは言うが、そんなにきちんと分かっている人間は少ない。僕はデザイナーになりたいのだから、もっと技や天才を分かった方が良いが、これ以上はイラレの使い方というよりも、絵の上手い描き方になってくるのではないかと思う。イラレの基本的な機能とテクニックは分かった。これ以上は、イラレを使ってどんな絵を描けば良いか、ということになる。必然的に、デッサンの練習になる。だから、デッサンのことをやりたいと少し思って、デッサンの本を少し見ている。だが、一見見るととても難しく見える。習得してしまえば簡単なのかもしれない。

自分は心の中で全てのことを完全にきちんと分かっている。そのありえない知性が、今でも続いている。どんなことであっても、簡単に分かるようになった。だが、病気を治し続けるのはとても辛く、治ったのは最近の最近になってからだ。それでも、諦めなかった。一度失敗してしまえば、あとは同じ失敗を調整することで成功する。だが、本当は失敗をしない人間になりたい。だが、それはまだまだ出来ない。いつまでも失敗し、それで成功する。それが、最近の僕の暗闇のような光の人生だ。